二章:ジェカの少女③



 アナベルたちが元の部屋に向かうと、廊下からでも楽しそうな笑い声が聞こえた。


「あははは」


 扉を開けると、頭の上を猿に乗っ取られ慌てふためくディートリヒ、それを見て笑っているミルシュカの姿が見えた。そのうえ、ヴィクトリアはしゃがみこみ、犬にお手をさせている。なんとも混沌とした光景だ。


 ――何をしているんだろう。


 アナベルは冷淡な視線を向ける。ジークハルトに続いて部屋に入ると、二匹の動物は体を震わした。それから目にも止まらぬ速さで主の下に戻った。


「待たせたな」


 責任者が戻ってきたことで、ジェカの少女も笑みを引っ込め、姿勢を正す。ジークハルトは彼女の向かいのソファに腰を下ろす。


「兵士からも話を聞かせてもらった」


 その言葉に、彼女の体と表情が強張る。それからどこか拗ねたように唇を尖らせた。


「あなたも、あたしが勘違いしてるって言うの?」


 それは、もしかしたら兵士から何度も言われた言葉なのだろう。誰にも自分の言うことを信じてもらえないことに、彼女は傷ついているのかもしれない。


 ジークハルトは迷いなく、言い切る。


「いいや。私は君の言うことを信じる」


 その言葉に少女は目を見開いた。見た目に反してお人好しで善人な青年は淡々と、しかし、真摯に言葉を紡ぐ。

 

「君はエッダが偽物だと言い切った。勘違いではないんだろう?」

「――うん」


 返ってきた声は迷いがなかった。


「私が会ったエッダはあの子じゃない」

「なら、我々がすべきことは一つだ。この不可思議な状況について調査を行う。再び、レルヒェ村に兵士を送り、何が起きているのか必ず解明する。約束しよう」

「ありがとうございます」


 ミルシュカは深々と頭を下げた。顔をあげない彼女に、ジークハルトは声をかけた。


「最後に、一つ聞いておきたいことがある」


 ミルシュカは頭をあげる。


「はい」

「君がレルヒェ村に戻ってきたのは用事を思い出したからだと言ったな」


 彼女は表情を固まらせる。それでも、ジークハルトは言葉を続けた。


「ヴァルムハーフェンからレルヒェ村まで、二日かかったそうだな。すぐに引き返したとしても往復四日だ。船に乗り遅れはしないが、何か異常事態イレギュラーがあれば間に合わなくなるかもしれない。それなのに、君は両親にも秘密でレルヒェ村に戻ってきた。そうしてまで、戻らないといけなかった用事とは一体何だ?」

「…………これを渡したかったの」


 そう言って、少女が鞄から取り出したのは――貝殻だ。彼女の手と同じくらいの大きなもの。


「あたし、エッダにひどいこと言っちゃったんだ。謝るのと……伝えたいことがあって、戻ってきたの」


 肩を落とし、項垂れたミルシュカは悲痛そうな表情で目を閉じる。


「この国を出たら、早くても四、五年は戻ってこない。だから、その前にエッダに謝りたかったんだ。……でも、それもきっと難しいね。すぐ戻るつもりだったから。これ以上は残っていられない」


 諦念した風に彼女は言う。それから貝殻をジークハルトに差し出した。


「だから、せめて、代わりにエッダに渡してもらえないですか?」


 しばらく彼は貝殻と少女をじっと見つめたままだった。それから、無言で貝殻を受け取る。


「よろしくお願いします」


 ミルシュカは安堵したように笑うと、ペコリと頭を下げた。その言葉には反応せず、ジークハルトは窓の外を一度見た。


「今から出発しても、日没までに次の町に到着するのは難しいだろう」


 外はまだ明るいが、太陽の位置は大分低くなっている。今から出発するのは賢明ではない。


「今夜は駐屯地ここに泊まるといい。部屋を用意しよう」


 その後、ディートリヒが呼んだ兵士に連れられ、ミルシュカは部屋を出て行った。別れ際、元帥――と一応アナベル――に頭を下げ、不在時に相手をしてくれていた副官と侍女には手を振っていった。


(あとは兵士がレルヒェ村の調査を行うだけですね)


 どれほど日数がかかるかは不明だが、軍の介入があれば謎は解明されることだろう。そして、元帥が直接命を出した以上、その報告は必ず彼の下へ届く。アナベルもいずれ真実を知ることは出来るはずだ。この件はこれで終わり。――そう思っていた。



 ◆



「起きて」


 ヴィクトリアに体を揺り起こされたとき、周囲はまだ薄暗かった。彼女の手元の角灯ランタンだけが柔らかく周囲を照らす。


「こんな早くにどうしたんですかぁ?」


 大きく欠伸をしながら、ヴィクトリアに訊ねる。彼女は淡々と答える。


「ジークハルト様が呼んでる。これに着替えて」


 そう言って、彼女は何かを差し出してきた。何かも分からないまま、それを受け取る。


「伝言。誰にも見つからないように馬小屋へ来て」


 彼女はそれだけ言い残すと部屋を出て行った。一人、アナベルだけが残される。手渡されたものに目を落とす。


 それはアナベルが持ってきた着替えだ。しかも、軍服でなく私服として持ってきたワンピース。そのことに嫌な予感がした。


 それでも、ジークハルトからの呼び出しを無視し、二度寝をするという選択肢はない。仕方なく、服に着替え、部屋を抜け出す。


 東の空が薄明るい。日の出も近いようだった。


 まだ夜と朝の境の時間帯に起きているのは見張りの兵士ぐらいだ。彼らの目に触れないように通路を選び、馬小屋を目指す。


 そこには既に銀髪の青年の姿があった。


 アナベルと同じく、軍服を着ていない。外套マントの下で分かりにくいが、白い筒型衣チュニックに黒いズボンを履いている。彼の目の前にいる愛馬には鞍がつけられていた。


 ――嫌な予感が確信へと変わる。


「まさかレルヒェ村に向かうなんて言うんじゃありませんよね?」

「ああ」


 開口一番、そう尋ねると肯定が返ってきた。あまりのことに手の甲を額に当て、よろめく。なんとか踏みとどまると、大きく息を吸った。


「そんなの――っ」


 思わず大声をあげると、ジークハルトは厳しい表情で口元に人差し指をあてた。顔を顰めつつ、声を落とす。


「――そんなの、ここの兵士ひとたちにやらせればいいでしょう」

「本来ならそうだが、時間がない」


 アナベルは首を傾げる。


「そうですよ。時間がないんです。私たちはフェルディナント軍医官たちが戻ってきたらここを出発しないといけないんですよ」

「時間がないのは私たちじゃない。ミルシュカだ」


 そのことを問いただす前に、二つの人影が馬小屋に入って来る。それはヴィクトリアと――ミルシュカだった。


「ジークハルト様。ミルシュカをお連れしました」


 思わずまじまじとジェカの少女を見つめてしまった。彼女はどこか窺うような視線を呼び出した張本人に向ける。


「こんな時間に、どうしたんですか?」

「――このままでいいのか」


 いつだって、彼の言葉は飾り気がない。蒼い瞳は真っすぐに少女を映す。


「エッダに会わなくてもいいのか」


 唇を噛みしめるジェカの少女を見て、ようやく、アナベルにもジークハルトの意図が理解できた。


「君が戻ってきたのはエッダに伝えたいことがあったからだろう。貝殻を渡すだけでいいのか? このまま、彼女に会えず、彼女がどうなったかも知らないまま、他国イゾラへ向かっていいのか?」


 ジークハルトはミルシュカに近づく。


「君は本当はどうしたい?」


 昨日の様子を見ても、エッダに会わないまま仲間の元へ戻ることは彼女の本意ではないだろう。今も、その瞳は期待するように揺れているように見える。だが、本心をすぐに口に出さなかったのは、自分勝手を自覚しているからだろうか。


「あたし」


 それでも、彼女は本当の気持ちを吐露した。


「エッダに謝りたい。ちゃんと顔見て、ごめんなさいって」


 胸の奥から吐き出したような声に、ジークハルトは僅かに口元を緩めたように見えた。それから、彼は懐から何かを取り出す。それはミルシュカがエッダに渡してほしいと言った貝殻だった。


「そうか」


 彼は元の持ち主にそれを差し出す。


「なら、本当のエッダに会いに行こう。伝えたいことは自分で伝えるんだ」


 恐る恐る少女は手を伸ばす。そして、大きさな貝殻を受け取り、それを大事そうに抱きしめた。

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