第60話元譲の策
おれの話を聞き終わると、孟徳は切れ長の目をぎりぎりいっぱいまで開いた。
「……元譲。おまえ、やるな」
おれは嬉しくなってにやけた。
「そうだろう?」
「陣中でも先生を招いて学問した成果が出たな」
「よせよ、かゆくなる」
照れるおれの前で、孟徳が真剣な顔になる。
「では、それぞれに申し渡そう」
「そうだな。それぞれ呼ぶ方がいいな」
まず、間者たちを集めた。
孟徳が話す。
最後まで聞いて、管は言った。
「それがしはもともと江東の生まれ。子供の頃一人で北へ逃げてきたところを白に拾われ、丞相の間者となりました。今こそご恩返しの時と心得ます」
そして不敵に笑った。
「江東に再び潜入いたします」
孟徳とおれは息をするのを忘れた。
江も、石も、顧も、状況を楽しんでいるかのような笑みを浮かべている。
銭が孟徳に自信に満ちた顔を見せる。
「黄蓋に信じ込ませるのです。丞相は黄蓋の降伏を疑っておらぬと」
孟徳が銭の顔を食い入るように見る。
「しかし今、孫国儀が捕らえられ、余の姪への監視が強められている。今潜入いたせばお主らの命はないぞ」
銭は唇に笑みを浮かべたまま答える。
「命をかけるのはいつものこと。我らは黄蓋の兵になりすまし、丞相のもとへ帰還いたしまする」
「ところで、孟徳を逃がす件だが、来た道を戻っても待ち伏せにあう恐れがあるぞ」
おれが考え込むと、管が言った。
「それなら顧が知っています」
顧が管に抗議した。
「管、おれは江東へゆくとさっき言ったばかりだぜ」
とりあわず管は顧に顔を向ける。
「おまえは子供の頃母親と、山づたいに許昌へ向かったよな」
顧が、あっ、と声を上げた。
管は諭した。
「丞相を無事に南郡までお送りするのだ。おまえは江東生まれの中で一番若い。だから若いおまえは李と生き残れ」
顧がうろたえる。
「おまえたちまで死んだらどうするんだ」
石が顧に明るく言った。
「あたしたちの代わりはいる。蘇も、白も、姫も、顔も、安も。心配いらない」
江も晴れ晴れと笑う。
「石と一緒に死ぬのならば本望だ」
石があだっぽい目つきで江を睨んだ。
「死なせないよ、江」
目に涙を薄く浮かべ、孟徳は命じた。
「では行け」
「御意!」
銭、管、石、江は鋭く短く返答し、すぐに駆け去った。
次に文則、文遠、妙才を呼び寄せた。
おれが話し終えると、文則がほっとしたように眉目を緩めた。
「江東を討ち果たせなかったのは残念であるが、正直船に乗らなくて済むというのはありがたい。酔って困り果てた」
文遠に孟徳は命ずる。
「合肥を守れ。曼成と文謙も伴ってゆけ」
曼成とは李典、文謙とは楽進のあざなだ。共におれたちと戦ってきた。文遠は表情を引き締め拱手で承る。
妙才は拳で自分の胸をどんと叩いた。
「任せろ」
三人は笑顔を残して退出した。
最後におれたちは間者の李、子廉、馥、仲康、程軍師を呼んだ。
子廉が入ってきた時、おれも孟徳も驚いた。
おれたちの知る、明るい顔に戻っていたからだ。
「子廉。何があった。目が違う」
孟徳が立ち上がり、子廉の前に立つ。
子廉は孟徳とおれにさっぱりした笑顔を向けた。
「暁雲と馥のおかげだ」
「どういうことだ。それに暁雲とは……この李のことか?」
おれが問うと、子廉はうなずいた。
「そうだ。二人を見ていたら、長年の悩みごとが消えていった」
おれにはいまいちわからない。
しかし孟徳には、合点がいったようだ。
李――暁雲と馥が顔を見合わせてほほえみあう。
孟徳がおれに視線を向ける。おれも孟徳に視線を合わせ、子廉、暁雲、馥に告げた。
「おまえたちに頼みたいことがある。このあと江東側が最後の攻撃をかけてくる。孟徳を先に逃がしたい。共に逃げてくれる者はいるか」
「おれが行く」
子廉がすぐに答えた。おれは孟徳に確かめる。
「孟徳、それでいいか」
孟徳は深くうなずく。
「ああ、それでいい」
本題に移る前におれは息を大きく吸い込んだ。
「それでだ。孟徳の身代わりを頼みたい」
暁雲を見て言うと、覚悟を決めた顔でおれに正対する。
「それがしが身代わりになります」
おれは暁雲に、奥を指で示した。
「では暁雲、丞相と身なりを変えてこい。用意しておいた」
「承知いたしました」
孟徳と暁雲は奥に引っ込んだ。
おれは馥と目を合わせた。
馥はきりっとした顔で応じる。
「馥。おまえは暁雲に同行しろ」
「はい!」
馥は大きな声で返答した。頼もしい限りだ。
子廉が馥の左肩に自分の右手を置いた。馥が子廉を見上げる。
子廉が言った。
「暁雲を守れ」
馥は力強く答えた。
「承知いたしました!」
やがて孟徳と暁雲が現れた。
おれは二度見する。
「も、孟徳が二人いる」
一人は孟徳のいつもの甲冑、もう一人は騎兵の甲冑。見分けがつかない。
馥も目を白黒させている。
唯一動じないのが子廉だ。迷わず騎兵姿の方に歩み寄り、ほほえむ。
「孟徳兄だな」
騎兵がにこりと笑った。
「当たりだ」
「ではこちらが、暁雲どのですか?」
馥がいつもの孟徳に駆け寄る。
「そういうこと」
暁雲が言って、笑う。
おれは孟徳と子廉の肩に手を置いた。
「南郡へ行け」
「わかった。ありがとう、元譲」
「子廉。孟徳を頼んだぞ」
「元譲兄はどうするのだ」
おれは子廉に答えた。
「後始末をする」
子廉が心配そうな目をおれに当てた。
「南郡に来るか?」
「ああ。必ず行く」
孟徳がおれの肩をばしんと叩いた。
「待っているぞ」
おれも孟徳の肩を叩き返す。
「待っておけ」
子廉が孟徳を促した。
「行こう、孟徳兄」
「ああ」
おれは顧を呼んだ。
「顧が案内する。道を知っているそうだ」
顧は気まずそうな顔をして現れた。
最後に孟徳は暁雲と馥に向き直った。
「死ぬなよ」
「はい!」
暁雲と馥は力強い声と表情で答えた。
「参りましょう」
促す顧を先頭に、孟徳と子廉が幕舎から出る。
程軍師がどっしりした声でおれに提案した。
「間者にしゃべらせるのはまずいな。代わりにわしが指図をしよう」
「お願いします、程軍師」
おれが頭を下げると、仲康も言った。
「わしが馥と一緒に暁雲を守ろう」
おれは心底ほっとする。
「それは心強い。頼んだぞ、仲康」
「よろしくお願いいたします、程軍師、許将軍」
暁雲と馥が礼儀正しく一礼した。
程軍師がちらりと若い二人を見ると、仲康がまるで父親のような口調で二人に声をかける。
「おまえたち、程軍師の下知、よく承るのだぞ」
「はいッ!」
これまた元気よく返事をする。程軍師の口元がちょっとだけ緩んだ。
さあ、ここからが、腕の見せ所だぞ。
さて、次の話なのだが、あちこちでそれぞれが動く。だからいつもと変わって恐縮だが、語り手がそれぞれの場面で変わることをお断りしておく。
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