メモリー
目が覚めて、まだ不明瞭な意識のなかで、列車に揺られていることを思い出した。眠気はとうに飛んでいたが、もう少しこのままでいたくて目は開けないでいた。
「ここの席いいかしら?」
不意にかけられた女性の声によって、私の瞑想は妨げられた。私は「ええどうぞ」と答えながら、ボックス席の向かいを勧めた。
彼女が「どうも」と腰を下ろしてから、私は他のボックス席が無人であることに気がついた。それどころか、車内には我々しかいなかった。
どういうつもりだろう、と私は女性の顔色を窺ったが、彼女は微かな笑みを浮かべて自分の膝辺りを見つめていた。解釈のしようがなくてふと車窓を見やると、それで彼女の存在を理解した。
トンネルの中を走る車窓には、黄色い明かりの車内が映っていた。もちろんその中には私もいたが、その向かいに座る女性の姿はなかった。
「貴方はどこへ行くんですか」
こうしてみると、なるほど彼女の声はひやりとしていた。
「――という所です」
「へえ」
ここで会話は途切れた。
やがてトンネルを抜けると、窓の外に一面の海が広がった。墨汁のような濃い海は、眠ったように凪いでいた。
雫を垂らすように、飴色の月は暗い海面に月光を落とした。どこまでも広い空と海の境は不分明で、それはむしろ私に閉塞感を与えた。
同じく外を眺めていた女性に、私は言った。
「貴方はどこへ?」
「どこでしょう」
判然としない答えだった。私に当てさせようとしているようにも聞こえたし、自問ともとれた。我々の会話は途切れ途切れだった。
「深い所へ」
彼女はまたしても分からないことを言った。もう一度問うと、彼女はこんなことを言った。
「どこでもいいんです、深ければ」
再び二人の間に沈黙が流れた。すると、窓を何かが打ちつける音がした。
車窓を見やると、そこには水滴があった。雨でも降り始めたかと窓に顔を近づけると、列車が海面を走っていることが分かった。列車は速度を緩めることなく、海水は窓へぱらぱらと飛び散った。
不意に車両が揺れたかと思うと、車窓から海面が上昇するのが見えた。間もなくして、私は列車が海に潜ろうとしていることに気がついた。
「それじゃ、次で降りるので」
そう言い残して女性は席を立った。
窓の外は暗闇のみだった。まるで月のない夜のように、あらゆるものが混ざって光も音も吸い込んでしまった。
私はまた目をつむった。瞼の裏には先程の女性の姿がまだあった。
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