一章:魔力の存在しない国①
――なんて出来事も、今のアナベルには遠い昔のように思える。
「…………遠い。なんて遠いのでしょうか」
魔術機関を出発して、二ヶ月半。
死ぬような思いをして中央砂漠を越え、ようやくアナベルはエーレハイデの国境にさしかかっていた。
当初、養母からの頼み――とあと一応オマケ程度に魔術機関の任務――を強く胸に抱いてアナベルは魔術機関を旅立った。しかし、数えるのが面倒なくらいたくさんの国を越え、山を越え、川を越え、思い出したくもない砂漠を越え、そんなこんなしているうちにかつての想いはどこかで迷子になってしまった。せめて王都に着くまでに帰ってきてほしい。
「本当にお疲れさまでした。ベル様」
馬車の御者台から声をかけてくれたのはエーレハイデの使者の
使者は彼を含めて三人。アナベルは彼らと共に西方から旅をしてきた。残りの二人は魔術機関の調査員の到着を知らせるために、馬で先にエーレハイデに向かっている。
「もうすぐ我がエーレハイデです。砦ではテオバルト将軍が出迎える予定です。王都はまだ先ですが、ベル様の長旅を労うために盛大にもてなす準備をしているはずです」
「ホントですか!」
もてなし、という言葉に反応してしまうのは人間の
「ええ。エーレハイデの料理がベル様のお口に合うといいのですが」
「楽しみにしています!」
長い旅は辛い思いもたくさんしたが、唯一楽しめたのが食事だ。
魔術機関からほとんど出たことのないアナベルには他国の郷土料理は珍しいことこの上ない。どこの国の料理もそれぞれの風習や風土が反映されており、味もどれも満足するものばかりだった。エーレハイデの料理も楽しみで仕方がない。
まだ見ぬエーレハイデの料理に夢膨らませていると、「見えてきました」とハーゲンが前方を指さす。
「あれが我がエーレハイデが誇る西の砦です」
指し示されたのは堅牢な要塞だ。
遠くに見える石の砦には大陸の西で見るような豪華さや華やかさはない。実用性に特化している。戦いの痕がいくつも見える。
砦を見て、ハーゲンは「懐かしいなあ」と嬉しそうに声をあげる。彼にとっては五ヶ月ぶりの帰郷だ。しかし、アナベルは浮かれた表情が出来ない。ハーゲンに問いかける。
「エーレハイデでは、戦が起きるのですか?」
砦の壁には多くの
ハーゲンは困ったように笑ってから、言葉を選ぶように教えてくれる。
「隣国から攻め入られることがたびたびあるんです。今通ってきたナルスとも十年前まで戦をしていました。現在では和平が叶い、平和条約を結んでおりますが……北のスエーヴィルとはずっと戦を繰り返しています」
魔術機関の周辺の国々ではここ数百年以上、国同士の大きな戦争が起きていない。あっても国境線でのちょっとした小競り合いぐらいだ。それも大した規模にはならない。大事になりそうであれば魔術機関が介入するからだ。
西方では平和が保たれている。しかし、砂漠を越えた東方には魔術機関の目も届かない。ハーゲンはこの辺りの国々での戦はそこまで珍しいものではない、と語る。
「でも、ご安心ください。二年前の戦で我が軍がジークハルト殿下の指揮の下、大勝を収めて以来、スエーヴィルの奴らも大人しいもんです。ジークハルト殿下が健在であるうちはエーレハイデに敗北の文字はありません」
「……えっと、ジークハルト殿下って、どなたでしたっけ?」
出発当初、使者たちからエーレハイデの有力者について多少説明を受けた。しかし、二ヶ月半の長い旅路の中でその時の記憶はすっかりアナベルの頭からとんでしまっていた。
ハーゲンは苦笑しながら答えてくれた。
「エーレハイデの王子です。軍を率いる元帥の地位に就いていらっしゃいます。我々下々の人間にも優しく分け隔てなく接してくださる素晴らしいお方です。とても聡明で、軍でも五本の指に入るほどお強いんですよ」
王侯貴族が軍のトップになるのはそこまで珍しくなさそうだが、実際に強さも持ち合わせているとは単純にすごいと感心した。王族ということは城に着いたら顔を合わせる機会があるだろう。粗相のないように今度こそ、名前を憶えておかねばいけない。
(ジークハルト。ジークハルト。ジークハルト)
アナベルは人の名前を覚えるのが得意ではない。何度も頭の中で王子の名前を繰り返す。
砦の説明を受けている間にどんどん馬車は砦に近づいていく。そして、近づくにつれて、アナベルは違和感を感じるようになった。
肌がピリピリするような感覚だ。その感覚は徐々に強くなっていく。
「大丈夫ですか」
アナベルが顔を
「魔術師の方ははエーレハイデに近づくと、不調を訴える方もいるそうなんです」
「……これが、黒鉱石の力ですか」
体感して理解する。これでは、確かにエーレハイデでは魔術が使えないだろう。
砦に近づくにつれて強くなる違和感の原因は──
エーレハイデに近づくにつれて、本来大気に多く存在する魔力が失われていくのが分かる。
本来、大気には多くの魔力が含まれている。魔術師が魔術を行使する際、自身の体内にある魔力をもとに、大気中の魔力を使う。大気中の魔力は魔術を扱う上で必要不可欠なものだ。
しかし、エーレハイデの大気には魔術発動に必要不可欠な魔力がない。いや、極端に薄いと言えばいいのだろうか。ほとんど感じることが出来ない。
フラヴィは『エーレハイデでは魔術が使えない』と言った。確かにここでは魔術が使えないだろう。使えるとすれば、大気の魔力に頼らず、自身の魔力だけで行使出来るものに限定される。そうなると、簡単な治癒魔術だったり、火種をつけるための発火魔術だったり、大したことは出来ない。とてもではないが大規模な魔術――例えば攻撃魔術とか――の発動は出来ないだろう。
『四大』なら魔術が使えると言われた理由がようやく分かった。確かに、通常の魔術師の何百倍の魔力を体内に保持する『四大』であれば、この地でも大規模な魔術を発動出来る。
(なるほど。エーレハイデが王宮魔術師として、『四大』の派遣を求めるのにも納得です)
アナベルは一人で納得する。
「もし、お体に障るようであれば引き返しますが」
「いえ、大丈夫です。問題ありません」
確かに大気の魔力が限りなく薄いとなると体調を崩す魔術師がいてもおかしくなさそうだ。高山病の症状に近いだろう。
しかし、生憎、アナベルはそこまで繊細な身体の持ち主ではない。身体の丈夫さだけなら誰よりも自信がある。
アナベルが笑みを見せると、バーゲンは安堵したように息を漏らす。
「少しでも具合が悪くなったらすぐにおっしゃってください」
そうこうしているうちに、とうとう馬車は砦の門をくぐり抜けた。砦内には何人もの兵士の姿がある。二ヶ月半の長旅の末、ようやくアナベルは目的地であるエーレハイデに到着したのだ。
アナベルはハーゲンが手を差し出す前に、元気よく馬車を下りた。
「到着しました! エーレハイデ!」
二ヶ月半の記憶を振り返ると感慨も
魔術機関を出発したのが一の月の上旬。現在が三の月の下旬だ。大分気温も温かくなっている。まるで西方から来たアナベルを歓迎してくれているかのようだ。
アナベルは浮かんでもいない涙を拭う。
ちなみに目的地は王都なので、正確にはまだ到着ではないことと、帰るときにまた砂漠を越えないといけないことは一旦横に置いておく。
「こちらです」
馬車の近くには元々一緒に旅をしていた別の使者、ロッホスがいた。彼は巨漢で口数が少ないのが特徴だ。
「テオバルト将軍が出迎えに来ているそうです。一度、会っていただけますか」
「はい、勿論です」
馬車を下りたアナベルはロッホスに連れられて砦の奥に進む。ハーゲンは馬車に残った。砦を歩いていると時折、兵士や使用人とすれ違う。彼らは必ずアナベルに一礼をしてくれる。
「ああ、いたいた。ロッホスさん」
向こうから歩いてきたのは見覚えのある背の低い人物だった。三人目の使者、ザシャだ。
「どうした」
「それが、まだ将軍戻ってないらしいっスよ」
「戻ってない、ですか?」
ザシャの言葉に思わず聞き返したのはアナベルだ。
「どこか、お出かけされているんですか?」
タイミングの悪いことだ。ザシャとロッホスは一度顔を見合わせる。
「まあ、ちょっと張り切りすぎちゃったみたいっスね」
張り切るのと戻らないことの因果関係がアナベルには分からない。
そのことを訊ねる前に、「とにかく一度落ち着ける場所に案内するっスよ」とザシャが歩き出した。どこか釈然としない気持ちを抱えながらも、アナベルは大人しく二人についていく。
彼は足を止め、すぐ後ろを歩いていたアナベルは反応が間に合わず、「うわ」と声をあげて彼の背中にぶつかった。ザシャが「あれ?」と声をあげる。
どうかしましたか、と訊ねる前にアナベルも気づく。
アナベル達が向かう先、扉の向こうが妙に騒がしい。魔術機関からの来客を出迎える為に慌ただしい、というわけではなさそうだ。どちらかというと緊迫感のある、
「どうしたんっスかね。ちょっと様子を見てくるっス」
奥の扉へ、ザシャが一人歩き出す。アナベルはロッホスに手で制止されたがために、その場で待つことになった。
ザシャが扉に手をかけようとする。しかし、彼の手がドアノブにかかるより早く、勢いよく扉が開いた。
「――うわっ!」
ザシャは間一髪、後ろに下がって扉との直撃を回避する。少し離れたアナベルの場所からも、一連の流れは確認が出来た。
アナベルは目を瞠る。
――とても驚いた。
しかし、その理由は扉の向こうから突然人が現れた事じゃない。現れた人物が
扉の向こうに立っていたのはとんでもなく顔立ちの整った銀髪碧眼の青年だった。
歳は二十歳前後ぐらいだろうか。彼を一言で表すと『絵本の中の王子様』のようであった。一見して育ちの良さ、というか気品を感じる。表情の希薄さは多少冷たそうに見えるが、その程度は欠点とも呼べない。それぐらいの整った容貌だった。
身に着けているのは一般兵より装飾が多い濃紺の軍服だ。ある程度高い地位に就く人物らしい。
アナベルがもう少し夢見がちで、頭がお花畑であったなら「きゃー素敵!」と黄色い声をあげていただろう。しかし、生憎とアナベルにそういう乙女心は存在しない。
(私に絵心があったら、この人の肖像画でも描いて、
魔術機関の男女比率は一対三だ。魔術の素養がある人間は女性の方が圧倒的に多い。そのため、魔術機関の娘たちは慢性的に男に飢えている。
アナベルはそんなことを考えていると、
「どうして西の砦にいるんですか?」
ザシャはポカンと青年を見ている。
――元帥、ということはこの青年が件のジークハルト殿下か。
王子様みたいな外見の
ジークハルトは苦い表情を浮かべる。
「どうしたもこうしたも」
何か言おうとしたジークハルトがアナベルの存在に気づいた。視線が合い、――妙な空気が流れる。
アナベルはとっておきの愛想笑いを浮かべる。だが、ジークハルトは口を閉じて何も言わない。沈黙を何とかしようとしたのはザシャだ。
「ああ、元帥。こちらが魔術機関よりおいでくださった調査員のベルさんっス。聞いてますよね?」
「お初にお目にかかります。ジークハルト殿下」
アナベルは黒い魔術機関の制服の裾を軽く持ち上げ、
砦に王子がいるという話は聞いていなかったが、相手はこの国の重鎮である。ゴマすりやおべっか――もとい、友好な対応をしておいて損はないだろう。王族の機嫌を損ねてしまっては今後のアナベルの待遇がどうなるか分からない。今のところ歓迎してくれているのだから、全力で歓迎してもらいたい。宴が取りやめになったり、寝台の質が下げられては堪ったものじゃない。
ジークハルトはアナベルに近づいてくる。アナベルは頭を下げたまま、名乗った。
「魔術師派遣について調査に参りました、
今回、調査員として赴くのにあたって上層部はアナベルに『ベル』という架空の調査員の証を与えた。
魔術機関の職員の個人名が外に知られることは基本的にない。
しかし、例外的にアナベルの名前は一部西方の王侯貴族であれば知っている。以前開発した、数少ない評価された発明品の一つが王侯貴族の評判を呼び、高値で注文が入るようになったからだ。魔術機関内と違って、外部でのアナベルの評判はすこぶる良い。称賛されていると言っても過言ではない。
アナベルの本名を知る者が旅の途中で出会いでもすれば、面倒なことになりかねない。それを避けるために上層部に偽名を名乗るように指示されたのだ。――偽名ならもっと別の名前を付けた方がいいと思うが、「全く別の名前だとお前が反応できないだろう」とフラヴィに言われ、何も反論が出来なかった。
そのため、ハーゲン達もアナベルの名前はベルだと思っている。
「どうぞお見知りお」
「君が、魔術機関の魔術師なのか」
こちらの挨拶を遮るようにジークハルトは口を開いた。
誰かが喋っているのに言葉を重ねるのは失礼極まりない。この王子は非常識過ぎはしないかと、普段のアナベルなら思っただろう。しかし、そんなことを考える余裕もなかった。
王子の声音は酷く冷たいものだ。こちらを見る視線は厳しい。とてもではないが、歓迎されているようには見えない。
「…………はい、そうです」
アナベルは僅かに緊張しながらも、笑顔を浮かべたまま返事をした。
「魔術師派遣の調査に来たと言ったな」
「はい。公立公正中立の立場にある魔術機関としては
アナベルがそう告げると、ジークハルトは――嗤った。
「調査か。そんなものはせずとも明らかだろう」
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