スピリッツ荘の怪事件 捜査編
嶌津三蔵…………………………代筆屋兼書道家
嶌津椿………………………………三蔵の従妹
野崎建男…………………………風ノ森高校一年生
相沢嶺二…………………………(同上)
美依清………………………………書道家
江伊昌平……………………………(同上)
出井口トキ枝……………………(同上)。〈日高書道連盟〉幹部
飯田智則……………………………酒造メーカー重役
椎名良樹…………………………大学教授
ライ・ペンシルベニア……スピリッツ荘の主人。准将
チェイシル……………………執事
ホーパー…………………………秘書
岸江………………………………メイド
立川………………………………コック
日泥………………………………警部
一 容疑者たち
三十分後、通報を受けた警察が到着した。瘦せ型ですらりと背が高く、眼鏡の奥で鋭い目を光らせている
「大変なことになりましたね、ペンシルベニア准将。早速ですが、被害者のところへ案内していただけますか。詳しいお話は、後ほど個別にお伺いいたします。」日泥警部がそう言うと、チェイシルさんが階段を示して先頭に立った。僕と相沢は、見張りの警察官の目を盗んでそっと警部たちの後ろを着いて行った。
チェイシルさんが扉を開くと、ベッドに仰向けになったままぴくりとも動かない江伊さんが見えた。肥満体型の太い首に、青黒い紐状の痣がついていた。すぐそばの床に白い羽織紐が落ちていて、絞殺であることは明らかだった。
鑑識班が、僕には用途の検討も付かないようなさまざまな道具を持って作業を始めた。日泥警部は、チェイシルさんに皆を食堂で待機させるよう伝えた。チェイシルさんは僕たちに気付いていたようで、振り返る前に「食堂へ行きましょう。」と言い、むしろ僕たちの方が、いつの間にか後ろに立っていた嶌津さんに気付いていなかった。
食堂には苦しい沈黙が流れていた。それは、ただ人が殺されたからというだけでは無いようだった。――昨夜、チェイシルさんがしっかりと戸締りをしているのは知っていたし、事件が起こったのは二階で、客室にある窓は嵌め殺し式で外部からの侵入は不可能。
――つまり、昨夜この家にいた者の中に犯人はいるのだった。
扉が開かれ、日泥警部と数名の警官が現れた。「お待たせしました。ご心労のところ大変恐縮ですが、これから皆さんに事件発生時のことを含めお話を伺いますので、呼ばれた方はこちらの警官と一緒にラウンジへお越しください。」
一同の緊張がより高まった。僕は、じっと耐えて震えている椿さんのそばに行き安心させようと努めたが、そういう僕自身も不安を感じずにはいられなかった。
日泥警部が立ち去ると、すくと嶌津さんが立ち上がり、廊下へ出ていこうとして警官に止められた。彼は、その若い警官の手を取ると指先で{はばかり}と書き、返事も聞かずに出て行ってしまった。
僕は、嶌津さんは「はばかり」になど行っていないと直感して「僕も行っていいですか?」と聞くと、その若い警官は年上の女性警官に意見を求めた。そして、どうやら許可が下りたようだ。通り過ぎるときに小さく「子供だし。」と聞こえた。予想した通り、嶌津さんは、トイレとは反対方向にある、エントランス・ホールに出る両開きの扉を通るところだった。追いついて声をかけ、彼の足に任せて着いた先は、遊戯室内のダーツボード横の布張りのソファだった。彼の奇行にも少しずつ慣れてきていた僕は、隣に座って聞いた。
「嶌津さん、取り調べの内容を聞こうって魂胆でしょう? ――正直なところ、僕も興味がありますから言いますけど、確かにここは扉のすぐ近くですが、こんなあからさまなところに陣取ったら追い出されちゃいますよ!」
嶌津さんは、今度は僕の手のひらにこう書いた。{
「ああ、嶌津さん! いけませんよ。物を齧るのをやめなさいとお医者様にも言われているでしょう。ああ、ごめんなさい、お二人とも。彼は戦争のせいで、人の死に触れると錯乱してしまうのです。暗い所にしばらく置いていれば、そのうちマトモに戻りますから、どうか、もう少しだけ! ここに居させてやってくださいませんか。彼は喋れませんし、暴れたり捜査の邪魔をしたりもしませんから。」
途中、思わず酷いことを言ってしまったが(思わず口から出た言葉こそ本心だと聞いたことがあるが、果たして)日泥警部含めみんなが了承してくれたので、僕たちの作戦は成功に終わった。……嶌津さんの落涙は、グラスに注いだ水を目尻につけていただけだった。
二 チェイシルの証言
「――ではまず、氏名、年齢、住所、それから、この建物にいらした経緯をお教えください。」日泥警部の声には、有無を言わせぬ威厳があった。
「ヘンリー・トマス・チェイシルです。先月、五十六になりました。生家は、カリフォルニア州サクラメント市H通り九一五番地。ペンシルベニア家には十年以上お仕えしておりまして、今回の休暇に於きましても本家から連れてこられた次第であります。」
日泥警部は遺体を発見した時のことについて尋ねた。
「朝食を九時からとしておりましたので、給仕係の岸江さんに客室を回ってもらい、皆様ご一緒に食堂へいらっしゃいました。その際、江伊様だけがお見えになりませんでした。十時になってもお見えになりませんでしたので、もしかすると体調が優れないのではないかと心配になり、私と飯田様と美依様の三人とで江伊様のお部屋へ様子を伺いに参りました。応答はありませんでしたが鍵が開いていたので中に入ったところ、江伊様がベッドで亡くなっているのを発見し、すぐに警察へ通報しました。」
「そうでしたか。では、被害者を最後に見たのは何時ごろでしょう。」
「昨夜二十一時半頃です。私は旦那様にお仕事のことでお伺いに参りまして、その際にこの部屋で数名の方々とお酒を飲んでおられるお姿を見ました。」
「その時、誰がいらっしゃったか覚えていますか?」
「ええ。旦那様と江伊様、飯田様、美依様、嶌津様、出井口様の六名です。十一時過ぎに、旦那様から皆様おやすみになられたと報告を受けましたので、ラウンジで片付けなどをいたしました。」
「二十一時半。」日泥警部はそう繰り返すと「これは皆さんにしている形式的な質問ですので、気負わずにお答えください。」と、前置きしてから次の質問に移った。そのややぶっきらぼうな言い方から、過去にその質問によってなされた面倒なやり取りが想起された。「医師の見立てでは、およそ死後九時間が経過しているとのことです。昨夜、あなたが最後に被害者を見たという二十一時半から今朝五時までの間、あなたがどこにいらっしゃいましたか教えていただけますか。」
「もちろん。用を聞き終えてラウンジを出た後、キッチンへ向かいコックの立川さんに明日の朝食についてご相談しました。二十二時ちょうどに、全体の戸締りを確認していきました。西門の南京錠を掛けたすぐ後に、野崎様と相沢様、椿様がお戻りになられましたので、正門の鍵と玄関口の鍵を掛けました。それから、再び旦那様のもとへ行きお世話を済ませ、先ほどお話しした通りラウンジの片付けをして、深夜一時を回った頃、全ての灯りを消して回りました。それからは自室に戻り、五時半に目が覚めるまで一度も部屋からは出ませんでした。」
「その時に、何か不審な物事はありませんでしたか?」
「いいえ、何も無かったように思います。」
「分かりました。最後に、被害者の江伊さんと以前に会ったことはありましたか?」
「いいえ、昨日、授賞式の送迎でお会いしたのが初めてです。」
「そうでしたか。ご協力感謝いたします。恐縮ですが、再び食堂でおかけになってお待ちください。」
椅子を引く音がしてチェイシルさんが出てきた。僕は非常事態にも動じずに行動する彼を、畏敬の念で見上げた。
「大丈夫ですか? 嶌津様。何かお飲み物をお持ちいたしましょうか?」
嶌津さんは、俯き加減で小さく首を振り、いかにも弱っているというふうに僕に抱きついた。バニラの匂いがした。
三 不可解な足音
次は美依さんだった。先ほど食堂で見た時よりかは、いくらか落ち着きを取り戻していた。美依さんの前では嶌津さんも動かなかった。
「美依さんは、嶌津さんがここに居ることに驚きませんでしたね。」
彼は頷いたきり、扉の奥の声に耳を傾け始めた。もしかしたら、美依さんもこの青年の奇行には慣れっこなのかもしれないと思った。
「ではまず、氏名、年齢、住所、ここにいらした経緯をお教えください。」先刻と同じ質問から取り調べが開始された。
「美依清、三十三歳、奈良県宇陀郡榛原町一丁目オリーブコート一〇四。ここには夕食会に参加するために来ました。」不機嫌そうな低い声から、彼の不安と動揺が読み取れた。
「あなたは、なかなか降りてこない被害者の様子を見に、チェイシルさんと飯田さんと共に被害者の部屋まで行った。呼びかけに応じなかったのでドアノブを回して中へ入り、遺体を発見した。――間違いありませんか?」
「間違いありません。」
「生前の被害者を最後に見たのはいつごろでしょう。」
「確か――ここでみんなといた時です。二十一時半くらいに部屋に戻っていきましたよ。だけど――零時には、まだ生きてらしたと思います。昨晩の僕は悪い酔い方をしてしまって――雨音と、隣室から聞こえてくる江伊さんのいびきが耳についてなかなか寝付けなかったんです。最後に時計を見た時、零時でした。気付いたら朝でした。音が止んだということは、つまり、江伊さんが――。」数秒の沈黙が流れた。
「少し休まれますか?」
「いいえ、平気です。」
「――あなたが、酒宴の席を離れたのはいつ頃でしょう。分からなければ、誰の後に席を立ったかでも構いません。」
「確か、二十二時前に飯田さんが抜けて、そのすぐ後だったそうです。というのも、記憶が無くて、いつ部屋に戻ったのか覚えていないんです。出井口さんが介抱してくださったそうなのですが、出井口さんも含めた三人がそれからどうしていたのは分かりません。」
「三人というのは、出井口さん、嶌津さん、ペンシルベニア准将のことですね。では、昨夜のあなたの行動についてお聞かせください。出井口さんの介抱を受けて部屋にお戻りになったところからで結構です。」
「――天井を見つめて何時間か過ごして、何度か吐きました。それだけです。何も知りません。見てもないし、聞いても――。」そこで、彼は言葉を切った。しばらくして「足音。」と一言。
「足音?」
「でも、聞き間違いだったかもしれません。」と流そうとしたが、日泥警部にもう一押しされて、もごもごと話し始めた。
「扉の向こうで足音がしたんです。ですが――変な話なんです。なにせ、扉の前で突然聞こえたのですから。普通、足音というのは近づいてきて遠ざかっていくものでしょう? だから、聞き間違いだったのだと思います。」
「どちらから来たのかも分かりませんか?」
美依さんは、首を横に振ったようだ。
その時、嶌津さんが懐紙に何かを書いて扉の隙間に差し込みノックでこれに気付かせた。
日泥警部が拾って読み上げた。「それは何歩でどのような音でしたか。」
「二、三歩だけだよ。鈍い音で、ふらついてるみたいなだったよ、建男君。」
日泥警部が咳払いをした。「まあ、あまり多いと考えよう――。」
僕は驚いて嶌津さんに訴えた。「まさかとは思いますが、僕の筆跡を使って書いたのではないでしょうね?」
嶌津さんは首を傾げて体を揺らした。僕はいつか彼がこの特技で恐ろしいことを実行するのではないかという心配をより一層強めた。
「――質問を再開します。あなたは被害者とはどのような関係でしたか。」
「直接会ったのは、昨日の授賞式が初めてでしたが名前は以前から知っていました。」美依さんは、〈紫水〉とそのコンペディションについて説明した。そして、だしぬけに聞き返した。「審査員を務められていた椎名さん、殺されたんですよね。」
「捜査を続けてはいますが未解決というのが現状です。――何か、心当たりがおありですか?」
「いえ、そうではないのですが――。」やはりここでも、日泥警部の一押しが美依さんに続きを話させた。しかし、今度は美依さんにも思うところがあるようだった。「根も葉もない中傷まがいの噂です。いくらこんな状況だとはいえ、拡散に加担するのは僕の信条に反します。」
「どうしても、教えてくださいませんか?」宥めるような物柔らかな聞き方だったが、美依さんは首を横に振り続けたようだった。
日泥警部は諦めたようで最後の質問に移った。「それでは最後に、生前の被害者の様子に関して、何か違和感を感じたり、気付いたことなどはありませんでしたか。些細なことでも結構です。」
「――江伊さんは、戦前から種々のコンクールやコンペディションに挑戦していたようなのですが、なかなか上手くいかなかったようで、気を病んでいると耳にしたことがありました。それで〈紫水〉に関しても、入選できなかったことを恨みに思っているらしいと、そういう噂を聞いたこともあります。――そうして、ようやく手に入れた今回の優秀賞にも難癖をつけられて気を落としていたとか――。」
四 噂話
「出井口トキ枝、四十一歳になります。現住所は、三重県津市三番町六丁目八九三。授賞式に審査員として出席したのち、ペンシルベニア准将の夕食会へ出席するために秘書のホーパーさんの運転でここへ来ました。」丁寧かつ堂々とした口調だった。昨夜の美依さんを介抱していた彼女の姿が思い出された。
「あなたは、夕べここで数名の方々とお酒を飲んでおられた。間違いありませんか?」
「はい、間違いありません。」
「いつまでいらっしゃいましたか?」
「二十二時ちょうどです。美依君が自力で歩けそうにないほど酔っていたので、彼を抱えて部屋まで連れて行き、そのまま私も部屋に戻りました。そういえば、連れて行く途中、嶌津君のところ子たちと会いました。」
被害者を最後に見たのはいつか、という質問の答えは美依さんと同じだった。
「では、部屋に戻られてから今朝までのあなたの行動についてお聞かせください。」
「これといったことは何もしていません。お風呂を借りに行って、布団の中で本を読んでいるうちに眠ってしまいました。目が覚めると七時でした。――まさか、人が殺されているなんて夢にも思いませんでした。」
「そうでしょう。そんなことを考えるのは、犯人かミステリマニアだけです。――ところで、うちの部署の者に〈朱天屋〉(書家が多く集まる定食屋だと金蔵氏に聞いたことがある)に入り浸ってるのがいるのがいまして、彼が、椎名良樹さんと江伊昌平さんは親しい間柄だという話を聞いたというのですが、何かご存じありませんか?」
「いいえ、初めて聞きましたわ。〈紫水〉のコンペでの数ある応募者といち審査員という関係以上には何も無いと思いますが。」
「そうですか。あなたは、江伊さんとはお知り合いでしたか?」
「名前を見聞きしたことは二、三回あったと思いますが、個人的なことは何も知りません。」
次の、飯田さんへの聴取にはあまり時間はかからなかった。彼の知っていることがそう多くはなかったからだ。
「ミスター・ライ・ペンシルベニアのお父上のミスター・ウィート・ペンシルベニアとは、三十年来の付き合いになります。今回の〈大日本書道展〉には、我が社も出資をしておりまして、その縁でお招きくださったようです。」
「出資者同士の縁、ということですか。では、被害者を最後に見たのはいつでしょう?」
「二十一時頃です。この部屋で集まって酒を楽しんでいたのですが、江伊さんのご気分が優れないようでしたので、私が彼を部屋まで送り届けました。彼に会ったのはそれが最後です。特に変わったこともなく彼はベッドに入りました。」
「あなたはここに戻られたのですか?」
「ええ、そうです。ですが、一杯だけカクテルをいただいて私も退席しました。部屋に戻る途中、岸江さんに依頼して、二十三時に紅茶を持ってきていただきました。それを飲んで眠りました。夜間は一度も目覚めていません。」
そのあとの答えも、あまり収穫のあるものでは無かった。被害者と会ったのは昨日が初めて。面識があったのはペンシルベニア准将と美依さん、出井口さんだけ。「噂話」については何も知らない……
五 相沢の証言
「あなたたちってば、どうしてこんなところに居るの?」椿さんが、矢羽根で嶌津さんをからかいながら言った。「嶺二くんが『伝書鳩』の話をしたから、みんな冗談を言い合ってるわよ。『鳩が飛んで行ったっきり帰ってこない』ってね。」
「あいつ、気に入ってるんじゃないのか。」
椿さんはけらけら笑っていたが、いざ取り調べの時になると、打って変わってか細い声で答えていった。「嶌津椿、八歳です……」一緒に入った女性警官に優しく促されながら聴取は進んだ。「最後に江伊さんを見たのは夕飯の時です。それから、私は、嶺二くんと建男さんと立川さんとお湯屋さんに行って、十時に帰りました。あ、立川さんは畑に行っていました。けれど、一緒に帰りました。それから、三ちゃんのところに行って、ジュースを飲みました。それから、三ちゃんの部屋で一緒に寝ました。」
「何か、変なものや、変なことをしているひとを見かけたりはしませんでしたか?」
「嶺二くんが嘘を言っていました。飛鳥川で
椿さんへの聞き取りはそれでおしまいだった。戻ってきた彼女はしょげた様子で観葉植物の陰に隠れた。
「ここにいらっしゃい。僕は向こうに座りますから。」僕が嶌津さんの隣を勧めると、椿さんはてくてく近寄ってきた。座った途端、彼女は嶌津さんにもたれかかって目を閉じた。疲れているようだった。
扉がゆっくり開いて相沢がこそこそ入ってきた。「やあ、椿ちゃん。ついに僕の番が来ちゃったよ。まあ、大して話すことも無いんだけどね。」
僕は言った。「磯鵯が川にいるものか。」
「
僕は相沢の背中を押してラウンジに放り込んだ。
「……ではまず、氏名、年齢、住所、ここにいらした経緯を教えてください。それと、気になることがあればお話しください。」この最後が余計だった。これを言ったばかりに、日泥警部は、いまだ声変わりせぬ甲高い声でマシンガントークを浴びせられるはめになった。
「はーい、相沢嶺二、「
ここまで、まともな人たちの簡潔な自己紹介を聞いてきていたので、その差異に思わず頭がくらくらしてきた。それでも日泥警部は淡々と続けた。
「被害者を最後に見たのは何時ごろですか?」
「多分、夕食の時だよ。正確な時刻は覚えてないや。そこからは見てないね。その時にさ――」
「被害者と初めて会ったのは、いつのことでしょう?」日泥警部は、必要な情報が出次第、次の質問に移る作戦に出たようだ。
「受賞式の始まる前だよ。」
「場所は?」
「受賞者が着付けをしたりなんやりする、会場近くの公民館みたいなとこ。着物なんかを入れた大きい荷物を持っていたよ。ありゃここまで来るのも大変だったろうね。自動車で来たのかな。だとすれば、そんなに遠くには住んでいないね。このあたりで――」
「他に何か話しておきたいことがあれば、簡潔にどうぞ。」日泥警部の言い方には、言うか否かの迷いがあった。
「あっ! そうだ、俺が先に話してやろう。あいつは肝心な時に残念なやつだな。あのね、警部さん。昨日、授賞式が始まる前に野崎と一緒にキトラ古墳を見に行ったんだ。見たことある? なんだか小さい盛り上がりでこれからに期待ってかんじの古墳。それでさ、そうやって野崎と話していたら、野崎が見ちゃったらしいんだよ。出井口さんが、殺された江伊さんと口論してたって! ねえ、ねえ、これ、とっても重要な証言でしょ? あはは、野崎のやつ、惜しかったなあ。話してみたら『それはもう聞きましたよ』って言われちゃうんだから!」
ひとしきり喋った後、退出の許可が出された。追い出されたようにも聞こえた。
「そんなことで悔しがるやつは、お前くらいのものだ。」
「なんだよ。小声で話していたのにお前ってば地獄耳だな。」
あれのどこが小声なんだと反論しかけたが、それは警官によって遮られた。
僕の番が来たのだ。
六 言えない……
ラウンジは、昨日とは違う重い静けさに包まれていた。楕円形のテーブルの向こう側に日泥警部が座り、カウンターにはノートを広げた警官が座っていた。
僕が話せることがそう多くないことは分かっていたが、僕が聞きたいことはたくさんあった。
「きっと、あの場所は会話がよく聞こえたのでしょうね。」
「――聞こうというつもりはなかったのですが。」嘘だった。僕の手帳は走り書きでいっぱいになっていたのだから。
「それではまず、氏名、年齢、住所、ここにいらした経緯をお教えください。」日泥警部は機械的に言った。
僕は、身を固くさせた。「野崎建男、十六歳です。住所は、奈良県北葛城郡王寺町王寺二丁目二十の五十です。昨日は相沢君とずっと一緒にいたので、ここに来るまでのことは彼とすべて同じです。」
「それでは、この建物に到着してからのことを覚えている限りで構いませんので聞かせてください。」
「チェイシルさんの運転する車で、ここへは五時過ぎに到着しました。相沢君、椿さん、嶌津さん、美依さんが一緒に乗っていました。後続のホーパーさんが運転していた車には、飯田さん、出井口さん、江伊さんが乗っていました。ここへ着いて、ペンシルベニア准将と挨拶を交わし、チェイシルさんが各人を部屋へ案内していきました。荷物を置いて、夕食会が始まるまで全員がエントランス・ホールに集まっていました。」
その時、僕の頭にふっとこんな考えが浮かんだ。
” 僕の証言したことで、無実の誰かを殺人犯に仕立て上げてしまったとしたら……”
「――夕食会が終わって銭湯に行き、戻ったのは二十二時を大きく過ぎた頃でした。チェイシルさんが戸締りを確認していました。立川さんとはそこで別れました。二階へ荷物を置きに行く途中、階段で休んでいる美依さんと出井口さんに出会いました。僕たちはラウンジに行き、二十三時少し前までいました。二階へ上がると、岸江さんがいました。――その夜は、色々あって相沢と寝ました。人が亡くなっているとは全く気が付きませんでした。」岸江さんがカップを割ったことを、思わず黙ってしまった。言い足そうと口を開きかけたが、日泥警部が質問する方が早かった。
「先ほど相沢君から、君が江伊さんと出井口さんの口論を見たという情報提供がありましたが、本当でしょうか?」
「はい、本当です。――あの、出井口さんにも確認を取るんですよね? きっと、出井口さんは怪しまれる……」
心を痛める僕に警部は優しく言った。厳格な背格好にふっと温かさが宿った。「誰からの情報かというのは、決して口外しませんから安心してください。我々には、事件を解決する社会的義務があるのです。」
社会的義務、その一言が僕の背中を強く押した。僕は、見聞きしたことを全て伝えた。
日泥警部は「君の決断に感謝します。」と言い、退出の許可を出した。
七 女性たちの肌について
「すっかり疲れてしまいましたね。」エントランス・ホールを一緒に歩いていた立川さんが言った。立川さんからは、みんながこれまでに話したこと以上の証言は出なかった。「少し早いですが昼食にしましょう。皆さん、食欲はありますか?」
僕はあまり食欲がなかったので、少量のスープをお願いした。
「俺はもうお腹ぺこぺこだよ。今なら河原の葉っぱでもいいくらいだ。」相沢が、またあくびをしながら言った。
「お前、もしかして昨日はあまり眠れなかったのか?」僕は心配になって聞いたが、相沢は意図の読めない笑みを浮かべただけでそれ以上は何も教えてくれなかった。
食堂では美依さんが机に突っ伏していた。僕が隣の椅子を引くと、ゆっくりと目を開けた。
「あんまり退屈だから、部屋に本を取りに行かせてもらったんだけど、失敗だったよ。探偵小説じゃなくて冒険小説なんかにしておけば良かった。というのもね――」僕の耳元に顔を近づけて「犯人は、昨夜この館に泊まった人物の中にいるんだってさ。」とやたらと低い声で言い、僕たちはおかしくて笑い合った。
美依さんがまた伏したので、僕は向かいに座る嶌津さんに視線を向けた。どうして事情聴取の内容を聞きたかったのだろう? 酒と煙草の他に、彼が能動的に動く理由と言えば何だろう? ――僕の脳裏に、一か月前に彼が解決に導いた殺人事件のことがよぎった。あの時は、昭久さんの安全を守るために捜査を始めたのだった。今回も、誰かの身の上を案じて?
キッチン側の扉が開き、ワゴンを押して立川さんが入室した。皿の大きさがバラバラなのは、客人たちがそれぞれ違った料理を所望したためだろう。相沢や嶌津さんのように神経の太い人たちには、バジルソースのかかったスパゲッティが届けられた。
席に皿が運ばれていく間、僕は嶌津さんに「皆の証言を聞いて何か分かりましたか?」と聞いた。二、三秒空けて彼は頷いた。「今は、何を考えているのですか?」食い気味にそう聞くと、彼は懐から取り出した懐紙に文字を書いて渡した。――内容を見てぎょっとした。そこには「女性たちの肌について考えている」と書かれてあった。この建物にいる女性は、椿さん、出井口さん、岸江さんの三人だった。
しかし、僕も岸江さんの「肌」についてある考えを持っていた。彼女から受けた違和感の正体は “首と耳の色が異なる” ことだった。正確には、耳の方が白いのだ。単なる日焼けであろうとも考えたが、外にはあまり出ないであろう住み込みの給仕係のメイドが、五月はじめに首の後ろまで焼けているというのは変な気がした。そして今、夕食会で見た時と似た、どことなく焦ったような落ち着かない印象を彼女から受けた。
そんな彼女と対称的なのは出井口さんで、堂々としていた。しかしながら、彼女もまた、昨日に比べて顔色が良くなくくすんで見えた。
出井口さんは、料理を置いた岸江さんに心配そうに言葉をかけた。「大丈夫? あなたも、あなたのご主人に言って休ませてもらった方が良いわ。お昼は食べられそう?」
「お気遣いくださりありがとうございます、出井口様。立川さんが、使用人の分もお昼を作ってくださいましたので、後ほど、私もいただいて参ります。」
「それなら良いけど、無理しちゃだめよ。」岸江さんは一礼してグラスの用意に向かった。
隣から椿さんの声がした。「なあに? 三ちゃん。私に何か用がおあり?」椿さんが聞くと、嶌津さんは正面の壁にかけられた絵画へゆっくり視線を移した。「何にも無いの? 変な三ちゃん。」今度は椿さんが嶌津さんを見つめ出した。穴が開くほど見つめていた。
八 新聞記事
各自の部屋に戻る許可が出たので、僕たちは嶌津さんの部屋でトランプ遊びに興じていた。最初に遊んだババ抜きでは勝率が分散したものの、座布団(本来は、
「今朝から気が張り詰めっぱなしだったせいで、関節が固まってしまうところだったよ。」カードを箱に戻しながら、明るい顔で美依さんが言った。
「まさか、殺人事件に巻き込まれるなんてね。せっかくの晴れ舞台だっていうのに、みんな災難だったね。」と相沢が言った。こいつが人を労わるなどいうことは滅多に無いことなので、僕はいささか驚いて彼の顔を見た。片側だけで笑う、残忍な笑い方をしていた。何のことはなし、非日常を楽しんでいるだけのようだった。
その時、ふと目をやった裏門に黒い着物にハンチングを被った男性が立っているのが目に入った。裏門のそばで背伸びをして中の様子を伺っているようだった。
“ははあ、新聞記者だ。米陸軍士官の別荘で殺人発生! 犯人は内部の人間か。―― “ などと僕が考えていると、ホーパーさんによってたちまち追い払われていった。
「明日の朝刊に載るのかしら。それとも、ペンシルベニア准将が許さない?」そろそろとそばに寄ってきていた椿さんが、独り言ともとれる調子で言った。
「マスコミは許可なんか取らないよ。だって、できる限り早く記事にしないと金にならないからね。世間の人間は薄情なもんで、殺しの話なんてすぐに忘れてしまうのさ。 ““驚きは九日間しか続かない”” ってね。」相沢は、アガサ・クリスティの小説にも出てきた外国のことわざを引用した。
それから僕たちはにわかに退屈になった。遊びのアイデアも尽き、部屋主はベッドに仰向けになったまま動かない。
僕たちは椿さんを残して部屋を出た。美依さんは飲み物をもらいに一階へ降りて行った。
僕は自分の部屋の前まで来たところで “ちょっとした考え” を思い付き、反転して階段へ向かった。
「遊戯室に古い新聞が置いてあったのを見たか? あの中に、椎名氏の事件に関する記事が出ているかもしれない。確かめてくる。」
すると、相沢が冷やかすように言った。「お前、人には勝手に行動するなって口うるさく言うくせに、自分が探偵みたく動き回るのは良いのかよ。それとも、何か大義名分でもあるわけ?」
「――嶌津さんも、きっとこのことに気付いている。だから、個人的に捜査を進めているんだ。つまり、警察は美依さんが一番怪しいと踏んでいるってことだ。」
「なんだって? なんであの人が犯人になるんだよ。」さすがの相沢も驚いて聞いた。
僕は人目を憚りながら真面目に囁いた。「――いくら寝ていたとはいえ、江伊さんはかなりの巨漢だ。まず、女子供、片輪には無理だ。それに夜中の犯行だから誰にもアリバイは無い。そして今のところ、江伊さんと負の関係性が認められるのは美依さんだけだ。」
相沢はどうもピンと来ていないようだったが、歩き出した僕の後ろから着いてきた。途中、江伊さんの部屋が見えた。事件現場を封鎖していた立入禁止のテープは取り去らわれており、中の様子がはっきりと見えた。
「入ってみるかい、探偵さん?」
「無暗に入るのは良くない。それと、その呼び方はやめてくれ。俺は探偵という柄じゃない。」
「あはは、伝書鳩二羽でヘイスティングズ一人分さね。」などと意味不明なことを言いながら「探偵役は、お布団でお昼寝中の坊っちゃんに任せるとしよう。」と言って先に降りて行った。
鑑識や捜査員たちは既に撤収しており、屋敷内には日泥警部と、取り調べの時にもいた若い警官と女性警官の三人だけが残っていた。
「警部さん、捜査はどう? 何か分かった?」僕が会釈をして通り過ぎた直後、相沢が無礼な口を利いているのが背後から聞こえ、連れ戻そうと慌てて引き返した。
「ああ、君ですか。――そうだ、君たちにも聞いておこう。この女性を見かけたことはありますか。」そう言って日泥警部は一枚の写真を取り出した。浴衣を着た若い女性の写真だった。「彼女は、フローレンス・ガブリエラ・椎名。一年前に起きた椎名良樹氏殺害事件の重要参考人なのですが行方不明なのです。しかし、最近になってこの村で目撃情報が報告されたのです。」
どこかで見たような――誰かの面影が見えるような気がしないでもなかったが、結局、僕たちが提供できる情報は何も無かった。
「椎名さんの事件が、今回の事件と関わっているのですか?」
日泥警部は真剣な顔で頷いて「あとで、皆さんにもお集まりいただき説明いたしますが――準備が整い次第お集まりいただきますので、それまでご待機願います。今日は良い天気ですから、散歩に出かけられるのも良いかもしれませんね。」と言って二人の警官に何かを命じ、彼もどこかへ去っていった。
新聞はラウンジの端に積まれてあった。日付を確認してみると、一番古いものは去年の四月二十日付の朝刊だった。そこから、日を進めて確認していくと、同年六月十三日に〈奈良大教授 刺殺体で発見される〉という見出しの記事が小さく掲載されていた。田舎の殺人事件であり、全国紙に載っているだけでも幸運であると前向きに考えるべきだろう。
〈奈良大教授 刺殺体で発見される・犯人は未だ逃亡中〉
六月十二日(日)夜、奈良県飛鳥村の山道にて奈良大学在籍教授 椎名良樹氏(六十一)が刺殺体となって発見された。警察によると死因は腹部を短刀で刺されたことによる失血死。被害者と共に同村へ来ていた関係者への取材で明らかになった被害者の当夜の足取りは、まさしく怪奇たるものであった。被害者は発掘調査の為に午後十五時過ぎ同村へ到着。この発掘調査の計画は全て被害者が決定したという。一行が宿へ向かう道程、突然被害者が「用事があるので先に行ってくれ。」と言い残し事件現場となった山道へと歩いて行ったという。一行は先に宿へ到着し椎名氏の帰りを待っていたが日が暮れても戻ってこない事を不審に思い、午後二十時過ぎ数名が山道へ歩いていった先で椎名氏の遺体を発見し急いで宿へ戻り駐在所へ通報。遺体の持ち物から手帳だけが紛失しており金品はそのままであることや争った形跡のないことから顔見知りによる犯行であると見られている。なお被害者の実子 フローレンス・ガブリエラ・椎名氏には今年四月に行方不明届が出されており、現在も捜索中。警察は本事件との関連については言及していない。――
「頭が混乱してきた。この事件には謎が多すぎる。」
「そんならリストを作ってみたらどうだ? おねむの探偵さんに、灰色の脳細胞を全力稼働してもらおう。」
九 リストを作ろう
(一)
嶌津さんは起きていて、煙草をくわえて安楽椅子を揺らしていた。ベッドでは椿さんが眠っていた。
僕たちは、拝借してきた新聞と日泥警部の話をした。「それで、あの、笑わないでくださいね。リストを作ろうと思うのです。書き出して整理してみれば、見えてくることがあると思うので――。」
嶌津さんは「心得た。」というふうに頷いて、鞄から便箋を取り出した。
「さてさて、まずは何を書くんだ?」相沢が、ベッドのそばに座って椿さんの寝顔を眺めながら言った。
「箇条書きで名前を書いて、それから――」僕が思い悩むと、嶌津さんは「動機」「留意点」という項目を付けた。
「まずは、最有力容疑者の美依さんから? 可能性としては九十パーセントぐらい?」相沢がたちの悪い冗談を言った。
「――動機としては、逆恨みに対するやり返しとなりますよね。江伊さんに一等をひがまれて、何かしらの
すると、嶌津さんは{美依忠氏の存在}と書き足した。
「美依さんのお父様が問題になるのですか?」
嶌津さんは便箋をもう一枚取り出した。それにしても、彼の筆記はなんて速いのだろう!
{美依君と出井口女史の取り調べで話題に上った『噂話』は二つある。
一、江伊氏と出井口女史との交際関係。無論、不義密通。
二、〈日高書道連盟〉と〈人民改革党〉のワイロ疑惑。前回の大書展の選考に不正がアッタとかナカッタとか。江伊氏含む人改党シンパが多く受賞。美依君は本名で挑み一次落選。彼は反共、家庭への未練マルデ無し。}
「嶌津さんは、美依さんが犯人である可能性はどの程度だと思いますか?」僕は恐る恐る聞いた。
彼は少し迷った後{一割も無いと思いたい。}と書いた。
(二)
「そうなると、次に考えるべきは出井口さんですね。取り調べでは、江伊さんとの関係は名前を聞いたことがあるだけだと言っていましたが――。」
「やっぱり恋人同士だったんだよ。お前が聞いた二人のやり取りから、俺が推測した通りさ。」
僕は嶌津さんに、銭湯で相沢が立てた考察を話した。僕自身、初めて聞いた時には荒唐無稽な考えだと思ったが、今では、もしかしたらと思い始めていた。
「後ろ暗い関係にあった相手を、口封じのために殺害――動機としては申し分ありませんが、出井口さんは小柄な女性ですから、江伊さんを絞殺するほどの力があるとは到底思えません。」
嶌津さんは立ち上がり、すやすやと寝息を立てている椿さんをそっと仰向けにして、彼女の首の後ろに手のひらを差し込んだ――否、差し込もうとした。しかし、枕と首との間に手が入る程の隙間などは無かった。僕はハッとした。もしも無理に差し込んだとすれば、まず間違いなく目を覚ましてしまうだろう。幼い少女でさえこうなのだから、巨漢が相手となれば、紐を巻き付けることなど不可能だっただろう。
「江伊氏は酔っていたんでしょ? とてつもなく眠りが深かったのかもしれない。」
{アルコールを多量摂取すると眠りは浅くなる。}
(三)
「そういえば、昭久さんから禁酒令が出されていたはずですが。」僕が思い出して諫めると、昭和の藤原伊衡はハテナととぼけた。
「酒といえば飯田さんか。でも、あの人に動機なんて無いよね。」
「あるとすれば――飯田さんは美依さんのパトロンだったから、忠氏とは折り合い悪く、江伊さんとも対立関係にあったという見方か。」
嶌津さんはしばらく考えていたが、やがて{社会的地位の高い人間が直接的方法を選ぶとは考えづらい。}と書いた。
「そうすると、犯人である可能性は――」嶌津さんは首を横に振った。
(四)
「岸江さんのことが気になるんです。」
二人が、あまりにも僕の顔をじっと見つめるので、僕は少し照れ臭くなった。咳払いをひとつして話を続けた。「彼女は、夕食会の間ずっとそわそわ落ち着かない様子でした。そうして、配膳の合間合間、水を注ぐ時、後ろに控えている時――彼女は、不安そうにペンシルベニア准将を見ていました。彼女が何を気に病んでいるのか僕には見当もつきません。ですが、僕にもひとつ気付いたことがあるんです。」僕は、深呼吸をして、胸に秘めていた考えを言った。「――岸江さん。彼女の本当の名前は、フローレンス・ガブリエラ・椎名。――椎名良樹さんの実の娘だ。」
相沢がええっとのけぞった。「おいおい、どういうことだよ!」相沢の困惑も当然だった。僕は、順に説明していった。
「――きっかけは、ちょっとした違和感だった。それは、顔や首に比べて耳だけが白いこと。日焼けでは無いと思う。なぜなら、チェイシルさんに確認したところ、岸江さんは、コリーン・ムーア(アメリカの女優)風のロングボブが大のお気に入りで、少しでも長くなると、元理容師のホーパーさんに切らせるそうだから。そんな彼女が “住み込みの給仕係のメイド“ という立場で、五月はじめに首の後ろまで日焼けしているというのは、ちょっと変だろう? だからこう考えたんだ。薄色こそ彼女本来の色で、正体を隠すために少し濃い色のファンデーションを塗っている、と。そうして考えた時、ハッとした。気付いたんだ! 日泥警部が見せてくれた写真の外国人女性こそ、正体を隠して今回の一件に関わっていた――。」そこまで言ったとき、がちゃんと音を立てて扉が開いた。
その奥に岸江さんが立っていた。目に涙をいっぱいに溜めて……
十 ゴッド・イン・ヒズ・ヘヴン
しばらく彼女は泣き続けていた。椿さんは、目を覚ますやいなや、三人の男が女性を囲んで何やらやっていたので、きゃあと小さく悲鳴を上げてベッドから転げ落ちた。僕たちは簡単に事情を説明して、涙する声が外に漏れぬよう策を施した。
「――私は、米人の母と日本人の父の間に生まれました。」岸江さんことフローレンスさんは、僕が手渡したハンカチーフのしわをいじらしく伸ばしながら語り始めた。「当時、母は日本で翻訳の仕事をしていました。そこで、教員をしていた父と出会ったそうです。私は、十一になるまで大阪に住んでいました。けれど、戦争が始まって――私たち家族は、母の故郷のシアトルに移り住んで、二年前に日本に戻りました。私は――父のことを分かってあげられなかった。いつの時代にも、家に帰らない親と、業績より愛情を求める子供はいるものですわ。後から、ひとに教えられて知ったことですが、父は、空襲で焼けた古美術品を復元する取り組みに関わっていたそうです。私は――寂しかったんだと思います。新聞の記事、読んだでしょう? 本当は、行方不明なんかじゃなくて、遠くの友達の家にいただけ。半年もすれば帰るつもりだった……」そこで、言葉が途切れた。長いこと誰も言葉を発しなかった。「――心当たりがあるの。父は、お酒を飲むと決まって私を呼んで演説を始めたわ。大抵は、なんだかよく分からない神学の話だったけど、あの日だけは違った。あれは、おととしの年末の寒い夜。『政治思想なぞで芸術の良し悪しをどう……』だとか、『美術家の贈賄ほど神に背きし行いは無い』だとか――。『ねえパパ、誰か悪い人がいるの?』って聞いたら、真面目な顔で『お父さんが殺されても、それは殉死に他ならん』って――。とても、怖かった。」
「あなたは、どうしてここに来たのですか? 四年前からペンシルベニア准将に仕えているというのは、本当のことでは無いのでしょう?」
フローレンスさんはパっと顔をあげて言った。「私は、ここに “敵討ち” に来たの。父が、芸術家や賄賂だなんてことを言い始める前にあって、関連がありそうなことといえば、大書展の選考会しか思いつかなかった。――ライさんは、母の大学時代の後輩で何度か会ったことがあった。とても親切にしてくれました。私は、彼のハウスパーティーで酔った勢い任せに計画を話してしまった。彼は、私に嘘のプロフィールを与えてメイドとして連れてきてくれた。だけど上手くいかなかった。パパを殺した犯人も分からずじまい――。」
僕は気になったことを聞いた。「どうして、ペンシルベニア准将はあなたにそこまで協力したのでしょうか?」
「私も何度も聞いたのだけど、はぐらかすばかりで教えてくれなかったわ。」
十一 汚職事件
一時間後、僕たちは再び食堂に集められていた。ペンシルベニア准将だけが体調不良を理由に欠席していた。フローレンスさんの方をちらと見ると、改めて化粧をしたようで、涙による崩れの跡はきれいに無くなっていた。
「お疲れのところお集まりいただき恐縮です。――実は、先ほど別部署の捜査官から電報が届きました。」日泥警部は、後ろに控えていた若い警官から葉書を受け取って読み上げた。
“ヒッショ ジンカイ ワイロ ショウコ アリ”
「〈日高書道連盟〉と〈人民改革党〉との間で不正な金銭の受け渡しがあった証拠が見つかりました。つまり、日書連は人改党から金銭を受け取り、その活動に於いて、会長、日高氏の社会的影響力を用いて、美依忠氏の「反日的ないし国家解体思想」のシンパを優先的に所属・受賞させ、無辜なる国民へ
出井口さんは、意外にもあっさりとそれを認めた。「私は地位を失うことが怖くて、会長の意向に沿うことを選んでしまいました。いくつかの選考会に於いて、作品の出来ではない部分を基準に不条理な選考がありました。」
日泥警部は頷いた。「あなたにも改めて取り調べが行われるでしょう。とはいえ、その罪は重くはならないでしょう。あなたには情状酌量の余地が十二分にありますから。」彼は、ボールペンの先で机をこつこつと突いた。「美依清さん、あなたにも改めてお聞きしなければならないことがありますね。」
「僕はあの男とは既に何の関係もありません! こんな名字だって、叶うなら変えてしまいたいほどですよ。」美依さんは、机に手をついて怒声をあげた。
日泥警部は動じることなく話を続けた。「あなたは取り調べにて、界隈に流れている噂話についてお話しくださいましたが、それはこの贈賄に関することでしょうか?」
「それは――。」
「江伊さんに関わりのあることだとおっしゃいましたが、誰かしらとの人間関係についてでしょうか?」
美依さんは、苦虫を嚙み潰したような表情で顔を伏せた。僕は、彼が嘘をつけない性格だと分かっていた。嘘をついても簡単に露見してしまう僕とは違い、正真正銘 “つけない” 人なのだ。
「それは――何も、言えません。ええ、何も言えません。」美依さんは拳を固く握り、最後にはきっぱりと言いきった。
「いいでしょう。ただし、あなたが重要参考人であることは変わりません。」日泥警部は厳しい声で言った。
十二 野崎の提案
今夜はみんな、自室で食事を摂っていた。僕は一人で静かに過ごすつもりだったのだが、岸江さんが食事を運んでくださるのに便乗して、相沢が「ほわあ」と奇声をあげながらするりと侵入してきたために、この部屋には小鳥のごとき姦しさが
――あの口論の断片は? 落選続きだった江伊さんが優秀賞を獲得できたのはなぜ? もしかして、僕は何かを見落としているのか?
僕は、空になった器と、また勝手にベッドを使っている相沢をそのままにして、嶌津さんの部屋に向かった。しかし、そこに彼はおらず、出迎えたのは椿さんだった。
「三ちゃんなら、さっきまでここで書きものをしていたけど、江伊さんの部屋に入っていったわ。私は近づくのもイヤだから戻ってきたの。人が殺された部屋なんて気味が悪いもの。」
椿さんに礼を言って廊下を真っすぐに歩いていくと、開け放たれた扉から、嶌津さんが事件現場のベッドに寝転がっているのが目に入った。数時間前まで死体が乗っていたベッドで居眠りをする人も、死体と同じくらい不気味であると思った。
僕は入り口に立ったまま声をかけた。「嶌津さん、椿さんが寂しがっていますよ。」すると彼は、寝転んだままテーブルの脚を指先でこつこつと叩いた。じっとこちらを見つめるので、僕は意を決して室内に踏み入った。
彼が叩いた部分には、わずかに塗装が剝がれている箇所があった。さながら、細い紐でこすれたような――。
「そうか、犯人はここに紐を結びつけて殺害したのですね。ですが、どうやって首の下を通したのでしょう。」枕元にしゃがんで、年齢の割に大きな目を見ているうちに、嶌津さんを探していた理由を思い出した。「嶌津さん、一緒にバルコニーに来てくださいませんか? ご相談したいことがあるんです。」
起き上がった彼の衣服を整えてあげると、襟元からショートピースの甘い匂いがした。寝癖のついた頭をぽりぽり掻いている彼を見ていると、椿さんがこの青年を気に入る理由が分かった気がした。
僕たちは揃ってバルコニーへ出た。月の光が、細い金属を巧みに折り曲げて作られた椅子や机を照らしていた。
「犯人も、犯行方法も、考えてみたけれど僕には分かりませんでした。だけど――たとえ犯人が誰で、どんな理由で犯行に及んだのだとしても、僕は自首を勧告するべきだと思います。甘い考えかもしれないけれど、殺人に手を染めた背景には何か悲しい事情があるような気がしてならないのです。――嶌津さん。もしも、犯人が分かったら、僕を説得に行かせてください。」
嶌津さんは煙草を吸いながら僕の言うことに耳を傾けていた。真っ赤な両目は、夜空に現れた恒星のように輝かしかった。
結局、彼は可否を返さないままバルコニーから立ち去った。
僕は、ひとりぼっちで冷たい夜風に当たっていた。
スピリッツ荘の怪事件 ‐捜査編‐ 完
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます