第4話
「お話?」
杏奈が優希に聞き返す。いきなり優希に話しかけらて驚いているようだ。
だが、優希は腹を決めてはっきりと話し始めた。
「杏奈さん、辛くありませんか?好きでもない人とそういうことをするのは…」
「…、大丈夫よ、別に…、あなたは嫌じゃないの?」
「僕は嫌ではないですよ。でも…、お互いのことを知らないのにいきなり始めるのは正直違和感があります。」
優希は、ここでお互いの心を開いていくことで何か物事が良い方向に進んでいくのではないかと思っていた。
そこで杏奈が自分のことを話しやすいように誘導しようとしたのだが、杏奈は優希の下手くそな誘導に引っかかるような女性ではなかったようだ。
「悪いけど、あなたにわざわざ自分のことを話す気はないの。面倒臭いし、無駄だから。とにかく、私たちが今するべきことは子作りよ、しっかり食べてよく寝て、体力をつけておきなさい。」
杏奈は優希に冷たく言い放った。
優希はきつい言葉を浴びせる杏奈に『昨日のことがあって怖いから今日はできないんでしょ?』と少しからかってやりたい気もしたが、そんな気持ちをグッと抑えてため息まじりにつぶやいた。
「ふーっ、しっかり食べて…、ですか。」
「何よ、あなたたくさん食べるじゃない。それとも何?うちの食事に文句でもあるの?」
「そんなことはないですけど…」
杏奈の家の料理は、『こんなクオリティの和食を3食も食べられるのか!?』と感動するほどとんでもなく美味しい。
それもそのはず、杏奈の家には複数人のお手伝いさんが雇われており、基本的に家事全般を行うが、その中でもベテランの風格があるお手伝いさんはほとんど料理をメインにしているようなものなのだ。
そんな料理を毎日食べることができて、優希は毎日幸せでいっぱいだ!
…
と言いたいところなのが…
「不満はないんです。とても美味しいですから…。でも、その…僕はこれまで洋食を好んで食べていまして…」
「洋食?」
そう…優希は根っからの洋食好きなのだ。
もちろん、和食が嫌いというわけではないが、一人暮らしを始めてからというもの食事はカルボナーラや卵がトロトロのオムライス、ハンバーグにグラタン、時にはムニエルといった定番の料理は当たり前のように作李、時にはローストビーフとワインを…といった具合に洋食を作っては堪能、お金も惜しむことなく使ってきた。
中でも、特に優希が得意としていたのはフレンチトーストで、元々全てが完璧だと言えるレベルまで高めたものを元妻の母親と協力してさらに高いレベルに押し上げ、もはや素人の域は超えていると自負していた。
そんな優希が毎食和食だけを食べていれば、大好きだった洋食が恋しくなるのは当然といえば当然だ。
「洋食ね、私も数えるほどしか食べたことがないから魅力がよくわからないわね。」
杏奈がさほど興味もなさそうに答えると、優希はガバッ!っと勢いよく起き上がり、大きな声で言った。
「数えるほどしか食べたことがないって、洋食のことですか!?」
「ちょっと、何よ…、別に馬鹿にしたわけじゃ…」
流石の杏奈も大人しかった優希がここまで大きな声を出すとは思っていなかったようで、体をビクッっとさせて驚いていた。
「いえ、すみません。でも、そんなことがあり得るなんて…。はっ!じゃあ、フレンチトーストは食べたことないんですか!?」
「フレンチ…、は?」
「はぁ!?フレンチトーストを知らないんですか!?杏奈さん!それはダメですよ!!!」
優希は我を忘れて語彙力がなくし、つい寝ている杏奈の肩を両手で掴んだ。
杏奈はただただ驚き、目を見開いている。
「え…、え?」
「杏奈さん!明日の昼、僕のフレンチトーストを食べてください!材料は明日買いに行きます!今日は早く寝ますよ!!」
優希はそう言うと杏奈の方から手を話し、自分の布団に戻ってぎゅっと目を瞑った。
まさかフレンチトーストを29年間も知らない人がいたなんて…、なんとしてでも今までで一番のフレンチトーストを使ってご馳走するぞ!
優希は杏奈を心配していたことなどすっかり忘れて、何がなんでも杏奈を感動させてやるという決意を胸に眠りについた。
一方で杏奈は、優希の二重人格とも言えるような変わりように呆気にとられ、しばらく呆然としていた…
次の日…
次の日の優希の行動はとんでもなく早かった。
ほぼフライングではないかと言えるようなスピードで目覚まし時計を止め、出かける支度をする。
「ちょっと、優希!何よ、バタバタ動いて!」
朝のゆっくりしたい時間に忙しなく動いている優希にイラつき、杏奈は優希に文句を言う。
「フレンチトーストの材料を買いに行くんです。杏奈さんの家、フレンチトーストに必要な材料が足りないんですよ!」
「家にあるものでパパッと作れないの?少しくらい材料が足りなくても…」
「ダメですよ!何言っているんですか!絶対に買いに行きますから、家で待っていてください。」
そう言って部屋を飛びだそうとした優希を杏奈が引き止める。
「ちょっと待ちなさい!結婚するときの条件を忘れたの?あなたが外出するときは私が一緒に行くのよ。問題を起こさないように…」
「じゃあ早く着替えてくださいよ!」
杏奈が話し終わる前に優希はほぼ絶叫している。いつもの杏奈なら自分に口答えをしたり、言葉を被せてきた時にはムカついて反論すものだが、優希の異常な様子に杏奈は押され、指示に従った。
数十分後…
「はぁ、なんで朝の9時から優希の個人的な買い物に付き合わされなきゃいけないのよ…」
「もう、いいじゃないですか。これからとんでもなく美味しいフレンチトーストが食べれるんですよ?そのために朝ごはんまで抜いてくれるなんて、俺感激してます…」
「朝ごはんを食べられなかったのはあなたが急かすからでしょ!」
杏奈はぴしゃりとそう言ったが、優希は気にする様子もなく、鼻歌を歌いながら外を眺め始めた。
※ちなみに、優希は結婚したと同時に持っていた軽自動車を売ってしまい、杏奈も免許を持っていないため、買い物には運転手さんの運転で向かっています。
「よぉーし!買うぞぉー!」
「ちょっと、ここってスーパーじゃない。」
優希は杏奈の手を引きながら、ハイテンションでスーパーに入って行った。
え?スーパー?あれだけこだわっている雰囲気を出しておいてスーパー?と杏奈と同じような反応をしてしまう方も多いだろう。
ただ、冷静に考えてみてほしい。優希が大学を卒業してから勤めていた職場は介護施設だ。
業界そのものが低賃金で問題になっているほどで、そんな新卒介護職員の優希が高級食材などを購入していては流石に破産してしまう。
そこで、優希はスーパーで買えるもので日々料理の腕を磨き、食材やジャムの種類ごとに別のレシピを用意して比較・検証をしながら最高級のフレンチトーストを目指していた。
「でも、スーパーって安物の粗悪品しか売っていないところじゃ…」
「はい?安いのは確かですが、別に粗悪品というものはありませんよ?杏奈さんはスーパーにきたことはないんですか?」
「ないわよ…、調味料くらいは使っていたのかもしれないけど…」
杏奈は自身なさげに答えている。
優希は、お金持ちのお嬢様だから、スーパーに足を運んで安い食材を買って…という経験がないのは理解できた。
しかし、いくらなんでもスーパーに来たことがないというのはむしろ世間知らずと言えるのではないか?と思ったことも事実だ。
ただ、お金持ちの感覚はよくわからないのだから考えても仕方がないと諦め、スーパーに入って行った。
優希はまっすぐ目的のコーナーに向かおうとしたが、杏奈はスーパーに入ってすぐ、入り口に突っ立ってぼーっとしている。
「杏奈さん?入り口に立っていると邪魔になりますよ?」
「あぁ、うん。なん…、何?これ?」
杏奈は目の前に並んであったチップス系のお菓子に近付いていった。セール中だろうか、普段はお菓子のコーナーにしかないお菓子が入り口付近に並んでいる。
「杏奈さん、このお菓子食べたことないんですか?」
「ない、けど、食べても大丈夫なの?なんかギラギラしていて体に悪そうだけど…」
「体に悪いのは確かかもしれませんが、たまに食べる程度であれば問題ないですよ。買いますか?」
そう言いながら優希は杏奈の答えを待たずにお菓子の袋を買い物カゴに入れた。
杏奈は何か言いたげだったが、優希はフレンチトーストしか見えておらず、元気に歩き出そうとする。
その時…
「あれ?優希くんじゃないか?」
「優希くんがいるわけないでしょ、何言って…えぇ!?優希くんだ!?」
「えぇ!?木嶋さんじゃないですか!」
野太い男性の声に優希と杏奈が振り返ると、2人の後ろには熊のような巨大な男性が立っており、すぐに女性が後ろから顔を覗かせていた。
この2人は木嶋夫婦だ。
覚えているだろうか?
木嶋さん(奥さん)の方は優希が働いていた介護施設で事務員として働いていた女性で、優希と同じマンションに住んでいたことをきっかけに仲良くなっている。
もちろん、優希と木嶋さんはいかがわしい関係ではないので優希は旦那さんとも仲が良く、2人とも優希が浮気されたと知った時は自分のことのように怒ってくれていたのだ。
また、杏奈の家も介護施設からそこまで遠くないため、結局優希は浮気される前も後もほとんど同じ地域で過ごしていたということになる。
そうなれば、スーパーに足を運べば知り合いに会うというのも当然といえば当然だろう。
「ちょっと!なんでいるの!?優希くんとはすれ違いでやめちゃったから状況がわからなかったから気になっていたのよ!?」
「そうですね、僕も気になっていました。出産は問題ありませんでしたか?」
「うん、2人目は安産だったからよかった〜。あっ、すみません、木嶋と申します。1人目の出産の時に優希くんにはお世話になりまして…」
「こんにちは、鈴野です。よろしくお願いいたします。」
木嶋夫婦は杏奈に気づいてすぐに挨拶したが、『鈴野』という名前を聞いて驚いた様子だった。
「鈴野…って、あの鈴野さん!?じゃあ、結婚相手ってあの鈴野家の人だったの!?おめでとう!」
「どういう経緯があってそうなったんだ?」
木嶋さんの奥さんは驚きながらも祝福してくれているが、旦那さんは若干困惑しているようだった。
それも当然だろうな…、こんなに急に結婚を決めたことに加えて相手は大金持ちの地主の娘なんだから。
ん?でも、わざわざ地主の娘が誰かなんて把握しているか?
「今日は何しにきたの?ってスーパーにくる理由なんて1つしかないか…」
「春子、ちょっと落ち着きなよ。」
※春子(はるこ)とは、木嶋さんの奥さんの名前です。ちなみに旦那さんの名前は剛(つよし)という名前です。
今後はわかりやすく、春子・剛と名前で呼んでいきます。
「わかってるわよ!でも、幸せそうでよかった…、優希くんがいなくなった後もこのスーパーであの浮気者を何度か見ることがあってね、顔も見たくないから他のスーパーに行こうとも思ったけど子どもが生まれたばっかりだからやっぱり近くのスーパーで…」
「うんうん、春子、落ち着いてね。でも、本当におめでとうございます。優希くんが幸せそうなのはもちろん嬉しいですが、鈴野さんのお嬢様が幸せそうで何よりです。」
剛さんは早口で話す春子さんの背中をさすりながら話す。
「ん?剛さん、やっぱり杏奈さんと知り合いなんですか?」
「うん、本当につい最近の話なんだけど、鈴野さんはうちのお客様だから…」
「え!じゃあ、やっと開業したんですね!?おめでとうございます!」
優希が木嶋夫婦と盛り上がっていると、杏奈が不満そうに口を開いた。
「優希、情報量が多いんだけど、ちゃんと説明してくれない?」
「あぁ、杏奈さん…すみません。ここでは少し邪魔かもしれないので、一旦外に出ましょうか…」
外に出ると、優希は落ち着いて杏奈に紹介を始めた。
「えぇっと、すみません杏奈さん。久しぶりにまともに話したので興奮しちゃって…。まず、こちらは木嶋さんご夫婦です。木嶋さんの奥さん、春子さんは僕が勤めていた施設の事務員さんとして働いていた方で、元々同じマンションに住んでいたことがきっかけで仲良くなりました。」
「改めてよろしくお願いします、杏奈さん。優希くんには1人目を妊娠して大変な特にお世話になっていたんです。」
「そうですか、よろしくお願いします。」
杏奈はペコリと頭を下げる。春子さんもスーパーを出て優希が紹介して間に少しは落ち着いたようだ。
「そして、こちらは春子さんの旦那さんで、剛さんと言います。お花屋さんを開業することが夢だったようで、前会った時は期間工として働いていました。でも、さっきの話からするともう開業はしたんですよね?」
「うん、本当は少し前に開業したんだけど、優希くんには伝えるタイミングがなくてね…。ちなみに、鈴野さんの家は僕のお店のお花を何度も購入してくれているんだよ。でも、基本的にお手伝いさんかお母様としか話さないからね。杏奈さんのことも一度だけ見たことがあるんですけど、その時は気づいていなかったようだから…」
「あぁ、お母様が良いお花を持ってきてくれると喜んでいました。これからもお花は継続的に注文させていただくことになりますので、よろしくお願いいたします。」
剛と杏奈はそのまま2人で花について話し始めた。
他人と話す杏奈を見るのは初めてだったが、本当に堂々としている。
剛さんには申し訳ないが、はっきり言って剛の見た目は怖い。身長は195cm、元々空手をしており、今でも筋トレを趣味にしていることでとんでもなく巨大に見える。
しかも、デフォルトで険しい顔をしていて毛深いという男らしさの要素を全て詰め合わせたかのような男性なのだ。
そんな剛と初対面なはずなのに、杏奈は全くと言って良いほど驚く様子も怖がる様子もなく、背筋をピンと伸ばして話している。
「最初から剛と普通に話せる人なんているのね…」
「春子さん…いくらなんでも失礼ですよ…。それよりも、こちらの可愛い赤ちゃんの名前はなんなんですか?」
「夜花(よるか)よ。剛がどうしても花を名前に入れたいっていうから…」
「相変わらずですね〜、花蓮(かれん)ちゃんの時は大揉めしてましたからね…」
優希と春子が昔の話をしていると、杏奈が口を挟んできた。
「優希、少し肌寒いわ。早くフレンチトーストの材料を買いに行きましょう。」
「フレンチトーストの材料を買いに来たの!?杏奈さん!優希くんのフレンチトーストは本当に絶品よ!じゃあほら、早く入りましょう!」
スーパーに入ると、再度杏奈はスーパーの中をキョロキョロとし始め、春子に『この商品はなんなのか?』『なんのために使うのか?』と質問している。
そんな様子を見て、春子が剛にこそこそ何かを話し始めた。
これまで明るく話していた剛の顔が少しだけ曇る。優希は何を話しているんだろうとモヤモヤし始めたその時、春子パァッと顔を明るくして杏奈のもとに駆け寄った。
「杏奈さん!スーパーの中が珍しいなら私と一緒に一通り見てみます?今日はちょうど色々買わないといけなかったから!ね!」
「あぁ、はい。ですが、その…」
杏奈が言いずらそうにしている。杏奈は表情や仕草に気持ちを表さないタイプだが、あんなに物珍しそうにキョロキョロしていれば鈍い優希でも杏奈がスーパーに興味津々だということは想像できる。
優希は杏奈を刺激しないように言葉を選びながら話し始めた。
「ぜひ行ってきてください杏奈さん。僕といるよりも春子さんと話している方が楽しいでしょうから…」
「あぁ、そう。じゃあ、そうさせてもらおうかしら…」
「えぇ、もちろん!さぁ行きましょう杏奈さん!!」
春子は杏奈と腕を組み、ズンズンと歩いて言った。
「相変わらずの勢いですね、春子さんは…」
「そうだろう、ああいうところが好きなんだけどね…」
「ははは…、で?何か僕に話があるんですよね?」
「ん!?なんでだい?」
剛は驚いた様子で体をのけぞる。
「いや、春子さんも剛さんもわかりやすいですね。あの様子だと誰でも察しがつきますよ…」
「ん〜、こういうのは昔から苦手だ。その、単刀直入にいうと元奥さんのことで耳に入れておきたいことがあって…」
「元奥さん?真波のことですか?」
優希は一気に不機嫌な顔になる。
優希が浮気されてから2年も経っていないし、結婚したといっても愛のない結婚なのでまだ気持ちが吹っ切れているというわけではないのだろう。
真波の名前を聞いて不機嫌になるのも当然と言えば当然だ。
「うん、正確に言えば元奥さんの話じゃなくて、そのご両親の話なんだけど…。ほら、ご両親とは仲が良かったって言ったから伝えておいた方が良かったと思って…」
「ご両親?何かあったんですか?」
「うん、なんていうか、今僕たちが住んでいる場所がそのご両親が住んでいる場所の近くでね…。田舎だから噂が耳に入って来るんだけど、結構悲惨な状況になっているみたいで…」
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