17

 ベラは相変わらず、モリィはいつもより塩気を多く食事に求めた。それほどまでに先のプニカの発言の意味するところを理解できずいるのだった。そして教室に戻ればそのことを忘れるように青ぼけた本に没入した。

 淡々ヨウを捲る細い指先と文字を速々と追う黒の瞳と、静かなる激流のようにどこか鬼気迫るモリィの心中をベラは察し、いたずらっぽく耳打ちする。


「さっきプニカが言ってたのが分かんなくてモリィ、いじけてる」

「わかんないと、いじけちゃうの?」


 翡翠の瞳をぱちぱちと不思議そうに瞬いて、首を傾げるプニカ。

 二人の会話に耳をそばだてていたものか、モリィは本の世界に潜りつつも唇を尖らせ、不満を露わにする。


「別にいじけてはない。知識を進めれば理解できないことも理解できるようになると思っただけ」


 言って、モリィは一頁捲った。

 そんな"黒の子"の姿をベラは羨ましげに見つめる。


「それこそモリィは私より進んでるなぁ」

「当たり前。私が過ごしてきたところには偶然文字を学ぶ文化があったから。でも、いまはベラもその文化圏内。そのうち進む。プニカもね」


 その言葉の意味するところが分からず、ぽかんとするプニカ。それからちょっとだけ顔をしかめた。


「わかんないから私がいじけそうだよー」

「んー。とりあえずいまはプニカにも分かるように話す。いじけないで聞いて。面白いのが載ってるのを見つけた」


 頁を捲る手と文字を追う瞳とを止め、モリィがそう言った。プニカは期待大きくぱぁっと明るい表情になり翡翠の瞳を輝かす。


「なになに~?」

「欲の"魔"に関する昔話があった。分かりやすく読んでみる--」


 --それは古の、ある都にまつわる話である。

 皆、神に愛されるように勤勉で、慈しみの心を持ち働く人々の住まう都であった。

 あるとき一日せわしく働き疲れきっている男がおり、酒を飲む。

 一杯を飲み干し、いつもなら眠りにつこうかというところで、もう一杯の酒の欲に駆られ、杯に半分だけを注いで手に取ってしまった。

 このときこの男は"声"を聞いたのである。もっと酒を注げ、もっと欲を満たせと。

 最初は"声"を拒み抗うも、繰り返して聞くうちいつの間にか瓶が空になっていた。

 それからというもの、男は人の変わったように酒に溺れ、金を使い込み、見境なく女に言い寄り、ついに諍いを起こすまでになる。

 そのことを切っ掛けに都には"声"が蔓延し、堕落と退廃が跋扈するようになってしまった。そして神の怒りにふれ凋落するまで、都の人々は"声"に囚われ、ついぞ心を取り戻すことなどなかった。

 初めは生まれたてのようにほんの小さな"声"が、人の間に共鳴し大きくなっていったのだ。 その"声"の主こそが、人の欲を喰らう"魔"--


「--名前は、アンゴール」


 モリィはその名を呼び、話を続ける。


「このアンゴールが、都が滅びたあとも別の都や国で、いろいろな種類の欲をかき立てて人心を惑わしたみたい。最終的には世界が堕落したあと、見かねて神様がアンゴールを滅ぼすんだけど、滅び際に"人に欲がある限り何度でも現れる"って宣言したって」


 こうして青ぼけた本の内容を掻い摘まんで言葉が結ばれるのを受けて、ベラが難しい顔をする。そして灰色の瞳が徐々に不安を帯びていった。


「もしかすると……」


 おもむろに口を開く、ベラ。


「"塔"の近くにいるのがアンゴールっていう"魔"だったりしてね……」

「ん、私もそれを考えてたところ……」


 瞬く間にモリィも不安の色を覗かせつ、言った。

 --と、そんなとき唐突に一陣の風が吹き、"塔"の窓に叩き付ける。ごとごとと揺れる窓にモリィとベラとはびくりと肩を震わして、青ざめる。


「……まさかね」


 窓の外はよく晴れている。風の余韻に青空の下を恐り見ながら、ベラが呟いた。

 それから教室には沈黙が流れ、三人の子らは普段変哲もなく眺める風景をそれぞれの瞳で凝視していた。

 ただ一人、プニカだけは気楽な表情を浮かべていた。窓の外へ釘付けになっている二人をよそに、"赤の子"は脳天気に口を開く。


「だいじょうぶ! 窓の外、な~んもいないよ!」


 それは一応、確かな事実ではあった。今、窓の外には何も、まして脅威になるようなものは見えない。ただ、一羽のモズが横切るだけに過ぎなかった。


「ね? いても鳥くらい」


 と、プニカは二人に笑顔を向ける。

 そのことでモリィとベラの不安も少しほどけたらしく、表情がやわらいでいく。


「そ、そうだね……」

「ん……すこし考えすぎてたかも」


 二人とも胸を撫で下ろし、モリィは本へと目を落とす。


「じゃあ、気を取り直して、次、面白そうなのがあったらまた話すから--」


 師不在の寂しい自習時間はなお続く。

 "熱の秘法の継承者"の子らが、迫り来る存在に気付かないままに。

 モズがもう一度窓の外を横切った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る