第52話語り手は曹操へ。帝はおれの犬になった

 子孝がおれを訪ねてきたのは夜半だった。

 ここはおれの仕事部屋だ。おとなの男が五人、ぎゅうぎゅう詰めになれば入れる。おれが書き物をする机と椅子が置いてある。仕事机の左右には竹簡を巻いた物が積み上げてある。

 決裁を終えた物はおれの利き手側つまり右隣に、未決の物は左隣に積むことにしている。

 子孝の大きく、厚みのある体が入ると、おれの部屋はとたんに狭くなる。

 子孝は竹簡の山を見渡し、つぶやいた。

「丞相というのは、ものすごい量の仕事を抱えているのだな」

 今年、建安十三年(208)夏六月、帝はおれを丞相に任命した。司空は主に土木や水利を担当するが、丞相の権限はより幅広い。この話を聞いているあなた方の時代では、丞相を「宰相」と訳すことが多いようだ。

「孟徳兄。子廉のことだが」

「ようやく家に帰るようになったと、馥から聞いている」

 曹馥。子廉の長男だ。今年数えで十四歳になる。弓馬の扱いが飛び抜けて巧みで頭も良い。今回の江東攻略が初陣だ。

 子孝が目を丸くした。

「なんだ、もう聞いていたのか。さすがだな」

「これでおれたちが馥や祥の父親代わりをしなくて済む」

 祥は子廉の長女で、今年数えで十一歳。病気がちだが美貌で活発、顔の良い男にめっぽう弱い。

 子孝は手近にあった椅子を引き寄せ、大きな体をそこに下ろす。

「あいつ、人が変わってしまった。ほとんど口も聞かない。実の兄であるおれにもだ」

「おれのことも避けているぞ」

「あんなに慕っていたのに」

「元譲や妙才にも口を聞かないそうだ」

 子孝には黙っていたが、もっと良くない話もおれは聞いている。

 おれの間者に、顧という若い男がいる。

 おれの暗殺計画を仲徳に知らせ、それが縁でおれたち側の間者となった。江東の生まれなので、孫権の陣営の中で内部工作を行う一人に任命した。つい先日、出発したばかりだ。

 その顧と、子廉が、体を交わしあっていたのだ。

 間者たちの間でその事実は公然の秘密となっていた。顧も子廉も務めはいつも通りこなしていたし、務めの間は互いに離れていたため、二人の関係が気づかれにくかったのだ。

 顧がいないので、子廉は家で寝るようになったというわけだ。

 おれにその事実を報告したのは、間者の頭である管だった。無表情に管はおれに告げた。

 ――このまま見逃しておいても、さしさわりはないと存じます。

 おれも同じ考えだった。

 子廉が男が好きだということを、おれの亡き父上は懸念していた。だから早い時期に嫁を取らせた。

 子廉が好いた「男」が「おれ」だったことを、おれは誰にも告げていない。

 子廉がおれを見る、暗くて熱っぽい、ねばつくような視線。思い出すだけで鳥肌が立つ。背筋が寒くなる。

 子孝は積み上げられた竹簡を見た。

「あいつは目つきもあやしくなった。気持ちが悪い」

「同感だ」

「何があったのか」

 おそらく、おれが子廉に目を向けなくなったからだ。李氏が死んで、おれの心は生きることをやめた。子廉の目から明るさが失われたのもその頃からだ。

 だからおれにも責任の一端はある。

 とはいえ、子廉の想いに答えることはできない。おれはそもそも男に興味はない。子廉は血のつながった身内だ。

 同性同士の交合は禁忌ではない。しかしそれは他人同士の場合だけだ。

 吐き捨てるようにおれは子孝に答えた。

「知らん」

「そうだな。聞いても詮ない」

 子孝は立ち上がった。

「邪魔をした」

「そんなことはない。わざわざありがとう」

「いいってことよ。それより孟徳兄、もう寝ろ。明日帝に拝謁すると話していたじゃないか」

 そうだ。

 おれは明日、あのいけすかない孺子に目通りする。

 江東攻略に出発する前の挨拶をするためだ。



 おれは甲冑に身を固め、宮中を歩いている。

 本来であれば帝の前では武装することは許されない。

 しかしここ許昌で、おれたちの軍勢は今すぐにでも出立できるように列を整えている。だから帝に挨拶を終えたら、すぐにおれは馬に乗り、江東を目指す。だからこのいでたちなのだ。

 帝はどんよりとした目でおれを迎えた。

 そして左右に控える臣下たちに命じる。

「下がりやれ」

 臣下たちの目がおれと帝を一往復した。

「操とさしで語らいたい。すぐに済むゆえ」

 臣下たちはおれを横目で見ながら歩き去る。

 帝は玉座を立ち、きざはしを降りた。

 向かい合って立つ。背丈はおれの顎先くらいだ。

 帝の口角が、意地悪く引き上がる。

 その口のまま、言った。

「李氏」

 目の前が、一瞬で暗くなる。

 帝が目を細めた。

「そちがこの許昌で、囲っておったおなご」

 おれの全身から力が抜けた。立っているのに足が消えてなくなったようだ。

「董承が調べたのじゃ。そちを殺すより、そのおなごを殺した方が、効き目があるとな」

 楽しそうに帝は続ける。

「ところがやつはへまをいたした。伽をさせていた童に全部明かしてしもうたのじゃ。その童が程昱に告げ、董承は捕らえられた」

 そして帝はぎりっと歯を食い縛る。

「ほんとうならば朕がそちをくびってくれるところであったのに。そちの命で我が妃は亡うなったのじゃ。朕は今すぐにでも亡うなりたい。董承のやつめ、わたくしがいたしますからと、朕には密書をしたためるだけにさせおった」

 おれの目がやっと、目の前にいる男を見た。それまでは声しか耳に届かなかったのだ。

 董承は自ら、帝に入内させた娘をくびり殺した。それなのにおれが命じたと帝に伝えた。文若が必死にもみ消したのだが、この孺子は聞き流したのに違いない。

「おまえなど――」

「ならば殺されい」

 おれの声を聞いた帝の顔から、さっと血の気が引く。

 冷たく、静かに、おれは帝に告げた。

「臣に死を賜りなされ」

「な――何を申しておる」

「あるいは――」

 おれは帝に目を向けた。

 帝はへなへなと床に尻餅をつく。

 見下ろし、おれは、口調を変えずに続けた。

「ここを御身の、死に場所となされ」

「はっ?」

「今すぐにでも亡うなりたいと仰せになった」

 帝は――この孺子は、とたんにがたがたと震えだした。

「ま――待て。これは言葉のあやというもので朕の本心ではない」

「選ばれい。臣に死を賜るか、ここを死に場所となさるか」

「死にとうない」

 孺子がおれの足元にひれ伏した。

 臣下どもが見れば、腰を抜かしただろう。

「死にとうない……死にとうない……」

 おれはまだこの孺子を見下ろしている。

 孺子は、がばと顔を上げた。その顔には涙と鼻水とよだれがだらだらと垂れている。

「そちのおかげじゃ。そちのおかげで朕は今日まで生きてこられたのじゃ」

 おれは――笑いだした。

 おれの笑い声が宮中に響き渡った。

 何が帝だ。

 これが帝だ。

 こんなやつが帝なのだ。

 こんなやつを中原で暮らす連中はありがたがっている。それがおかしくて仕方ないのだ。

 笑い収め、おれは言った。

「では、行って参ります」

「操」

 孺子がおれの足にすがりついた。

「詫びる。約束しよう」

 ほんとうは蹴り飛ばしたかった。

 だが、次の言葉を聞いて、やめた。

「今後、董承のようなやからが現れたならば、そちに真っ先に知らせをやろう」

 また、おかしくなった。

 この孺子は自ら、おれの犬になったのだ。

 おれは口の片端だけを上げる笑みを投げ落とし、きびすを返した。



 おれたちが江東へ出発したのは、秋七月だ。

 まず、劉表を配下に入れる。

 そこには劉備が居候している。だからやつも義弟もろとも討ち平らげる。

 馬上でおれはにやりと笑う。

 中原をはらい清めるのは、おれたちだ。

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