20

 ベラは"塔"の一階層に降り、より閉じたような静寂さに包まれるくりやを見回していた。

 奥の壁に沿う、火の跡著しく残るかまどから、食器や鍋の並べて置いてある棚、調理台……芋や野菜の入っている木箱はどれも一杯で、ふとそこに目をくれていればすぐ側に空っぽの桶があることに気付く。何のこともなくただ、水を汲むだけのものに過ぎない。


「これで、いいかな……?」


 ベラは桶を持ち上げつ、独り言ちる。


「まぁ鳥を入れるだけなら箱じゃなくてもいいよね。早く戻らないと……」


 そうして桶を抱えて、プニカのいる三階層に戻るべく足早に厨の扉へ足を進めていく。

 ところが、そのときのこと。


「やあ」


 唐突にベラの後ろから低い声が掛けられたのである。


「ッ!!」


 耳慣れぬ男の声。しかしベラはそれを知っていた。憶えている。それが今聞こえたことに驚き、火花散るように振り返る。

 いつの間にかそこに立っていたのは、るつぼの底を見るときのような濁った深緑の瞳と、若かろうとも老いかろうともとれる銀の髪を持つ男--

 その気配ときたら寒くなるようにおぞましく、ベラはみるみると青ざめていき桶を抱く腕に力が籠もる。あたかも宵闇に迷い込んだ子羊が狼ににらまれているかのようだった。

 しばしの沈黙を裂いて、男が口を開く。


「そんなに固まることはないじゃないか。なぁ? ベラ。夢の中では窓を開けてくれたじゃあないか」


 からかいと見下しとが混ざる愉しさを含め、そう言った。

 ベラはかろうじて、震える唇を言葉の形へ持っていく。


「だ……黙って……」


 モリィが読んでくれた青ぼけた本を思い出し、わななかせてこう続ける。


「欲の"魔"アンゴール……っ」

「ん? んん?」


 そう呼ばれ、男は目を丸くする。


「ずいぶんと古い名を出してくるな。まあ好きに呼ぶといい、ベトゥラ・・・・


 "魔"なる男--アンゴールはベラの名を約することなく口にする。

 縮こまり、固まりながらもベラはそのことにおぞましさと不愉快さと危機感とを憶える。なぜ知っているのか。そもそも夢の中で呼ばれたことも、いったいどこで知ったというのか。 見透かすように、アンゴールは頬をつり上げ、おどけてみせる。


「ははは。君の、君達のことは知っているとも。覗かせてもらったからな。尤も、君達の師に邪魔されていたが。……ああ、別に取って食おうというつもりもなければ、暴力を使うつもりもない。だから少しは警戒を解いてはどうかな?」


 言われたところで、決して気を許すことなくベラは問い返す。


「あなたの目的は何なの?」

「君達の望みに沿うことさ」


 アンゴールは両腕を大げさに広げて即答した。


「例えばベラ、君には"赤の子"、"黒の子"にはない、すべてを終わらせて家族の元へ帰るための力を授けるとかな。どうだ?」

「それであなたに何の得があるっていうの?」

「欲さ」


 地の底から響くような声音で、アンゴールは甘美を語る。


「何者かの欲が俺の力で満たされるときに、放たれるはくからの鳴動……俺はそれを喰うのさ。君の欲も美味そうだ、ベラ。ささやかだがね、それも悪くない」


 "魔"は舌なめずりしながら、ベラの灰色の瞳の奥を見ていた。

 ベラは自分の奥深くまでを覗かれる感覚に怖気立ちながらも、かたく桶を抱く腕から少しずつ力をほどいていった。そして"白の子"は毅然とした言葉で立ち向かう。


「残念だけど、あなたの望みは叶わない。私に夢を見せたのは失敗だった。今、このときこの場所でお師匠様を真似るべきだった。あなたの力は受け取らないから、私の欲はあげないよ」

「けちだな、君は」

「何とでも言って。それで、分かったならとっとと"塔"から出て行って」


 冷ややかに、決して心を開かずベラはアンゴールに告げた。

 男は肩を落とす。しかしその顔ときたら、小憎たらしくいたずらを仕掛けようとする少年のような、にやりと笑う表情だった。


「何も欲は君だけのものではないぞ、ベラ。例えば、いつも朝起きられない子がいるな?」

「……!」


 ベラは強く顔をしかめた。プニカを毒牙にかけようとしているかのような発言への憤りも然り、この男の言葉には某かの裏が常にあるのではないかという、読めそうでいてまったく読むことのできない疑念へのはがゆさもあってのことだった。


「何を、する気なの?」

 

 問いかけはプニカのことのほかを含め、発された。

 それを受けて、アンゴールはくつくつと笑い声を漏らして、答える。


「言っただろう。ただ、美味なる馳走に舌鼓を打ちたいだけだ」


 言うと、一歩二歩と厨の奥へと後ろに下がる。踏むつど、アンゴールの姿はまるで霞の向こうへ消えていくかのように透明に溶けていった。

 その最中、アンゴールは告げる。


『いい加減に腹も減っているのでね。君のお友達のところに行くとするよ--』


 声の余韻それから、厨には静寂が戻る。

 一人残されたベラは青ざめ慌て、腕に抱く桶を放り出して踵を返した。

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