第17話語り手は徐晃へ。おのれの命より大事な人
拙者はただ、武官の勤めを続けられれば、それでよかった。
主がどのような人物であろうが、構わない。そう思っていた。
拙者のその考えを、根本から全力でくつがえした男がいる。
「彼」が、のちに拙者の同僚となるとは。
そして「彼」の従兄を、拙者が、主君と仰ぐことになるとは。
拙者の名は徐晃、あざなは公明。
拙者は今、長安にいる。
昔、漢の高祖は、ここを都とした。
王莽が新を建てた時も、都は長安のままだった。
光武帝が王莽を破り、漢を復活させ、洛陽を新たな都に定めるまで、ここは、帝がおわす都だった。
今も長安に、帝はいる。朝臣もいる。
董卓が、無理やり、つれてきたからだ。
そして拙者も、騎都尉の任についていた。
騎都尉とは、賊を討伐するために置かれる役目だ。黄巾賊が暴れまわっていたから、拙者のように騎都尉に任じられる男は、たくさんいた。
そして董卓がやって来た。
朝廷を、董卓が、牛耳った。
帝も、董卓の手の内に入った。
帝とはいえ、まだ十にもならない子供だ。本人にも、どうすることもできなかっただろう。
ちょうど騎都尉を束ねるよう、董卓から命ぜられていたのが楊奉だったため、拙者は今もなお彼の下についているだけだ。
拙者はその頃、まだ二十と少しの若造だった。
戦で手柄を立てたわけでもない若造はただ、主に従うしかない。
同じく朝廷に仕えていた袁紹や曹操、袁術は、さっさと洛陽から脱出し、反董卓の兵を挙げた。
それは袁紹や曹操が西園八校尉――帝に一番近い武官だったことと、それなりに由緒ある家柄で、挙兵するに足る金銭を工面できる環境にあったからだろう。
拙者がなにゆえ曹操たちに加わらなかったか?
拙者は河東郡楊県、洛陽の近くの出だ。妻子もそこにいる。
だから逃げるわけにはいかなかったからだ。
正直、女に興味はなかった。
しかし、一族のために子をなせと父母から言われたから、嫁をとり、子をなしただけにすぎない。
妻子を、父母を、危険にさらしてまで、董卓に背くことはできなかった。
曹操たちが洛陽に迫ると聞き、董卓は、帝を長安へ移した。
だから拙者も、長安に向かったわけだ。
曹操と、やつの一族郎党だけが、拙者らを追撃した。
拙者も、迎撃に加わった。
長柄の大刀で戦っていたが、刀の部分が折れた。
急いで戦場から離れた。
住人たちが逃げ去った村に入る。
追っ手が来ないことを確かめ、民家に駆け込んだ。
武具になりそうな物を探す。
斧が一つ、落ちている。
それを、柄に、縄で縛りつけた。
奇妙な武具ができあがった。
それをひっさげ、戦場に戻った。
その途中で、聞こえた。
「孟徳兄!」
孟徳――。
拙者は馬を止めた。
どこかで、聞いた名だ。あざなか?
「孟徳兄!」
その声は、ひどく、胸をかきむしった。
聞いていると、泣きたくなる。
「どこだ! 孟徳兄!」
声が嗄れている。
馬蹄の音が、拙者の前で止まった。
若い武将だった。
同い年くらいか。
切れ長の目、通った鼻筋、整った顔立ちをしている。
日に焼けた頬は、涙に濡れていた。
拙者の胸の内側が、どくん、どくんと、激しく脈打つ。
目と目が合った。
相手の視線が、拙者の胸を刺しつらぬいた。そう感じた。
相手の泣いていた目が、とたんに吊り上がる。
長柄の大刀の切っ先を拙者に据え、叫んだ。
「董卓の兵か」
拙者は、我に返った。
ここは、戦場だ。
そして、相手は、敵だ。
先ほど急ごしらえした長柄の斧を相手に向ける。
「曹操の兵か」
「おれは曹洪、あざなは子廉。曹孟徳の従弟だ」
「拙者は徐晃、あざなは公明。楊奉の兵だ」
名乗り交わすや、拙者たちは打ち合った。
がちっと、刃が噛み合う。
つばぜり合いになった。
決死の形相でも、曹洪は、端整だ。
拙者の口から、言葉が漏れた。
「そんなに、曹操が大事か」
曹洪は拙者を睨み、大声で答えた。
「大事だ!」
「董太師に反逆することは、帝に反逆することなのだぞ?」
「どうでもいいッ」
刃が、大きくはずれた。
横から曹洪の大刀が来る。
上から斧を振り下ろした。
なんと曹洪は、拙者の斬撃を受け止めた。
そこでまた、刃と刃の押し合いが始まる。
すごい力だ。
曹洪の手も震えているが、拙者の手も震える。
曹洪が、拙者を、ぐっ、と睨みつけた。
「帝より、おれには、孟徳兄の方が、大事だ」
がきん、と、斧が払われた。
拙者の手から、柄ごと、斧が飛ぶ。
くるくると宙を回り、斧は、ぐさっと地面に刺さった。
柄が、びいんと震えた。
曹洪は馬を返し、駆け去った。
拙者は、追わなかった。
「なぜ」
また、言葉が口から漏れた。
「なぜ」
帝よりも、大事だと。
それほど曹操を大事にするのは、なぜなのだ。
大事にできるおまえとは、何なのだ。
その問いは、拙者の胸に、まるで焼き印のように押され、消えなかった。
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