第51話語り手は郭嘉へ。一番伝えたかったこと

 窓辺に椅子を持ってきて座り、窓枠に両腕を乗せ、私は外を見た。

 家々の屋根がつらなる。その上に広がる空は晴れ、雲が多い。

 大通りに近いところに邸を構えたのにはわけがある。

 私は人に接することが好きだからだ。



 白狼山で袁紹のせがれどもを打ち負かしたあと、私の病状は急に悪くなった。

 暁雲は我が君に願い出た。

「郭軍師の看病をさせてくださいませ」

 我が君はすぐに答えた。

「よかろう。何かあればすぐに余に知らせよ」

 共に働く相手を友人として遇するのが私の流儀だ。間者であったとしても同じ。だから「李」ではなく「暁雲」と呼ぶし、暁雲にも私を「奉孝」と呼ぶように伝えてある。

 暁雲は我が君と、我が君の最愛の女性との間に生まれた一人息子だ。

 劉備が我が君の背後を襲わないという確証をつかみたいと私が依頼すると、劉備の内またにぜい肉がついたことをつかんできてくれた。白狼山では私と共に従軍し、袁紹のせがれどもと烏丸族の軍勢の数を、私がこしらえた火を出す薬を使って正確に知らせてくれた。

 大仕事をなしとげたにも関わらず、暁雲は常に謙虚に振る舞った。そして誰に対しても優しい心づかいを見せた。

 私は暁雲がすっかり気に入り、もっと話したいと思っていた。だから彼の申し出はとても嬉しかった。



 家には居場所がなかった。母は父の部下と密通して腹に赤子を宿し、私の前から姿を消した。

 私は仕官もせずにほうぼう渡り歩いた。

 私の過去を知らない人たちと話したり、酒を飲んだりすることは楽しかった。

 袁紹のもとにいた時もそれなりに友人は作った。しかし袁紹と馬が合わず、我が君のもとへ仕官することにした。

 そんなことを暁雲に語ると、彼は、ぽつりと言った。

「知りませんでした。奉孝どのがそのような思いをなさっていたとは」

 暁雲の憂い顔を見て、私は笑った。そして咳き込む。懐から手巾を出して口にあてがう。

 暁雲が背中をさすってくれた。

 ようやく咳が治まった。手巾を見ると、赤い血が散っている。

「もう、寝台に戻りましょう」

 声をつまらせ、暁雲が私を促す。

「そうだね。このあと我が君もおいでになることだしね」

 暁雲に支えられて寝台に戻り、横になった。暁雲が布団をかけてくれる。

 私の年下の妻、燕氏が、小走りに入ってきた。

「あなた。司空様がお見えになりました」

「ありがとう。お通ししてくれるかい」

 燕氏はかわいらしい丸顔でほほえむ。

「すぐそこにいらっしゃいますよ」

「奉孝」

 我が君の引き締まった長身が戸口に現れた。

 暁雲がひざまずく。私も拱手する。

 我が君は私の寝台に歩み寄った。暁雲がすぐに椅子を用意する。

 座ると、我が君は懐から小さな包みを出した。

「おれの間者、姫が作った。おまえの病状を話したら夜を徹して作り上げてくれた。少しは楽になるはずだ」

 受け取って包みを開くと、小さな丸薬が三つ入っている。

「口の中に入れると溶ける。一日に一粒飲んでくれと話していた」

「感謝に堪えません、我が君」

 私はさっそく一粒口に含んだ。

 その苦さたるや、筆舌に尽くしがたい。しかし丸薬が溶けてなくなると、喉と胸の不快さがさっと消えた。

 我が君の整った顔に、苦悶が浮かぶ。

「あまり話すと疲れるだろう」

「ご心配には及びませんよ。もう少しいらしてくださっても構いませんし」

「それがな」

 言って我が君は微苦笑を見せた。

「他にも来ているのだ」

 私は笑みを浮かべる。

「では、お呼びくださいますか」

 我が君は暁雲に目を向けた。

 うなずき、歩き出そうとした暁雲を見て、私は言った。

「ほんとうにお二人はそっくりですね」

 我が君と暁雲がお互いを睨む。

「孺子」

「助平親父」

 私は吹き出した。

「何ですか、それは」

「ほんとうのことを言ったまでだ」

「ほんとうのことを言ったまでです」

 異口同音に、それも同時に答えるので、私は声を立てて笑ってしまった。

 暁雲は大またで部屋から出た。

 暁雲と入れ替わりに入ってきた面々を見て、私は嬉しさに涙ぐむ。

「奉孝! なんだ、意外と元気そうじゃないか」

 妙才が大きな声で言う。

「妙才、病人の前でそんなでかい声を出すな」

 元譲どのが渋面を作る。

「奉孝どの、お加減はいかがか」

 文則どのは自分の身内を心配するような顔つきだ。

 仲徳どのと公明、文遠どのが私のそばに寄る。

 文若どの、公達どの、公仁どのに儁乂どの、そして仲康も心配顔だ。

 文和どのは皆のあとから遠慮がちに入ってきた。

 あれ、と、私は目を見張る。

「子廉は?」

 妙才が大きな口で大きなため息をつく。

「どこで寝泊まりしてるのかさっぱりわからねえ。家にも帰ってないそうだ」

 公明が痛みをこらえるような顔になる。

 文則どのが言い添える。

「職務はこれまで通り真面目になさっている」

 我が君が入り口に目をやる。

 私は顔をほころばせた。

「子廉」

 入ってきた彼は、暗い目を下に向けている。

 私と目が合うと、わずかにだけれど、ほほえんでくれた。

 きっと彼は、他人には容易に伺い知ることのできない重荷を背負ったのだろう。理由はないけれど私は直感した。

「それにしても……」

 私は皆の前で泣いて笑った。

「嬉しいなあ……」

「一日も早い快復を願っている」

 私の手をしっかりと握り、文若どのが大粒の涙を流す。

 文若どの。仕事熱心なのも、帝をとても大切に思っていることも尊敬する。でもご自分の考えに凝り固まりすぎて、あとあと我が君と衝突しなければいいがなあ。

「奉孝」

 我が君の切れ長の目に涙が光り、こぼれ落ちる。

「一緒に、江東攻略に行くぞ」

 私は我が君の目元に指を伸ばして、涙をぬぐってさしあげた。

「もちろんですよ、我が君」

 言い終わった時、咳き込んだ。手のひらで口を押さえたけれど間に合わない。

 皆の目線が私に突き刺さる。

 血がぼたぼたと垂れた。

「奉孝!」

 我が君の白い手が私の血を受ける。

 暁雲が飛んできた。すぐさま手巾を差し出す。

「奉孝!」

 我が君の悲痛な叫びが聞こえる。

 どうしてだろう、すぐそばにおられるのに、もう、その声は遠い。

 私の胸は締めつけられる。

 もっとそばにいたいのに。我が君の、暁雲の、そして……皆のそばに。

 私は顔を上げた。

 我が君の、暁雲の、皆の、今にも慟哭の声を上げそうな顔、顔、顔。

 皆の顔が、ぼやける。

 最後の力を振りしぼり、私は言った。

「劉表は……わずらっている……」

 燕氏と、息子の奕が駆けつけた。私の血を見て、立ち止まる。

「やつが死ねば……劉備たちは動きます……追撃してください……」

 また血を吐いた。

「孫権の家臣たちの多くは許昌を見ている……帝に従う……つまり我が君に従う方がよいと考えております。しかし……」

「もういい! 奉孝!」

 我が君が涙を流して叫ぶ。

「若手は徹底抗戦を主張するでしょう……孫権も若い……彼らになびき、戦になることは必定……」

 あと少し。あと少しで伝え終わる。

「船戦は、敵が得意とします……するのであれば最低限になさいませ……劉表側に水軍はあるけれど……彼の家臣たちがどこまで使えるかわかりませんから……」

 息が苦しい。

「いざという時は……すみやかに引き揚げを……攻略はかなわなかったとしても我らの方が数が多く、統制がとれている……我が君と事を構えるのは百害あって一利なしと江東側は身をもって知るでしょう……だからこの遠征は、その結果に関わらず、意味がある……」

 私は我が君に手を伸ばした。

 我が君は私の手を取り、抱き止める。

「奉孝!」

 私は我が君を抱きしめた。

 そして最高の笑顔を見せる。

 最後の言葉を私は、その場にいる皆に発した。

「中原をはらい清める、それができるのは、曹孟徳と、我ら曹孟徳の男たちだけなんだ」

 ああ、よかった。

 一番伝えたかったことを、言えた。

 私は我が君の広い胸に崩れ落ちた。

 我が君が私を受け止めた胸と腕はとても優しく、そして、温かかった。



 私はここでさよならだ。

 続きは、我が君に語ってもらおう。

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