はなさないでね
楸 茉夕
はなさないでね
「はなさないでね! 絶対にはなさないでね!」
「はなさないよ、大丈夫だよ」
ヘルメットだけでなく、肘当てと膝当てをつけた子どもが、小さな自転車をよろよろと漕いでいる。その保護者らしき男性が、自転車の速度に合わせて後ろを歩いているが、放さないという言葉とは裏腹に手は荷台から放れている。自転車の練習はそういうものだろうが、嘘をつかれていたと知ったとき、子供は傷つくのではないかと要らぬ心配をしてしまい、彼女は一人で苦笑した。
「何、笑ってるの」
「自転車の練習、微笑ましいなあと思って。わたしも昔、練習したな」
「そんな感じの笑い方じゃなかったけど」
相棒は
「嘘はどこまで許容されるものなのかとね」
「またわけのわからないことを」
呆れたように言う相棒を、彼女は
そのとき、ガシャンと音がした。思わずそちらを見ると、子どもが自転車ごと倒れている。
「はなさないって言ったのに! パパのうそつき! うわあああん!」
公園全体に響き渡るような声で叫び、子どもは大声で泣き始めた。パパと呼ばれた男性がおろおろと子どもを助け起こす。しかし子どもは両手両足をばたつかせ、全身で裏切られた怒りを表現していた。あれは正当な怒りだろうと彼女は微笑む。理不尽な事象には怒りで立ち向かうのが、ストレスにならなくていい。
「おい、まさか嘘がどうこうってあの親子の話か?」
「そうだよ。あの子は放さないでと言った。父親は放さないと請け負った。しかし父親は嘘をついていた。子どもは転んだ痛み、羞恥、悲しみ、悔しさを怒りに変換して、嘘をついた父親にぶつけた。健康なことだ」
「まあ、怒りと他の感情は並列しないらしいからな。じゃなくて、手を放さなきゃ自転車乗れるようにならないだろ。一生補助輪つけてろって?」
「だから言ったじゃないか、嘘はどこまで許容されるのかと。無論、あの父親が間違っているとは思わない。自転車の練習というものは、ああいうものだろう。しかし、優しい嘘だろうと、相手のためを思っていようと、嘘は嘘だ。子どもには許せなかったのさ」
「今はわからなくとも、あの子どもも大人になればわかるだろうし、もし子どもを持つことになれば、自分の子どもに同じことをするんだろうよ。―――それより、あれ」
相棒が眼下を示す。視線をやれば、ボールを手にした子どもがぽかんとこちらを見上げていた。ここは広場から離れた木立だが、飛ばしてしまったボールを取りに来たらしい。
「おや、珍しい」
呟いて彼女は腰掛けていた枝から飛び降りた。子どもの顔は彼女を追って上から下に動く。確実に見えているらしい。
「やあ、少年。ごきげんよう」
目を皿のように見開いた少年は微動だにしない。構わず彼女は続けた。
「私が見えているということは私の相棒も見えているね」
見上げれば、木に巻き付くようにしている相棒がぱたりと尻尾を振った。少年は、視線を彼女と相棒の間に三往復させてから、微かに首肯する。
「君を嘘つきにはしたくないから、これはお願いなんだけれども。私と相棒のことは、口外しないでくれるかな」
「こうがい……?」
きょとんと繰り返す少年に、彼女は悪戯めいた笑みを向ける。
「はなさないでね、ってことだ」
了
はなさないでね 楸 茉夕 @nell_nell
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