5、セントラル

 ショックを受けている場合じゃない。

 ガラス板に尻尾を向けて、ぼくは歩き出した。ぺたぺたとした硬質な床。足跡はない。あたりにはホコリのにおいが充満していた。学校では感じたことがないにおい。いや、ぼくはいままで、「におい」をほとんど感じてこなかった。慣れない感覚に気分が悪くなりそうだ。

 何度か立ち上がろうとしてみたけど、無駄だった。今の体は二本の足で立って歩けるようにはできていない。ぎくしゃくと四本の足を動かして、なんとかカプセルが並ぶ部屋から出た。

 床に触れるたびにヒヤッとした感触が伝わってくる。靴が欲しかったけど、今の足の形に合う靴を探すのは大変だろう。


 通路が長く伸びている。

 灰色の壁がどこまでも続いているように見えた。頭の位置が低いから、遠くを見るのが大変だ。ぼくはなんとか鼻を上に向けて遠くまで見ようとした。

 そのとき、ふと気づくことがあった……ほんの少しだけ、あのにおいを感じた。

 夢の中で感じたにおい。ぼくを抱きしめてくれた誰かのにおい。


 アオイだ!

 なんでそう思ったのかは分からない。アオイの夢を見たのは一度だけだ。なのに、あのにおいと彼女の姿とが、ぼくのイメージの中で深く結びついていた。

 ぼくは走り出した。まだうまく走れないけど、四つの足を使って、前へ進む。学校の中での体は背骨が上に向かっていたのに、今は床と平行だ。ずっと屈んでいるような感じがして、もどかしい。


 壁に書かれている文字は読むことができた。学校で学んだのと同じ文字だ。

『生活区画』と書かれている方に、ぼくは向かっていた。近づくたびに、アオイのにおいが強まっていく気がした。

 ある部屋の前に辿り着いた。銀色ののっぺりした扉が立ちはだかっている。押してみたけど、扉は開かない……形状からして、たぶん上か下に動くのだろう。

 扉の横には小さな入力装置があった。扉を開けるには、そこにカードをかざす必要があるのだ……学校で学んだ知識からそう推測した。


 この扉の向こうにアオイがいる。

 ぼくは声をかけようと思った。でも、学校での体と違って、喉がうまく動いてくれない。

「キャンッ……」

 という、か細い声を出すのがやっとだった。それでも、何度も呼びかけた。でもダメだった。返事はない。


 他の手がかりを探さないと。ぼくは振り返った。

 壁にはフロアマップが掲げられていた。そのなかの、ひときわ大きな区画にはこんな表示があった――『中核セントラルユニット』。

 マップからして、ぼくがいるこの建物は、文字通りにセントラルユニットを中心に作られている。そこに重要な何かがあるのは間違いない。


 ぼくは中核ユニットに向かった。

 アオイのいた『生活区画』以外に、通れない道はなかった。ふしぎだ。セキュリティは大事だって学校では習ったのに、この建物の中では人の行き来を阻むものはない。

 まるで、誰かが入ってくることなんて想定もしていないかのようだ。

 だからすんなりと中核ユニットに辿り着くことができた。床から天井まで積み上がったいくつもの箱が互いに繋がり合って、ウーウーと作動音をあげていた。

 スーパーコンピュータだ。


 セントラル。アオイはナカムラ先生をそう呼んでいた。想像するに――あの学校があった世界を作り出していたのがいま目の前にあるセントラルであり、ナカムラ先生だったのだろう。

 ぼくを教育していたのは機械だったわけだ。

 意外とは思わなかった。人間というよりも機械と言われたほうが納得できる。

 ぼくたちのことを人間として見ていなかったのは当然だったわけだ。先生は人間じゃなかったし、ぼくだって人間じゃなかった。


 セントラルに繋がれているモニターへ向かう。後ろ足を踏ん張って立ち上がり、前足で装置に触れると、暗転していたモニターが光って情報を表示した。

 それからしばらく、機械のことを知るために前足を動かし続けた。コンピュータの使い方は学校で習っていたけど、実際に使うのははじめてだ。それに、手の形が人間とは違うから、不器用な前足のせいでうまく入力できない。

 でも、少しずつ使い方を覚えていった。やがて、『研究所について』というファイルを見つけた。ぼくはそれを開いて――おおげさに言えば、真実を知ったのだった。

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