序章:そして彼女は旅立った③


「…………はい?」


 アナベルは首を傾げる。言われた意味が分からない。


 フラヴィは立ち上がると、本棚から一冊の本を取り出した。表紙には『東方見聞記』と書かれている。ずいぶんと古びた本だ。


「お前はエーレハイデがどういう国か知って――いや、名前も知らなかったな。知っているわけないか」


 彼女は本のページをめくる。そして、とある頁に描かれた絵を指し示した。


「黒鉱石というものがある」


 その挿絵はどうやら鉱石らしい。黒く塗られた石のようなものが描かれている。


「この鉱石というのはエーレハイデにしかない珍しい鉱物でな。不思議なことに魔術を無効化する」


 アナベルは目をみはる。


「魔術を無効化するって、……そんなものが存在するんですか?」

「する――と言われている。私も実物は見たことがないからな。ただ、東方の国々では有名な話らしい。『エーレハイデの地下には魔術を無効化する不思議な石が埋まっている。そのため、エーレハイデ全土では魔術が使えない。魔術師はあの国に近づいてはいけない』と、この本にも記されているな」


 それが本当ならとんでもない話だ。


 魔術の力は絶大なものだ。通常大人十人かかってやっと持ち上げられるような大きな荷物も、魔術を使えば簡単に持ち上げられる。魔術薬や治癒魔術を使えば、医者でも治せないような病気や怪我も治せるし、攻撃魔術を使えば兵士百人を一人で殺すことも難しいことではない。


 それだけの力があれば悪用は容易たやすい。だから、魔術機関が存在するのだ。


 魔術機関は魔術に関する知識の継承と研究、そして管理を行っている。その上で、中立的な機関として魔術師を管理し、力を悪用されないように制御している。各国に王宮魔術師を派遣するのも、牽制と動向の調査の意味合いが強い。


 各国に魔術師がいれば、いたずらに戦争を仕掛けるのは危険な行為だ。下手をすると領土の半分がなくなるような大規模な被害が起きてもおかしくないからだ。


 しかし、派遣される魔術師は魔術機関の意を汲んでいる。彼らは戦争が起きないように抑止力となっているのと同時に、魔術機関にその国の情報を流している。


 だが、魔術を無効化できる鉱石が実在するとなれば、魔術機関の地位は地に落ちる。


 魔術が使えない魔術師は攻撃手段も防衛手段もろくに持ち合わせていない。魔術師は少数派なのだ。どこかの国に万単位の兵をもって攻め込まれたら太刀打ち出来ない。


 国が攻め込んでくることがなかったとして、悪用しようと思う人間は必ずいる。大陸の裏の覇者と呼ばれているのだ。魔術機関に反感を抱く人間は少なくない。そういった人間が黒鉱石を手に入れて、悪事を働かないとも限らない。


「そんな鉱石があるのに、今まで上層部は何も手を打ってこなかったんですか?」

「必要ないと判断しているんだろうな。――この鉱石が効力を発揮するのは地中に埋まっているときだけらしい。空気に触れるとただの石ころと変わらなくなる。過去、どうにかして空気に触れさせずに国外に持ち出そうとした者もいるらしいが、誰一人成功しなかったらしい」

「なるほど。砂漠の向こうの国にそんなものがあっても、西方こっちに持ってこれないんじゃ悪用の仕様がないってわけですね。理解しました。それじゃあ、上層部も動かないわけです」


 アナベルは納得したが、「あれ?」と首を捻る。


「ちょっと待ってください。エーレハイデでは魔術が使えないんですよね? なら、何で機関ウチに魔術師派遣を要請するんですか」


 魔術の使えない魔術師なんてただの一般人だ。いや、魔術以外は専門外の者も多いから一般人以下かもしれない。エーレハイデがわざわざ砂漠を越えた西方の魔術機関に魔術師やくたたずを要請するなんて意味が分からない。


「使者曰く、魔術が使えないのは普通の魔術師の話らしい。それこそ『四大しだい』の称号を持つような強い魔術師ならエーレハイデの地でも魔術行使は可能らしい」

 

 『四大』というのは魔術機関でも四人の魔術師にしか与えられない特別な称号だ。


 『サラマンダー』。『ノーム』。『シルフィード』。『ウンディーネ』。


 魔術機関創立者の四人の弟子の名にあやかったこの称号を得られるのは魔術機関で桁違いの魔力を持つ魔術師のみだ。


 通常、各魔術師の魔力量にはそれほど差はない。人間が持つ魔力量には限界があるためだ。そして、この魔力量というのは五、六歳までに決まり、それ以降どれほど努力しても量が増えることはない。


 しかし、稀に通常の人間にはありえないほど多大な魔力量を持つ人間が現れる。その中でも通常の魔術師の百倍以上の魔力量を持つ者が『四大』に選ばれる。ただし、この称号は名誉職に近い。『四大』だからといって、魔術機関を好き勝手動かせるようになったりはしない。


 ただ、少なからず優遇はされるため、『四大』の多くが要職に就く。その典型がフラヴィだろう。


 彼女も膨大な魔力を持つ『四大』の一人、サラマンダーだ。そのため、他の魔術師からは「サラマンダー様」と呼ばれることもある。


 アナベルはフラヴィの言葉に呆れた。


「つまり、その東方の国は『四大』レベルの魔術師の派遣を要望してるってことですか。そんなの無理に決まってるじゃないですか」


 基本的に『四大』は他国に派遣はされない。


 当然だ。『四大』は普通の兵士が百人以上集まらないと対抗できない普通の魔術師をさらに百人以上集めないと太刀打ちできない。各国に魔術師を派遣している理由が戦争の抑止のためである以上、各国のパワーバランスを崩しかねない能力の高い魔術師を派遣するわけにはいかない。


 もちろん、『四大』が近隣諸国に派遣された例がないわけではないが、それは本当に一時的なものだ。


 王宮魔術師となれば短くても数年、長ければ数十年はその国に滞在することになる。それほどの長期間『四大』が派遣された例はない。そのことは魔術機関では常識だし、西方でもここ七百年の歴史を確認すればすぐに分かることだ。しかし、東方と西方は分断されている。情報の行き来も最低限だ。


(きっと、エーレハイデの王様はそのことをご存じないのでしょうね。可哀想に)


 わざわざ砂漠を越えて使者を送っても、要請書を送ってきた人物の望みは叶わない。アナベルは遠い異国の王様を哀れに思った。


「かと言って公立公正、中立をうたう機関が使者を門前払いするわけにはいかないだろう。上層部は『エーレハイデで調査をしたが『四大』の派遣の必要性がなかった』という体裁が欲しいんだ。既に上層部はエーレハイデの要請に応じる気がない。そこで不真面目で問題のかたまりみたいなお前を派遣しようと決めたらしい」

「はー、なるほど。ある意味適任なわけですね、私は」


 上層部の考えは理解した。反論したい部分がないわけではないが、アナベルがいくら吠えたところで上層部は決定を覆さないだろう。それぐらいは分かる。


 しかし、気に入らないことは気に入らない。


 アナベルはしかめ面をする。どう考えても、いいように使われているようにしか思えない。


「なんだか、嫌な気分ですね」

「不服か」

「私に言うことを聞かせていいのは母様だけですからね。そりゃあ、上層部のババアたちに利用されたら嫌に決まってます」


 アナベルは問題児である。しかし、アナベルは最終的にフラヴィには逆らわない。上層部はそのことをよく理解している。


 わざわざ命令をフラヴィ経由で伝えたのもそういった理由だろう。本来であれば、アナベルの上司は研究員のリーダーに当たる人物だ。彼女がアナベルに東方への派遣を命令しても、アナベルは命令を無視しただろう。そのことが分かっているのだ。そういった抜かりなさがアナベルは気に入らない。


 魔術機関のトップを「ババア」呼ばわりするのは相当口汚い。普段であれば、フラヴィはアナベルの口の悪さをいさめただろう。しかし、このときばかりはフラヴィは何も言わない。目を伏せ、沈黙するばかりだ。


 その様子を見て、アナベルは首をひねった。


「……私がお前を拾ったのは、その方がお前にとって良い生活を送れると思ったからだ」


 フラヴィがポツリと呟く。


「私はお前に求めるのは、年頃の娘らしい平穏な生活を送ってもらうことだけだ。お前は問題ばかり起こして親しい友人の一人もいない。今後、私がいなくなったときのことを考えれば、もう少し丸くなるべきだと口うるさくしているが、お前に私のために何かをしてほしいと望んだことはない。だが、お前が私の頼みを聞いてもいいと思っているのであれば、……一つ、願いを聞いてくれるか」


 今までフラヴィがアナベルに何かを頼んできたことはない。だから、養母が真剣な眼差しを向けてきたことにアナベルは驚いた。


 フラヴィは引き出しから一枚の紙を取り出す。彼女が小さく何かを唱えると、紙は一瞬で燃え上がる。――簡易的な結界魔術だ。


 これで室内で交わされる会話は外に漏れることはない。フラヴィはそれほど重要で、秘密にしておきたい話をしようとしている。


 アナベルは姿勢を正す。フラヴィは再び椅子に座った。


「先代のシルフィードの話は知っているだろう」


 流石のアナベルでも歴代の『四大』の話は知っている。特に直近のシルフィードのことであれば魔術学院卒業時に説明をされたのを覚えている。


 アナベルは頷いた。

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