スピリッツ荘の怪事件 事件編
嶌津三蔵…………………………代筆屋兼書道家
嶌津椿………………………………三蔵の従妹
野崎建男…………………………風ノ森高校一年生
相沢嶺二…………………………(同上)
美依清………………………………書道家
江伊昌平……………………………(同上)
出井口トキ枝……………………(同上)。〈日高書道連盟〉幹部
飯田智則……………………………酒造メーカー重役
椎名良樹…………………………大学教授
ライ・ペンシルベニア……スピリッツ荘の主人。准将
チェイシル……………………執事
ホーパー…………………………秘書
岸江………………………………メイド
立川………………………………コック
日泥………………………………警部
プロローグ
あれは、昭和十年、僕が六歳になったばかりの梅雨の日の出来事だった。
「僕も、傘がいいです。」玄関でレインブーツを履きながら、僕は真剣に言った。真面目な交渉の一場面である。
――兄さんは聞こえていないみたいに笑って「建男には雨合羽がいいだろう。」と、父さんとさっさと決めて、このゴム臭い黄色のレインコートを着せてしまった。
――レインコートにすっぽり包まれた僕の体は、大粒の雨に絶えず叩かれていた。湿気と汗とで襦袢にぴったり張り付き、ひどく不快だった。だから、僕は怒っていた。帰り道、一度直った機嫌がまた傾いてきて、この人を困らせてやろうと企んだ。兄さんは、左手で僕の手を引き、右手に大人用の青い傘を差していた。――ちょうど、駅前の商店街を抜けたところだった。ふと、何かの理由で兄さんが僕の手を離した。「今だ。」と思い、僕はひと思いにレインコートの
開放感、清涼感、してやったりの爽快感。
兄さんは目を丸くして、持っていた青い傘を僕の上に掲げた。「だめじゃないか。お前は体が弱いのに。」
念願の傘。重苦しい曇り空は遮ぎられて見えなくなった。だけど、ちっとも嬉しくはなかった。背中を濡らす兄の姿を見て、自分はなんてことをしてしまったのだろうと悲しくなった。
「重たくないの? ――そう、お前は力持ちだね。」
「怒らないんですか。」僕は不思議に思い、恐る恐る聞いた。
「怒ったりなんかしないよ。建男は子供扱いされて、嫌だったんだろう? だけど、気が済んだらそれは兄に返しておくれね。兄は傘がないと出られないんだ。」
僕の心の底など、彼は微笑のうちに看破してしまうのだった。つと、兄さんが僕を抱きすくめた。すっかり瘦せてしまって、骨と皮ばかりのあまりにか細い身体だった。
――その三年後、兄さんは戦争に行った。そして、今でも消息が掴めないでいる。――
一 差出人
(五月三日 憲法記念日)
僕と相沢は、祝日なのに賑わいのない商店街を歩いていた。呉服屋の入り口から、ラジオのニュースだけが聞こえている。
僕たちは、あさって飛鳥村で執り行われる〈大日本書道展〉の授賞式に、代理で参列することになっていた。僕たちの兄の共通の友人、嶌津三蔵さんが最優秀賞を獲得したのだ。彼の受賞はこれで三度目だった。そのためか、「一度でも次席以上になった者は参加権を失う」ように、来年度から改定されたそうだ。
代理。――もともとは、三蔵さん(普段は『嶌津さん』と呼んでいるが、ややこしいときははこう呼称する。)の父、昭久さんと、祖父、金蔵氏が参列する予定だったのだが、金蔵氏が新作の実験的な制作中にぎっくり腰になってしまったために、二人揃って動けなくなってしまったのだ。
三蔵さんのもとに〈スピリッツ荘〉での夕食会の招待状が届いた宴会の席に、たまたま僕たちも居合わせていた。差出人は、ライ・ペンシルベニア氏。彼と嶌津さんは “知り合い“ のようだが、とても詳細を聞けそうな雰囲気ではなかった。招待状に「是非御宿泊ください」と添えられていたために、当初は日帰りの予定であったのを急遽二泊三日に変更したのだった。
「トランプとオセロはあるだろ? あとはお菓子があれば――」
「遊びに行くんじゃないんだぞ。もっと実用的なものが思い付かないのか?」僕は相沢をたしなめつつ、考えていたことを言った。「ペンシルベニア氏は、とてつもなく優秀な人なんだろうな。二十七歳で大佐にまで昇進し、今や准将だ。」
「へええ、お前、緊張してるんだ。」相沢は、洋品店のショーケースを覗き込みながら小馬鹿にしたように言った。
「彼の階級にだけじゃない。あの日――ペンシルベニア氏の名前を耳にした瞬間の嶌津さんの表情を見ただろう。きっと、嶌津さんにとって、重大な出来事に関係のある人物に違いない。」
相沢は、いつでもこともなげに人の思考を看破してしまう。「米軍のお上なら、海里さんの情報を持っているかもって?」
「俺は何も言っていない。」
「お前の考えていることなんか、すぐに分かるよ。頭に書いてある。いや、顔だったかな。」相沢は、今度は笑わずに言った。
(五月五日 こどもの日)
まだ星の見える早朝、僕はいつもの通りに家を出た。
〈平松新聞販売店〉は、大輪田駅前の長い急勾配を上りきったところにある。この店を見て思うことは「錆びついた大型コンテナに時間に杜撰な店長を置いても、案外 ““経営“” というものは成り立ってしまうのだな」という、ある種の堕落的な安心感だった。
ここに勤めてもう六年になる。戦争末期のことで、同居する家族はみんな遠くに行ってしまった。――父さんに次いで兄さんが出征し、小学校の教師だった叔母は学童疎開の引率に同行し、母さんはいまだ療養所から帰らず、祖父母やその他の親戚は東北で暮らしていた。ひとり残された僕は、隣組の雪城さんのもとに預けられた。「家族なんて他人みたいなものじゃないか」と悪態をついてみれば、ほんの少しだけ会えない心細さを忘れられた。
ここの店長の平松夢示さんは、まだ三十を少し過ぎたばかりで、二年前に代替わりした。目の覚めるような美男子なのだが、何かと不健全なひとで、配達員たちは毎朝こうして星空の下で待たされることになるのだった。
待っている間に、就労時の僕について話そう。
僕は九才だったが、他の子どもより成長が早かったので、高等科一年生と偽って有利に就労しようと画策した。そのときの面接担当者が、当時事務課長をしていた夢示さんだった。彼は、何のことなしに僕の嘘を見破ってしまうと「店長には黙っていてやるから」と言って、何かにつけて僕に構うようになった。
先代の孝元氏は退任したのだから、いい加減に足蹴にしてしまおうかと考えることもある。そうして、どこか別の場所へ就労してしまう? ――しかしながら、彼の、しばし少年たちには刺激が強すぎるのではないかと危ぶまれるほど悩殺的な所作に触れる度に、こう思わずにはいられなかった。 “ああ、この人には破滅願望があるのだ。そうして、いま、彼を退廃の穴の縁で引き留めているのは僕だ。彼は僕に触れたいがために生きているのだ。” そう思い始めると、辞職のことは魔が差したとしてどこかに押しやってしまうのだった。
「よしよし、おはよう、おはよう。はい、はい、いってらっしゃい。暗いから、気を付けたまえよ。」
配達員たちは、順次自転車のかごに新聞の束を入れて駆け出していった。
「夢示さん、明日明後日とすみません。」王寺町を離れるので、配達の仕事も休まざるを得なかったのだ。
「なに、構わないさ。ちょうど成田君が戻ってくるんだ。おおかた、予算分配をしくじったんだろうよ。」そう言って、彼は不敵に笑った。
「あの、それから。」一度、そこで言葉を区切った。当人が気付いてくれないかと期待したが、彼は次の言葉を待ち続けるばかりだった。「――夢示さん、お召しになっているその肌着、あまり見せない方がよろしいかと思います。」僕が指摘すると、彼はジャンパーの襟を引っ張って中を覗き、くつくつと笑い出した。
「なんだってあいつ、こんなところまで汚していったのかな。嫌な女だね、お互い名前さえ知らない――」
「不健全ですよ。」はっきり言ったところで彼は本気に取り合ってくれない。
一時間後、配達を終えて店に戻ると、夢示さんは店内のソファで仮眠をとっていた。室内は心地よい静寂で満たされていて、頁をめくる音でさえ騒音になってしまうだろう。僕は、夢示さんの勝手な解説を聞きながら日々のニュースに触れることが一番好きな読み方なのだが、今日は始発前のバス停に座って読むことに決めた。
連合国軍との条約のことが、今日もまた大きく載っていた。読み進めていると〈大日本書道展〉の授賞式の出資者、協賛社の広告が出ていた。ライ・ペンシルベニア氏の名前もあった。――平松さんの説によれば、アメリカは「日本を軍事大国から農業小国にまで縮小させること」を目的としているのだそうだが、それは国家同士、官僚同士の話であって、民間単位では仲良くやれるはずだと僕はひそかに信じている。
「どうしてそんなところにいるのかな。中に入っておいでよ。」
声の聞こえた方を見ると、白いタオルケットを羽織った夢示さんが立っていた。
「よく眠っていらしたので、起こしてはいけないと思って。ねえ、夢示さん。朝刊に〈スピリッツ荘〉の主の名前が載っているんですよ。アメリカ人とだって、ヒト科のよしみで仲良くやれると思いませんか?」
「またそんな空想(傍点)を始めたのかい。その清い心の前では、鬼さえ改心してしまうのではないかな?」そう言って、また不敵に笑った。
二 出発
家の人たちはまだぐっすりと眠っていることだろう。寝間着に着替えて、置き時計のネジを回し直して布団へ潜り込んだ。ここは、聖域だ。今日は土曜日なので本来なら授業があるのだが、今日は終日、一部生徒の三者面談に充てられていた。
やがて、解れてフリンジのようになったカーテンで、明るさが減退した朝日がとろとろと室内に流れ込んできた。
トースターでパンを焼いている間に、母さんのいる和室へあいさつにあがった。母さんの病状は少しづつ良くなってきている。最近はわがままが多くなった印象だ。
「朝は、そこでお食べになって。今朝は、お母さん、いつもより元気。あなたはお休み。それなのに、あなたは遠くへ行って、三日も戻らないの。ひどいわ。ひどいわ。」
「叔母さんがいるでしょう。実子も実妹も変わりませんよ。」どうして僕は、母さんにこんなに冷たいことを言ってしまうのだろう。本心と言動がちぐはぐで、いつでも後悔が残る。
待ち合わせ場所の王寺駅前にはすでに嶌津さんがいた。彼は、軍帽(軍の払い下げ品の中にあったのだろうか?)に白の開襟シャツ、白地に青の濃淡が見事な大和絣を羽織っていた。荷物が極端に少ないのは、式典に必要な衣装などを予め郵送してあるからだが、それにしても、と思わずにはいられなかった。
「おはようございます、嶌津さん。」
彼はツバを軽くあげて挨拶を返した。――嶌津さんは全く声が出ないという訳ではなく、そよ風のようにかすれた声しか出せないのだという。先の大戦で左腕を欠損する以前は手話を使っていたが、今はもっぱら筆談で生活しているそうだ。
時刻は九時ちょうどで、列車の発車は四十分後だった。相沢はたいてい時間通りに来ないので、四十分も前に集合することにしたのだが、結局、相沢が現れたのは九時半近くになってからだった。
「遅いぞ。」
「やや、待つ身がつらいかね、待たせる身が――」
「黙れ。あと一分遅かったら置いていくつもりだったんだぞ。」
「僕ってば、あればあるだけ使っちゃうたちなんだよね。」そう言って、跳ねるように切符売り場の列へと並んでいった。反省しているふうなところは一片も感じられなかった。
シートの端に相沢が座ったので、その横に僕、嶌津さんと続いた。何気なく扉の方を見たときに、嶌津さんの左半身が視界に入った。そこで僕は初めて、彼の身体に残る痛々しい火傷痕に気が付いた。
橿原神宮前駅で電車を待っていると、きれいな黒髪の少女が嶌津さんのそばにやってきた。僕たちは、少女の顔を見てびっくりした。大きな赤い釣り目、重たげな黒い髪、白い肌――どこを取ってみても、嶌津さんにそっくりだったのだ。とっさに僕は、厳寒に咲く椿を連想した。少女は嶌津さんに飛びついて、はしゃいだ声を上げた。「三ちゃん、おはよう。私も三ちゃんと同じところに行くのよ。楽しみでしょう?」少女は、相手が何の反応も示さないことに構わずはしゃいでいたが、やがて父親らしい男性に連れられて名残惜しそうに去っていった。
あとから知ったことだが、彼女は嶌津椿さんといい、三蔵さんの従妹にあたる人物なのだそうだ。
三 事件の予感
飛鳥駅の改札を出ると、白い自動車が僕たちを迎えた。そばに立っていた、黒いスーツをしっかり着た外国人の男性が西洋風のお辞儀をした。
「はじめまして、嶌津様、野崎様、相沢様。お目にかかれて光栄です。私は〈スピリッツ荘〉で執事をしているチェイシルと申します。どうぞ、お見知りおきを。」流暢な日本語でチェイシルさんは言った。「お荷物をトランクへお積みいたしましょう。このまま会場へ向かわれますか?」
「僕は、貸し自転車屋へ行きますので、会場へは個人的に向かいます。授賞式には間に合うようにしますので。」
相沢が振り向いて「え、そうなの? それじゃあ俺も。」と言ってそばに寄ってきた。
チェイシルさんは「さようでございますか。では、大きなお荷物だけお預かりして、お部屋にお運びしておきましょう。」と言い、てきぱきとトランクへ荷物を積み込んでいった。
身軽になった僕たちは別れの挨拶を交わして、車が走り去るのを見送った。
「行きたい場所があるなら、自動車で連れて行ってもらえば良かったのに。」相沢は不審そうに言った。
「それはそうなんだが、せっかくならこの自然を楽しみたいと思ってな。それには、自転車で風を切るのがいちばん良い。」
高取町方面の大路はわずかに上り坂である。この村は盆地なので、いたるところにこういった坂道が存在している。十五分ほど走ると、右手の雑木林の中にキトラ古墳が見えた。一見すると、ただの盛り上がり。どこに存在しているのか、ちょっと見ただけでは分からなかった。
「これが古墳だって? お前、こんなのが見たかったのか。」相沢は明らかに関心が薄いようだった。僕は、発掘調査がなされればすごいものが見つかるかもしれない、と言ってみたが「どうだかね。」と、手をひらひらさせるばかりだった。
――その時、雑木林から声が聞こえた。見ると、着物を着た背筋のしゃんと伸びた女性と、ハンチングを被った恰幅の良い男性が口論をしていた。
「……それは仕方がないって、あなたも理解してくれたはずでしょう?」と女性。
「……まあね、だけど気が変わったんだ。」と男性。
少し気になったが(このような問題については特に)立ち聞きしてはいけないと思い、僕はその場から離れた。相沢は、さっきからすでにいなかった。
休憩所の看板に沿って走っていると、横道から現れた男性を追い越した。年は三十歳くらいで、硬質そうな短髪や筋肉質な首元から活力が溢れていた。スケッチブックと鉛筆を持っていた。
休憩所の横に自転車を停めてベンチで休んでいると、その人がやってきて隣のベンチに座った。しばらくの間、スケッチブックに視線を落として何かを考えこんでいたが、やがて「シマヅ君に相談するべきだ。」と呟いて歩き去っていった。
「ここから石舞台古墳まで、何分くらいかかるんだ?」あっという間におにぎりを平らげた相沢が、能天気な声で聞いてきた。授賞式会場は、石舞台古墳の近くで行われるのだ。
「三十分か、もう少しかかるやもしれん。なにせ、上り坂だからな。」
「……やっぱり着いてくるんじゃなかった。」
「今更言っても遅い。」
大路を引き返し、交差点の手前で右折すると、まっすぐに伸びた道の先に森へと入っていく急勾配が見えた。石橋を渡ったところからいよいよ傾斜がきつくなってきた。僕は順調に登り始めたが、相沢はそうもいかず、すぐに情けない悲鳴が遠ざかっていった。少しして後ろを振り返ると、ただ坂の地平線だけがあった。上り坂では、途中で停止すると再び走り始めるのが一苦労だ。僕は、頂上まで到達してから相沢を待った。坂の両脇は鬱蒼とした森になっていて涼しく、汗をかいた体に心地よかった。
およそ五分後、へとへとになった相沢が自転車を押しながら現れた。
「ここからはしばらく下り坂だが――少し休憩した方がいいな。」
「いいや、問題ないぜ。俺は下り坂を見ると元気になるんだ。堕落は俺を元気にさせる。」
言い終わる前にペダルに足がかかっていて、ブレーキのことを忘れてしまったかのように下りだしたので、僕は慌てて後を追いかけた。
「相沢! ちゃんとブレーキを掛けろ!」
「無粋だぜ! ここに退廃の美が宿る! 転落人生に乾杯だ!」などと叫んで今度は前方に遠ざかっていく。しかし、すぐに上り坂が現れたので再び距離はゼロになった。
疲労困憊の相沢に僕は満足だった。
四 石舞台古墳
僕たちは、自転車を近くの営業所に返却し、控室へ様子を見に行った。一番奥の姿見の前で、嶌津さんを数人の着付け師が囲んでいた。
僕たちが、嶌津さんの後ろの壁際に落ちつくと、鏡に映った彼と目が合った。
少しして、大きな荷物を斜めにかけた恰幅の良い男性が入室した。キトラ古墳のそばで見かけたあの男性だった。
「江伊様でいらっしゃいますね。お荷物は、壁際へお置きになってください。」嶌津さんにも付いていた着付け師のひとりが近寄って言った。
「ああ、どうも、よろしく。」バッグの中身は羽織袴だった。プログラム表によると、江伊さんは優秀賞であるらしかった。
江伊さんの着付けが終わったころ、また扉が開かれて、今度は休憩所で隣になった男性が現れた。彼は嶌津さんを見つけて溌剌と声をかけた。
「おーい、嶌津君。しばらくぶりだね、元気にやってたかい。」
嶌津さんは立ち上がり、その男性と力強い握手を交わした。
「元気そうで良かった。――うん、やっぱりこの着物は君によく似合っている。あの子たちは、君の知り合いだったんだね。さっき休憩所で見かけたよ。」
二人の視線が僕たちに向いたので、軽く頭を下げた。彼は
美依さんがすっかり正装になると、受賞者たちは別室に案内されていった。僕たちは開式が近くなるまで石舞台古墳を見に行くことにした。
この古墳は、何かしらの理由で土だけが取り去らわれたので石室だけが特殊な状態で現存している。
「蘇我馬子の墓なんだったっけ? ひんやりしてる。」
「ああ、立派なものだ。」
「俺もこういうところに入れてもらおう。そんで、千年先に無学な学生に荒らされるのさ。」そう言って大きなあくびをした。「俺が死んだらよろしく。」
こいつの話は、度々思いがけない飛躍をして聞き手の寿命を縮める。上手な返答を思いつく前に、相沢は石室から出て行った。
僕が相沢の過去について知っていること――。雪城さんのところに居候していた頃、彼の経営する〈
僕は何も答えられなかった。それ以降、天川君が姿を見せることは無かった。相沢が僕の通っていた小学校に転校してきたのは、終戦近くのことだった。――登校初日。僕は、天川君の言っていた「相沢」が、まさかこの生徒のことだとは露ほども思わなかった。相沢は人懐っこくて愛想が良く、誰からも好かれていた。僕は――なぜあんなことを言ったのだろう――僕は、相沢に天川君のことを話して聞かせたのだ。その時の豹変ぶりたるや、今思い返してもぞっとしてしまう。
そしてその日から、僕の行動を全て監視していたい相沢と、更生と改心を迫る僕との奇妙な「友情」が始まったのだった。
今、来賓席には、新聞で顔を見たことがある著名人や政府関係者が揃っていた。その中に、江伊さんと口論をしていた中年の女性がいた。今の姿は、パーマネントウェーブのショートヘアに、薔薇模様の赤い着物を合わせた先進的なスタイルだった。紅一点ということもあり、彼女はひときわ目を引く存在だった。
いよいよ式が始まり、主催団体の会長の言葉が述べられ、来賓紹介、そして受賞者たちの登壇となった。一番目は、最優秀賞を取った嶌津さんだった。登壇した途端からシャッターの音が大きくなり、賞状を受け取った瞬間に最も大きくなった。
全員の授与が終了すると、檀上に受賞者と審査員全員が並び、写真撮影が行われて閉式となった。
五 スピリッツ荘へ
チェイシルさんは近くの駐車場に自動車を停めていて、隣には同じ型の赤い車が停めてあった。
「皆様、お疲れ様でございました。嶌津様、椿様、野崎様、相沢様はこちらへご乗車ください。江伊様、美依様、出井口様、飯田様はあちらの赤い車へご乗車ください。秘書のホーパーが運転いたします。」
ホーパーさんは、チェイシルさんよりずっと若い、ブロンドの髪をした気だるげな男性だった。
椿さんと一緒にいた男性は彼女の父親だったが、急遽大阪へ戻らなくてはならなくなったそうで、今は椿さんだけが嶌津さんのもとに預けられてここにいた。
僕が自動車に乗るのは初めてだと言うと、助手席に座るように勧められた。フロントガラスから外を見ているのがいちばん酔いにくいのだそうだ。フロントガラスの前には、三体の
「これらのぬいぐるみは、ミスター・ペンシルベニアのものですか?」
「ええ、そうなんです。彼にはもともと少女趣味なところがありまして。クッションとブランケットは、季節ごとに違う
後部座席には、花柄のクッションと竹を描いたブランケットがあった。
「チェイシルさんは、ペンシルベニア准将のもとでは長いのですか?」
「彼がハイスクールに通っていた頃からですので、もう十年以上になりますね。私は彼のいいなりですよ。」そういいながらも、彼は穏やかに笑った。
スピリッツ荘は、比較的小さな白い建物だった。門を形作る細いステンレスは桜を描き出しており、その隙間から日本庭園が見えた。
壁と同じ色で作られた通路を進み、チェイシルさんが玄関の扉を開いた。「どうぞ、お入りください。旦那様が皆様をお待ちしておられます。」
内装は白を基調としたミニマルなものだった。橙色の電燈は球体に貼り合わせた和紙で覆われ、柔らかく室内を照らしていた。
「皆様、よくいらっしゃいました。
嶌津さんは、いつもよりも深く上目遣いをして警戒しているようだった。
チェイシルさんが二階にある各自の部屋へ案内した。二階は二重廊下になっていて、東西に外回廊へ出る大きな扉があった。僕の部屋は、東側に並んだ三部屋の真ん中で、向かって左が相沢、右が椿さんの部屋だった。
白と橙の温かい空間――木材とステンレスで組み立てられたベッドに、ふかふかのマットレスと掛布団が敷かれてあった。ヘッドボードの細い曲線は正門と同じ様式で、こちらには藤の花が描き出されていた。ベッドに倒れこむと、今日一日の疲れが眠気を伴って現れてきた。
“ここはこんなにも平和で、快適だ。えいえい、起き上がれ、建男。僕ひとりが、幸福になってはいけない。”
なんとか眠気を追い払い、きっと何の準備もしていないであろう相沢の元へと向かった。ノックをすると、気の抜けきった返事があった。案の定、入り口のすぐそばの床に鞄が開いたままにされていて、靴は脱ぎっぱなし、上着は椅子の座面に丸めて投げられてあり、何の片付けもせずにベッドに埋もれて
「起きろ。エントランスに行くぞ。」
「ああ……そうだなあ……ふわあぁ」相沢は大あくびを連発すると、言葉とは反対により深く埋もれていってしまった。起こそうと試みたが徒労に終わった。僕は溜め息をついて、乱雑な扱いに甘んじている相沢の荷物を片付けていった。それが終わり、一人がけのソファに座っているうちに――どうやら、眠ってしまっていたようだ。目を覚ましてあたりを見回すと、相沢はいなくなっていた。
六 奇妙な夕食会
エントランス・ホールには既に他の参加者が集まっていて、思い思いに時間を過ごしていた。
小さな円卓を、嶌津さんと美依さん、椿さん、そして相沢が囲って談笑していた。何か相沢に言ってやりたい気分だったが、結局出遅れたのは僕の方であったし、もしかしたら眠る僕に気を使ったのかもしれないと考え、ここは何も言わないことにした。
江伊さんと出井口さんは、相沢たちとは離れた壁際の椅子に座っていた。離れて座っていて、お互いに無関心な素振りだった。
飯田さんは、壁に飾られた額縁を鑑賞していた。僕は最初それらを絵画だと思ったが、まっすぐ見てみるとアルコール製品のラベルだった。僕は飯田さんと並んで鑑賞を始めた。華々しい、楽しげな図柄だと思った。
「見事なものだ。」飯田さんは、噛みしめるように言った。「君は、いくつかね。」
「十五です。」質問の意図は読み取れなかったが、僕は答えた。すると、その堅物そうな酒造メーカーの重役は何度も頷いた。
「昔はね、酒ある所はすなわちハレの場所。見てごらん、桜や富士が多く描かれているだろう。現在では――(彼はしばらく目を閉じていた)酔うことだけに縋ってしまうのは悲しいことだ。笑って飲み交わせる時代を作らなくてはね。」そう言って、また何度も頷いた。
その時、食堂の扉が開き、チェイシルさんが夕食会の開始を知らせた。ダイニング・テーブルの上には、すでにパンかごが用意されていた。
八名の参加者たちは、お互いになんとなく譲りあいながら席に着いた。僕の左隣に相沢が、右隣に江伊さんが、向かいに椿さんが座った。
間もなく、ペンシルベニア准将が廊下側の扉から入室し上座に座った。彼は、軍服から藍染めの麻のセットアップに着替えていた。「皆さん、改めまして、本日の夕食会にご参加いただきありがとうございます。お疲れでしょうから、早速食事にいたしましょう。」
チェイシルさんが扉を開くと、コックとメイドが料理を乗せたワゴンを押してペンシルベニア准将の横で止まった。
三人が手分けして料理を運ぶ間に、ペンシルベニア准将が二人のことを紹介した。「紹介しましょう。彼は、日本でイタリアンレストランを持っている立川君です。休暇中ですが、無理を言って来てもらいました。(立川さんは肩をすくめておどけた。)今日から皆さんにお出しする料理は、全て彼による手作りです。私からも太鼓判を押しておきましょう。そして彼女は岸江さん。日本では ”住み込みの女中さん” というのでしょうか? 僕が外国にいる間のここの管理も任せています。」
僕は岸江さんの姿を見て、何か――違和感を感じた。それが何であるのか分かったのは、もう少し後のことだった。
「アンティパスト」とは前菜のことのようだった。僕は食べ方に間違いが無いよう誰かの作法を参考にしようと思い、右隣の江伊さんをちらと見た。
「きれいな葉野菜だ……これは間違いなく化学肥料……」そんなことをぶつぶつと言いながら、やたらとサラダを鑑賞するばかりでなかなかどうして手を付けないので、今度は左斜め前の出井口さんをこっそり見た。しかし、彼女も何かに視線を注いでいるようで手を動かしていなかった。目線を追ってみると江伊さんにたどり着いた。彼は、サラダマニヤだ。出井口さんは不安そうな表情をしていた。
椿さんは、俯き加減で上座の方にこっそり注意を向けていた。その時、横から名前を呼ばれた。
「いいか、野崎。カトラリーは外側から使うんだぞ。パンは千切って食べて、テーブルクロスの上に置いて――」
「なに、直接か? ……本当だろうな。」
「元
「誤解だ!」僕は慌てて釈明しようとしたがうまく言葉が続かなかった。
次の料理が運ばれてくるまでの間、上座のあたりでは美依さんのことが話題に上っていた。
「――コンペディションというのは、我が社の国産ジン〈紫水〉の新しいラベルに使用する書画を選定するために、去年のはじめに行われたものです。」飯田さんが話していた。
「だがしかし、当時の僕は偽名を使って活動していましたから、まさか美依忠の息子だとは夢にも思わなかったでしょう?」美依さんはやや不機嫌そうに聞いた。
「美依忠氏というのは、〈人民改革党〉党首の?」ペンシルベニア准将が無邪気に尋ねた。
美依さんはカンパリを一口飲むと、噛んで吐き出すように言った。すでに酔いが回り始めているようだった。「誓いますよ、将校様。僕は、
僕は、あっと思ったが、飯田さんがそれとなく発言者の座を代わったので事なきを得た。「そういうわけで、当時の彼は、才能はあるが最低限の衣食住が無い状態だったそうです。」
美依さんはやや不満げに飯田さんを見ていたが、やがて落ち着きを取り戻して言った。「たまたま、〈紫水〉のコンペのことを耳にしたんです。その当時は、従軍時代の上官の家で居候をさせてもらっていました。森沼さんという人ですが、彼が嶌津君に手紙を出してくれたんです。それで、参加料や配達料を、嶌津君と森沼さんが援助してくれたんです。本当に、二人には頭が上がりません。」
「それで、コンペディションで出会って以来は、彼の実力を見込んで、我が社と個人契約を結んでもらいました。」
ペンシルベニア准将は納得したというふうに頷いた。突然、話題が嶌津さんに移った。「そういえば、三蔵君も、去年までは偽名を用いていましたよね。あれは、なぜだったのでしょう?」
嶌津さんは何の動作も返さずにカクテルを飲んでいた。代わりに、椿さんが手を振り回しながらあわあわと説明した。「それは、ええと、三ちゃんは、金蔵爺様の名声に頼りたくなかったから……」
「なるほど、お一人の力で成し遂げられたのですね。」ペンシルベニア准将は納得したようだった。
プリモ・ピアット、セコンド・ピアット、ドルチェと続き、夕食会はお開きとなった。
七 銭湯にて
「皆さん、ディジェスティーボはいかがですか?」そう言って、ペンシルベニア准将はグラスを仰ぐジェスチャーをした。
皆が賛同したので、彼はチェイシルさんに目配せをした。執事は一礼して食堂を後にした。
「十五分ほどで用意が整うでしょう。皆さん、お好きなタイミングでラウンジにいらしてください。ラウンジは、食堂とエントランスを行き来する扉――ええ、その扉です。その隣にある扉から
ペンシルベニア准将が席を立つと、参加者たちも続々と席を立った。
「それじゃあ、俺たちは銭湯にでもいくかな。」
「ここへ来るまでに見かけたあの銭湯か? 悪くないな。」
その会話を聞いていた美依さんが、夜道は危ないから着いていくと提案したが、〈紫水〉の用意があるということで美依さんと嶌津さんは酒宴の席に引っ張られていった。ちょうどその時、コックの立川さんが通りかかった。
「それなら、僕が保護者になりますよ。ちょうど、畑に用があるので。」と彼は言った。
「なんか俺たち、ガキ扱いされてるぜ。手厚いねえ。」相沢は苦笑した。僕も「何もそこまで。」という気持ちだった。
椿さんは従兄の背中を二、三歩追ったが、やがてしょげた様子で僕たちのそばに戻って来た。「三ちゃんは椿のなのに。三ちゃんは椿のなのに。」と、銭湯に到着するまで呪詛を吐き続けていた。
晩春の二十時は、快晴でも暗く肌寒い。目的地の看板がそろそろ近づいてきたとき、不意に立川さんが「それでは、一時間後にまたここで。」と言い残して、畦道の闇に消えていった。
銭湯内には、大きな柱がそこかしこから生えていて、杉の良い香りに満ちていた。戦火の中で焼けることなく残ったそうだ。
「椿さん、もしあなたが先に湯からあがったとしても、この広間に僕たちが見えないうちは降りてきてはいけませんよ。」
彼女はよそ見をしながら「はあい。」と間延びした返事をした。どうしてなのか、この子は僕たちを舐めてかかっているような節がある。
露天風呂から、スピリッツ荘が淡白に光って見えた。ゆったり浸かりながら僕たちは色々なことを談じた。
「嶌津さんがペンシルベニア准将を、特に快く思っていないのは確かなはずなんだ。だけど、ペンシルベニア准将は悪い人には見えない。」
「見た目はそうかもしれないが、中身までそうだとは限らないもんだぜ。女の子が読む雑誌のきらきらした王子様が、舞台裏でも輝いているとは限らないし、案外、ああいう人こそ猟奇的趣味に傾倒してるのかも。嶌津さんの恋人を残酷な目に合わせたのかも、なんて。」
「脅かすなよ。――分からないことは他にもある。例えば、出井口さんと江伊さんの関係――お前は聞いていなかっただろうが、実は、俺はあの二人が口論をしていたのを見ていたんだ。――もっとも、第三者が首を突っ込むような問題ではないと思うが。」
「お堅いお前がそういう言い方をするってことは『男女の問題』だな。こいつは面白くなってきた。さあ、何を聞いたか白状しろ。」そう言って、僕の顔にぱしゃぱしゃと湯を飛ばした。
「分かったからやめろ。」僕は見聞きしたことをそのまま教えた。
すると、相沢はにたにた笑って声高く話し始めた。「馬鹿だなあ、お前は。否! されど無垢は悪じゃない。いいか、教えてやるよ。別れ話がこじれたんだ。三角関係だよ。」それから「うーっくふぁ」と下手くそな咳払いをした。「いいか、まず出井口氏と江伊氏は恋人同士だ。だけど、江伊氏の何かしら――大方、顔か経済力だろうな。女の人はいっつもそれなんだ。出井口氏は愛想を尽かし始めていた。そんなとき、出井口氏の元に好条件の縁談が舞い込んでくる――相手は、地元の名士で美男子でときた。彼女は了承した。邪魔になった江伊氏に別れ話をする――。一度は話が付くが、江伊氏の気が変わり婚約の妨害をし始める。そして、今日、直接話をつけようとしたが決裂。あはは、明日の二人が楽しみだぜ。」
「想像力豊かだな。」僕は皮肉をこめて言った。
「他に疑問は? 何でも教えてやろう。」
一瞬、椿さんについて意見を求めようかと考えたが、相沢の女性観はかなり不躾なことを思い出して取りやめた。
「行きしなの電車で、嶌津さんの左半身に大きな火傷の跡があるのに気付いた。きっと――片腕を失くした時の傷なんだろう。これは、疑問ではなく想像だが、大夜さん(相沢のお兄さん)が、嶌津さんに施していた世話というのは、生活の手助けの他に、精神的な治療もあったのではないかと考えた。もしそうなのであれば、僕たちも、もっと彼のことを気にかけてあげなくてはならないだろう。案外、弱っているのかも。」
「少女趣味の将校を目の敵にするくらいには参ってるみたいだな。」
「そうだとすれば、椿さんが自身を『何の役にも立てない』と卑下した原因も、そこにあるのだろう。」これは、この風呂屋へ行く途中に椿さんが呪詛に交えてぽつりと漏らした言葉だった。
「椿ちゃんに聞いてみるのが手っ取り早そうだ。」
「あの子がそう簡単に心を開いてくれるとは思えないが。けだし彼女は扱いにくい子だ。」
「お前が下手なだけだよ。まあ見てなって。女の子って生き物は、自分を楽しませてくれる存在には際限なく懐くんだよ。」僕の漏斗胸を人差し指で突いて、片側だけで笑った。
椿さんは、大広間の畳に寝転がってなにやら遊んでいたが、その顔には退屈の色がありありと浮かんでいた。
「先に降りないでくださいと言いましたよね。」
「だって、暑いんですもの。」寝転がったままで悪びれずに言った。――ふと、彼女の膝頭がはだけていてハッとした。岸江さんに感じた違和感の正体が分かったのだ。
「それに退屈だったんだろう? トランプでもやるかい。」相沢が枕元に座り込んで言った。
椿さんはパッと起き上がって言った。「ババ抜きしましょう。私、ああいうのが好きなの。」
二人がまだ畳に上がっていなかった僕に視線を向けた。僕は溜め息をついて、電話台のガラス戸を開けてトランプの箱を選び取った。戻ってみると、僕が退席した数秒の間に椿さんはすっかり相沢に懐いたようだった。
「ねえ、建男さん、嶺二くんってば変な子ね。言うことみんな嘘ばっかり。」
「嘘だなんて、椿ちゃんは疑り深いなあ。本当に大和川を鳩が泳いでいたんだってば。」
相沢の言った通り、彼女はどこまでも懐き、いつまでも求めた。五戦目が彼女の勝利に終わったところで、僕は何でもない調子で本題に入った。
「僕たちは、相沢のお兄さんに嶌津さんのお世話を頼まれているんです。嶌津さんには
椿さんは少し沈んだ表情を見せた。「三ちゃんは、戦車の特攻から帰って来たのよ。その時、三ちゃんを連れて行った(捕虜にしたという意味だろう)のが、ミスター・ライ・ペンシルベニアだったの! ……三ちゃんが、頑なに本名を明かさなかったり、写真を撮られるのをすごく嫌がったり、お出かけしようとしなかったのは、生き残ったことを隠すためだったんだって。幸運だったって喜ぶことが、なぜいけないのかしら?」
「つまり、嶌津青年は、助けられたから恨んでいるってことかい?」
椿さんは頷いた。そして、わっと泣き出してしまった。「私、何の役にも立てないの。」
僕は慌てて彼女を腕の中に匿い外へ出た。
八 ラウンジにて
椿さんが自身の顔を覆っていた両手を離すと、電灯の下で長いまつ毛が艶めいた。思わずどきりとして、変に喉が絞まった。「……立川さんは、どこへ居るのかな。まだ、畑に? 相沢はどこだ? トランプがどこにあったか分からないでいるのか――」
「ここにいるっての。」後ろから、相沢のせせら笑いが聞こえた。「どうかな、椿ちゃん。初物のロマンチシズムが走り出したね。」
畦道から、立川さんが現れた。――僕は誰の顔も見ることができなかった。
スピリッツ荘の門を通ると、チェイシルさんが西門に南京錠をかけているところだった。そして、僕たちとおやすみの挨拶を交わした後、正門にも南京錠をかけた。立川さんとはそこで別れた。
荷物を置きに二階へ上がる途中、階段で休む美依さんと出井口さんに出会った。美依さんは酩酊状態で、目を閉じてぐらぐらと頭を揺らしていた。
「こんばんは。美依さんは――飲みすぎですか?」
「あら、お帰りなさい。そうなのよ。全く、どうしてこの子たちは、大して飲めもしないくせに意地を張るのかしら。お酒の勝負なんて、ばかばかしいったらありゃしない。」
「他の皆さんは、もうおやすみになられたのですか?」
「嶌津君とミスター・ペンシルベニアが、まだラウンジにいるはずよ。――ねえ、嶌津君って何者なのかしら。あの子の喉を通ると、きっとスピリタスでさえお水に変わるに違いないわ。」出井口さんは、美依さんの胴に腕を回すと大きな声で呼びかけた。「ほら美依君、しゃきっとなさい。お部屋まであと少しよ。」
ラウンジには出井口さんが言った通りの二人が、意外にも明るい雰囲気の中で(もっとも、嶌津さんは全くの無表情だったが)グラスを傾けていた。
「おかえりなさい、伝書鳩諸君。こんなに楽しい夜に、早く眠ってしまってはもったいないよ。」彼はそう言ったが、時計はすでに二十二時を大きく過ぎていた。
「伝書鳩?」僕と相沢は顔を見合わせた。ペンシルベニア准将は立ち上がって、窓の方を向いていたソファを半回転させながら言った。
「君たちは、三蔵君のメッセージを彼の父上の元まで持っていくんだろう? 雨にもマケズ風にもマケズ、それってとっても可愛いらしいと思うんだ。」
「あなたたち、三ちゃんにそんなことさせられているのね。」
僕は呆れながら頷いた。
二人が飲み交わしていたのは〈紫水〉だった。椿さんが「きれいな色。」と言って、その藤紫色のラベルが巻かれた瓶を両手で包み込んだ。「知っているかしら? 建男さん。紫色のものは最初に詰められた十本だけなのよ。――とてもきれい。自由にお空を舞う蝶々のよう――。」橙色の照明に透かしたり傾けたりして遊ぶ彼女を、僕たちは穏やかに見守った。
「あの色に決めた人は、さぞ女の子の気持ちに理解があるようだね。」
相沢の見解に、ペンシルベニア准将が答えた。「あれは、審査員のひとりだった椎名良樹氏の発案さ。優しい風合いの紫に、復興への想いを込めたとインタビューで語っていたよ。だから、通常版にも藍白が用いられているんだ。」
それが、全く他意の無い言い方だったので、僕は夕食会の席での美依さんの発言も何も気を払うことは無かったのだと悟った。
とろけるような平和な世界だった。しかし、その時の僕が余計なことを言ったせいで、その幻想的な空気は打ち壊されてしまった。「椎名良樹氏というと、一年前にこの村で殺害された方ですよね。まだ犯人は捕まっていなくて事件は未解決――」
相沢がぶつかってきたことで、はたと椿さんの悲しそうな表情に気が付いた。ペンシルベニア准将が微笑していることが唯一の救いだった。(僕は後年に至るまで、この失敗を相沢にからかわれ続ける羽目になった)
「君たちには、林檎酢をソーダで割ってあげよう。ガムシロップも忘れずにね。」
そうして、幻想的な空気感が再び戻ってきた。――
九 割れたカップ
そろそろ二十三時になろうかという頃、嶌津さんは席を立った。あれから、残り少なかった〈紫水〉を含めて、計三本のスピリッツが空になったが、嶌津さんに乱れた様子は一切なく落ち着き払って出て行った。僕たちも、実は殆ど飲んでいないペンシルベニア准将とおやすみの挨拶を交わして、彼の後に着いて行った。
二階では、江伊さんの部屋の前で岸江さんが膝を着いて何かを探していた。
「こんばんは。落とし物ですか? お手伝いしますよ。」僕が声をかけると、彼女は立ち上がり「お帰りなさいませ。」と、丁寧なお辞儀をした。
「あの、実は、飯田様にお運びしたカップ割ってしまったのです。中身は空でしたし、ポットも平気でしたけど、カップの破片が見つかりませんの。」彼女は電話台の横に置いてある盆に視線を向けた。カップは縁が大きく欠けてアール・デコ調の黄線が分断されていた。
「大丈夫だと思うけどなあ。廊下は靴を履いて歩くから怪我したりなんかしないんじゃないかなあ。」相沢が、無関心を飽くまで隠しながら宥めた。そんなことよりも眠たいらしかった。
そして岸江さんも、あっけらかんとした口調で「そうですわよね。ご主人様には内緒にしていてくださいますでしょ? チェイシルさんの耳に入ると、また長ったらしいお説教に時間を割かれますもの。」と言った。
「モチ、モチ(もちろんの略)。僕は、そんな野暮な男じゃないぜ。」
二人の視線が僕に向けられたので、僕は
さっさと立ち去っていった岸江さんと別れ、僕たちはそれぞれの部屋に戻った。しかし、数分で扉が開かれ勝手に相沢が入ってきた。「邪魔するぜ。へえ、この部屋の方が広いじゃんか。」何のためらいも見せることなくベッドに飛び込むと「それじゃ、おやすみ。」と言って布団を被った。
僕はちょうど歯を磨き終えたところで、洗面所の照明を落として侵入者に近づいた。「中学の修学旅行のときと同じようにはさせないぞ。ほら、帰った帰った。」布団を剥いでやろうとしたが予想以上の耐久を見せ、
しかし、相沢の部屋に入ると扉が開かれ相沢が帰ってきた。「俺は意味不明で、お前は理解力が足りない。」そう言うと――残忍に笑って僕をベッドに突き飛ばした。
「何てことをするんだ!」
「歯、磨いてくる。ありがたいお説教は夢の中で聞いてやるよ。」高圧的に見下しつつ、相沢は洗面所に消えていった。
僕は問いたい。何の脈絡も無く悪事に手を出す人間は、どのように更生させるべきなのだろうか?
十 事件発生!
肌寒さで目が覚めた。横を向くと、ベッドから脱落している相沢が布団をさらってしまっていた。時計はすでに八時を指していたので、僕はそのまま自分の部屋へ戻った。
廊下の窓から裏庭が見えた。夜中のうちに雨が降っていたようで石畳が濡れていた。朝食は九時からと聞いていたので、着替えを済ませ、ベッドに横になると、ほっと息をついた。廊下から、美依さんと飯田さんの話し声が聞こえていた。しばらくすると、そこに誰かが加わったようだったが、元いた二人の他に声は聞こえなかった。
――いつの間にか、僕は眠っていたらしく、目が覚めたのはノックの音がしたからだった。岸江さんが、朝食の支度が出来たことを告げに来たのだった。
宿泊者たちは、朝の挨拶を交わしながら階段を降りて行った。――そこに、江伊氏の姿だけが無かった。
「おはようございます。雨が降っていたことにお気づきでしたか?」僕が聞くと、嶌津さんは小さく頷いた。
「薄情な奴め。雨どころか、お前がいなくなっていたのにも気が付かなかったぜ。」相沢が大あくびをしながら僕にぶつかってきた。
それを聞いた出井口さんが「あなたたちって眠るときも一緒なのね。」とくすくす笑って言った。
「野崎が『ひとりは嫌だよ!』ってさ。」
「相沢!」
出井口さんがどちらを信用したのかは分からなかったが、僕以外の人たちはみんな愉快そうだった。
食堂に入ると、一同は自然と昨夜座っていた席に腰を下ろした。
「おや、江伊さんとミスター・ペンシルベニアはどうされたのかな。」飯田さんが誰に言うわけでもなく呟いた。
それには岸江さんが答えた。「ご主人様は、今朝は体調がすぐれず自室でお召し上がりになっております。江伊様は、お呼びいたしましたがご返事がありませんでしたので、お料理はキッチンにお取り置きしてあります。」
一同は、運ばれてきたエッグ・ベネディクト(イングリッシュ・マフィンの片割れに、肉や落とし卵を乗せたアメリカの料理だそう)を食べながら江伊さんを待ったが、最後の椿さんが食べ終わっても現れる気配は無かった。
「もしかしたら、体調が悪くて動けないでいるのかもしれない。」飯田さんの呟きをきっかけに、飯田さん、チェイシルさん、美依さんの三人が江伊さんの部屋に向かった。
――少ししたとき、慌ただしい足音を鳴らして美依さんが食堂に飛び込んできた。荒い呼吸の中で、苦悶の表情で言った。
「……江伊さんが、殺されている!」
スピリッツ荘の怪事件 ‐事件編‐ 完
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