第5話 2日目 帰宅-前編

 フカフカのベッドで一晩寝たら、ちょっとスッキリした。

 単に時間が経過して、昨日の衝撃が薄れただけかもしれないけど……。


「これから家に帰るよ。寿命が1週間になったってハッキリと母さんに言う」


 この時間なら母さんの出勤前に帰り着けるはず。

 帰宅の準備を済ませた僕は、とっくに身なりの整っている死神に頭を下げた。


「決心がついた、というわけですか」

「昨夜はその……ちょっとはしゃぎすぎた。セレブになったみたいで、テンションが上がってたんだ」

「あの程度でセレブ気分を味わえるなんて、海斗くんは安上がりでいいですね」


 昨夜のあれはセレブとは言わないのか……。


 最後にスイートルームをひと眺めして、街を見下ろす眺望にも別れを告げる。

 重厚なドアを押し開いておとぎの国から廊下へ出ると、死神も一緒に扉をすり抜けてきた。


「ちょ、なんで付いてくるんだよ」

「私も付き添うからに決まってるじゃありませんか」

「やめろよ! 付いてくんな」

 

 死神を連れて帰ったら、母さんに一発でバレてしまう。

 でもその方が、言葉で説明するより早いか?


 なんだか混乱してきた。


「あなたに拒否権はないと、何度も言っているでしょう? あなたが何と言おうと、私は付いていきますよ。面白そうなので」


 死神が薄笑いを浮かべる。

 そうだった、僕の言葉なんて言うだけ無駄だった。


 フカフカの絨毯が敷かれたホテルの廊下を踏みしめながら、僕は死神と一緒に家に向かうしか選択肢はなかった……。



 朽ちかけたボロいアパートに帰り着くと、一気に現実に引き戻される。

 表面の加工がところどころ剥げている玄関ドアの前に立ったら、緊張で身動きが取れなくなった。


「決心がついたんじゃなかったんですか?」

「……うるさい。黙ってろ……」


 死神にはコッソリ言い返したものの、ドアノブに手を伸ばしては引っ込める。


 僕がちっとも踏ん切りをつけられずにいると、背後から死神に突き飛ばされた。


 ――ドンッ!


 ドアに身体を思い切り打ち付ける。


「おい! なにすんだよ!」

「決断できないあなたのために、後押しをさせていただいたのですが何か?」


 死神に憤りをぶつけていると、背後のドアが不意に開いた。


「海斗、帰ってきたの? あなた様は!!!」


 死神のせいで……というかお陰で、僕が今置かれている状況が一瞬で説明できた。


「ただい、ま」


 恐る恐る呼びかけたものの、母さんは死神を見つめたまま愕然としている。

 そして「そんな……」と一言だけ漏らして、足をふらつかせながら奥へと引っ込んでしまった。

 声を掛ける相手を失った僕も、気まずい気分で家に上がった。


「…………」

「…………」

「…………」


 会話もなく、居間のちゃぶ台を囲んでいる三人。

 母さんが無言で淹れた三杯のお茶も、誰一人手を付けていない。


 『何があったの?』とか、『どうして死神が』とか聞いてくれれば『実は……』と答えられるのに、母さんはうつむいて黙っている。

 僕も正座で膝を掴んだまま、何度も口を開きかけては言葉を呑み込む。


 何かきっかけを作ってくれないかと目を向けても、死神は薄笑いを浮かべるだけ。

 沈黙の時間が、ただただゆっくりと過ぎていく。


 母さんはずっと目を瞑ったまま。

 時々大きく息を吸うので怒鳴られるのかと身をすくめるけれど、結局大きく静かに吐き出すだけ。


 そんな二人を見ては、再び足元に視線を落とす。

 その繰り返し。

 何一つ状況は変わらない。


 そんな中、母さんが立ち上がった。

 これで少しは状況が好転するかも……。


「母さん、仕事の時間だから……」


 そう言って背中を向けると、一度も振り返らないまま母さんは出て行った……。



 結局何も言えなかった……。

 ホッとしちゃいけないんだけど、緊張から解き放たれて脱力する。


「何がしたかったんですか?」

「言わなくてもわかるだろ? 勇気が出なくて、何も言えなかったんだよ」


 面白い見世物でも見物していたように、死神は蔑み笑いをしている。

 そして僕は、いつも通りの自己嫌悪で自分が嫌になる。


 家に死神を連れて帰ったら、母さんはきっと泣くか怒ると思ってた。

 実際は沈黙。

 その予想外の行動が、今度は僕を不安にさせる。


 まさか、愛想尽かされたわけじゃないよね……?


「この狭い家ともお別れか……」


 見回せば想い出が詰まった家。というか、思い出しかない家。

 壁に書いた落書きの跡や、ベタベタとシールが貼られたままの冷蔵庫。

 襖に開いた穴にも覚えがあるし、ヒビが入った鏡も僕のせいだ。


 毎日布団を敷く生活が格好悪く感じて、ベッドをねだったこともある。

 自分の部屋を欲しがったことも……。


 思い出に浸っている内に、気が付けばもうお昼。

 お腹が空いてきたので、何かないかと冷蔵庫を開ける。


「うっ……母さん」


 そこにあったのは、ラップが掛けられていたトンカツ。


 フッと、自殺を図った前夜の会話を思い出した。


「ここのところ元気がないけど大丈夫なの?」

「大丈夫、大丈夫」

「ならいいけど……元気出しなさいね」


 やっぱり母さんは、いつも僕のことを考えてくれてた。

 それなのに昨夜の僕は、連絡もせずに……。


 電子レンジで温めて、僕はトンカツにかじりつく。

 いつもみたいにソースをたっぷり掛けて。


「母さん……」


 母さんが仕事から帰ってきたら、今度こそちゃんと話そう。


 絶対にもう迷わない。母さんに今までの感謝の気持ちを伝えるんだ!


 母さんのトンカツは、昨夜のルームサービスよりもずっと美味しかった……。

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