本格焼酎殺人事件

四月の朝


  死に別れるよりもつらいことは、その人の生き死にさえ伝えられないまま、一年また一年と淋しく大人になっていくことである。

 戦争が終わって五年が経つというのに、今日に至るまで、兄さんの安否を伝えるものは何も届いていない。

 都市で発展した娯楽産業は、僕たちの町にも流入してきた。

 決して泣くまいと拳を固める僕と行き違う人々は、当たり前のように笑っていた。

 

 今日は土曜日。高等学校が休みの今日は、一日かけて兄さんの部屋を掃除することに決めていた。一体どこから降ってくるのか、一週間もするとどこも埃が積もっている。

 ライティングビューローによけたものを戻していると、下の階から母の呼ぶ声がした。この家の階段は下の方でわずかに曲がっているので、上がりきった正面のこの部屋は見えないつくりになっている。

 僕は軽く返事をして、まだ拭き終わっていない本を丁寧に揃えてから襖を開けた。古い木造の家は、歩くたびにどこかが軋む。

 階段の下から、青白い顔に長い黒髪をした女性が夢見るような瞳でこちらを見上げている。彼女は僕がまだ幼かった頃、大病にかかり十年間も施設から帰らなかった。治って家に戻ってきた後も体調が優れないことが度々あった。

「どうしたの、母さん。何か用かい。」

 母の手が僕の頬を撫でる。その手は雪のように冷たい。

「建ちゃん、おはようございます。嶺二くんが外であなたを待っていらっしゃいますよ。」

 そういえば、今日は相沢と出かける約束をしていたのだった。時計を見るとまだ午前十時。約束の時間にはまだ三時間近く余裕があった。

 僕は彼女を軽く牽制しつつ玄関に向かった。

「よっおはよう。」

 てっきり正面にいるものだとばかり思っていたので、すぐ左からにゅっと現れた顔に思わずおっと声が出た。相沢とは初等科にいたときからの付き合いだ。昔から、こういう小さなイタズラで他人を驚かせるのが好きなヤツだった。

「ああおはよう。何かあったのか?」

 相沢の使いつぶされたショルダーバッグを見るたびちくりと心が痛む。

「ああ、まあな。ほら、さささっと準備してこい。俺はここで庭木の葉桜でも眺めて待っているからさ。」

 その態度を不審に思いながら、僕は家の中に戻って支度を始めた。

 我らの兄さんの旧友、嶌津三蔵氏のお見舞いに行こう、と誘われたのは今月のはじめのことだった。相沢のお兄さん、大夜さんが米国へ出張することになったのでその代理を頼まれたのだ。

 嶌津さんには、幼かった頃に一度だけ会ったことがあった。

 僕は兄さんの足にしがみつきながら、嶌津さんの後頭部あたりを見ていた。夕方のことであった。不意に振り向いたその人は、学帽を目深に被り、わずかに見えた瞳は血のような赤であった。

 自室に入り、裾のよれた黒いジャージから、白い開襟シャツに着替える。あまり服を持っていないにも拘らずこのシャツが未だきれいなのは、それだけ休日の外出頻度が少ないことの表れでもある。

 革のメッセンジャーバッグと、兄さんにもらったベージュのキャスケットを被って、再び相沢の元へと戻った。

「何か分からんが、とにかく準備してきたぞ。」

「よーし、んじゃあ行くか。」

 しばらく歩き、王寺駅の歩道橋を渡ったところで、ようやく相沢は早い迎えの訳を言った。それがいつになく真剣な表情だったので、僕はどきりとした。

「見ちゃったんだよ。昨日の夜、兄さんが出発する前に嶌津さんちへの行き方とか、会った所感とかをまとめたノートを見せてくれたんだ。その中に、メモ用紙くらいに千切られた便箋の切れ端が貼り付けてあって『三蔵をよろしく。海里より』ってさ。」

 胸を突かれた。海里は僕の兄の名前だ。

「だから僕は、これは何って訊いたんだ。そしたら兄さんは慌ててそのノートを取り上げて、何でもないって。そこからは何を訊いても『お前には関係ない』の一点張りで、結局それ以上は何も教えてくれなかった。兄さんの部屋を探してもみたけど、どこからも見つからなかった。」

 力になれなくてごめん。と相沢は俯いて言った。

「いいや、お前が気にすることではない。」

 大通りを抜けて大和川の河川敷へと降りる。上にかかっている昭和橋を渡ると斑鳩町に入る。

 ここまで僕たちの間には沈黙が流れていた。一級河川の大和川は、うららかな光を全面にうけて眩しいほど輝いていた。

 ふと思いついたことがあって、僕は相沢に問いかけた。

「その紙というのは、ノート全体のどの辺りのページにあったか覚えているか?」

 相沢はしばらく首を捻っていたが、「それとは少し違うけど」と前置きしてから言った。

「二年前に福井県であった地震のことを書いた文章の下だったと思う。」

 二年前の地震。確かに福井県嶺北で地震があった。あれは梅雨の頃だったと記憶している。

 つまり、二年前あたりの兄さんは、どこか手紙を送ることができるような場所で生存していたと考えていいのだろうか。しかし、あったのは切れ端だけ。他の大部分はどこへ行ってしまったのだろう。

 惜しいことに、大夜さんはもう空港に着いて、米国行きの飛行機に乗り込む頃だろう。

 僕たちは、河川敷から堤防へと続く狭く急な階段を上り、川に対して直角に伸びる道を見た。踏み切りを超えて左に曲がると、長い坂道になっていて、その坂を上り始めてすぐに右に逸れる道がある。その先には、舟戸神社という久那斗神と天児屋根命が祀ってあると伝わる神社がある。かつてここに、大和国と河内国を繋ぐ街道があったからだろう。

 嶌津さんの家は、その神社の裏にあるという。

「そうか、ありがとう。」

 僕たちは堤防から道路へと降り立った。



 不思議な御人


 朝の神社は静かだった。境内は木々に覆われ、どこもかしこも日陰で肌寒く感じた。近くの池のほとりを老夫婦が歩いているほかに、人影は無かった。

「こんなに早く訪ねても大丈夫なのか? まだ朝食の最中だったりするんじゃないのか。」

「平気だよ。兄さんによると嶌津さんは四時には起きて、五時には仕事をしているらしいぜ。」

 嶌津さんは代筆家であり書道家でもあるのだと、相沢から聞いていた。 

「随分早起きだな。従軍時代の名残なのかな。」

「うーん、どうだろうね。僕の兄さんも出征したけど、いつも家の中で一番最後に起きてきていたから、もともとの性格なんじゃないかな。」

 小道を抜けると、道路を挟んだ向かいに、一面に並んだ見事な網代垣と、その中に広がっている竹林、それらに囲まれた大きな屋敷の上部分が見えた。門は櫓のように固く閉ざされており、近づくことさえ躊躇われる空気感だった。

 先ほどまで余裕綽綽だった相沢まで、その場で固まってしまい動かない。二人で顔を見合わせて出直そうかと合意しかけた時、がたん、と門の内側から音がした。門扉をじっと見ていると、ゆっくりと門が開き、中から小柄で背筋をしっかりと伸ばした老人が現れた。僕は、その人が有名な書道家の嶌津金蔵氏だとすぐに分かった。僕の配達している新聞に、金蔵氏のコラムが顔写真付きで連載されているからだ。

 金蔵氏は二、三度当たりを見回したあと、僕らを見つけにこやかに手招きをした。

 僕たちは幾分か安心し、道路を横切って金蔵氏と挨拶を交わした。

「はじめまして、今日お邪魔することになっている相沢大夜の弟の相沢嶺二です。」

「はじめまして、私は嶌津三蔵さんと親しくさせていただいている野崎海里の弟の野崎建男と申します。」

 そう言うと、金蔵氏は嬉しそうに何度も頷いた。

「やあ、野崎くんの方も来てくれたのかい。さあさ、中へ入りたまえ。」

 失礼します、と一礼してから門をくぐった。竹垣と竹林で遮蔽されていたので分からなかったが、内側は想像していたよりもずっと広々としていた。

 正面の母屋へ続く石畳は美しく磨かれており、左手の鮮やかな竹林の緑が映りこまんばかりであった。そこから右に伸びた小道もまた同様に美しく、右手にも竹林があった。日本庭園の様式の池には、通路がかかっており、その形からみて菖蒲を植えるのだろう。株分けした苗がポットに植わって日向に置かれていた。

「見事なお庭ですね。」

「そうじゃろう。ほれ、あの池の横にあるのが桜と梅じゃ。それからあれが金木犀で、菖蒲、紫陽花、楓、松。」

「このお屋敷の庭師さんは年中大忙しだね。」相沢がぐるりと庭を見ながら言った。

 金蔵氏は、ほっほっと笑って言った。

「この家には庭師はおらんでな。手入れはもっぱら、わしのせがれがやっておるよ。」

 その言葉に僕たちは驚いた。

「昭久さんが、たったお一人でこれだけのお庭を?」

「ああ、そうじゃとも。自分の店のこともあるのじゃから、いい加減庭師を雇わんかと常々言っているのじゃが、その度にせがれは、知り合い以外が出入りすると、いよいよ三蔵が離れから出んようになるからといって、誰も雇おうとせんのじゃよ。」

 昭久さんは、ここ王寺町で〈梅泊堂〉という文房具店をひとりで営んでいる。落ち着いた風合いの店内は、いつでも上品な香の香りで満たされていた。僕も何度か行ったことがあり、つい先週もノートを買いに行ったばかりだった。

「離れって、あの建物のこと?」相沢が母屋の右手の建物を指さした。

「ああ、そうじゃ。あそこへは、池の方に続く道の途中にある、屋根付きの通路を進むと行けるでな。あやつも、今日の仕事はみんな終わらせてしもうて退屈しとるじゃろうし、好きなだけゆっくりしていくとええわい。あとで、茶やら菓子やら持っていくからの。まったく、三蔵は気の利かん男じゃからの。」

 僕たちは一旦別れの挨拶を交わして、石畳を歩き始めた。

「なあ、お前どう思うよ。」

「どうって、何のことだ。」

 屋根付き通路の入り口まできたところで、相沢が後ろを確認しながら小声で話しかけてきた。

「嶌津さん……三蔵さんの方だけど、どんな人だろう。」

「それはお前の方が分かっているはずだろ? 大夜さんから何か聞いてないのか。」

 相沢は肩をすくめてお手上げのポーズを取った。

「そう思うだろ? それがさ『三蔵には構わず建男くんと遊んでいればよろしい』だって。そんなの何も教えられていないも同然だろ。」

「分かった、悪かったよ。」

 通路は一本道だが、池を避けるために何度か曲がるところがあった。離れの周囲は低い竹垣で囲まれていて、どことなく茶室に似た外観をしていた。

 玄関の前に立ち、相沢がひとつ息を吸い込んで思い切ったように呼び掛けた。

「おはようございます。相沢嶺二です。三蔵さーん、いらっしゃいますかー。」

 返事はなく、物音すら聞こえない。僕たちは顔を見合わせ、相沢は首をかしげた。

 その時、どこからか甘いバニラの香りがした。僕たちは、匂いのする方向をたどって、離れの外壁に沿って右に歩いていった。

 曲がり角を覗き込むと、旧日本軍の軍帽を目深に被った男性が、外壁にもたれかかって煙草を吸っていた。

 おはようございます、と声をかけると、彼は煙草を咥えたままゆっくりとこちらに視線を向け、帽子のつばを軽く下げて戻し、また元のポーズに戻ってしまった。

 僕たちは再び顔を見合わせ、少し考えてから「失礼します」と言って、玄関の引き戸に手をかけた。



 自殺か他殺か


 十畳ほどの部屋は墨の香りでいっぱいだった。

 ところどころ黒く汚れている布団が、この時間でも敷きっぱなしになっていた。僕の身長よりも高い本棚には革張りの和歌集が隙間なく入っていた。年季の入った座卓に、様々な太さの筆が何本もかけられた筆掛けが置いてある。軸には〈奈良筆〉とあり、どれも使い込まれた跡があった。

 体感で五分ほど経った頃、布団の横の裏口が開いて、煙草を咥えたままの嶌津さんが入ってきた。

 彼は、羽織っていた紺の着物を布団の上に脱ぎ捨てた。

 そこで僕はハッとした。彼の白いワイシャツの左袖が、付け根のあたりから風になびいていたからだ。

 彼は、煙草を咥えたまま押し入れの前にどさっと腰を下ろしたが、僕は何を話せばいいのか分からず、ただ足元の畳をじっと見ていた。

 しかし、相沢はそんな気まずさなど微塵も感じないといった様子で話し始めた。

「嶌津さん、今日はどんなお仕事をしたんですか?」

 こういう時、相沢の傍若無人さがありがたい。相沢に乗じて嶌津さんの方をちらと見ると、彼は煙草を口から離し本棚の横の箪笥を指した。立ち昇る煙が、彼の顔の横で揺らいだ。

 相沢が箪笥を引き出してみると、大きな茶封筒が何枚も重ねて入っていた。

 ――それは、息を飲むような美しい文字だった。

 宛先は、一番上のものは北海道、その下は山口県。その他、関西だけでなく関東、九州宛のものもあり、彼の元には全国から依頼が舞い込んでくるようだった。

 その時、外から金蔵氏の「三蔵ぅ、三蔵や。」と呼びかける声が聞こえてきた。

 僕たちは玄関と嶌津さんとを交互に見た。嶌津さんは、体勢ひとつ変えない。

 まるでその呼びかけが聞こえていないかのようだったが、なんとなしにこれは単に面倒がっているだけだということを察した。

「三蔵さんは中にいらっしゃいますよ。」僕は扉を開けて言った。

「おう、建男君。すまんの。あいつはいっつもわしのことを無視しおってからに……」

 そう言う金蔵氏の後ろに、少しネクタイを緩めた爽やかな笑顔の男性が立っていた。

「三蔵や、刑事さんが来とるぞ。昭久は店が忙しいようで、まだ帰れんそうじゃから先にお前が確認してくれ。」

 金蔵氏が言うと、その男性が前へと歩み出た。

「初めまして、嶌津三蔵さん。わたくし、国家地方警察奈良県本部、北葛城地区警察署、刑事部捜査課所属の阿瀬戸と申します。お目にかかれて光栄です。」

 阿瀬戸刑事は一礼すると、スーツの懐から白い封筒を取り出した。

「いきなりこんな話をすることをお許しください。実は今朝、法隆寺町で村山哲士さんという男性が亡くなっているのが発見されました。死因は、アルコールとモルヒネを混ぜて皮下注射をしたことによる自殺と考えられています。そばには、村山さんの遺書が見つかっており、そこに嶌津昭久さんのお名前があったので、関係性の確認のために参った次第であります。」

 僕は、自殺して遺書も見つかっている人の死に、捜査課が動いていることに疑問を感じた。

「事件性があるのですか。」

 言ってから、部外者なのに出過ぎたことをしてしまったと思った。しかし、阿瀬戸刑事は「実は、そうなんです」と困り顔で言った。

 阿瀬戸刑事は封筒を嶌津さんに手渡したい様子だったが、嶌津さんはその場から動こうとしなかったので、代わりに僕が手渡した。

 取り出してみると、無地の便箋が三つ折りにして一枚だけ入っていた。


 私はもう後ろめたさに耐えられない

 死んで償う

 金などはすべてを町田一くんと嶌津昭久くんに


「村山さんは独身でご両親も五年前に他界されております。それから、これが村山さんの自宅の納戸から見つかりました。」

 そう言って、阿瀬戸刑事は一枚の写真を取り出した。「祝 最優秀賞 嶌津三蔵様」と書かれた、のしの付いた箱だった。

 僕は再びそれを嶌津さんの元まで持って行った。

「表書きを書くために使ったと思われる道具はまだ乾いておらず、裏庭で新聞紙の上に並べられたままでした。」

 僕は、阿瀬戸刑事の困り顔の訳を理解した。

 まず、遺書の「うしろめたさ」から漂う犯罪性。そして、今週は晴れ続きだったにも関わらず、まだ書道具が乾いていないということは、表書きを書いてから丸一日も経過していないということになる。これから自殺しようという人物が、ここまでの贈り物を拵えたというのも疑問だ。更に言うなら、それを贈らなかったことも。

 ふと、嶌津さんの顔を見た。相変わらず無表情だったが、ほんの少しだけ首をかしげているように見えた。

 昭久さんが息を切らして帰ってきたのは、僕らが阿瀬戸刑事と初めて会ってから三十分程経った頃だった。

 僕たちは母屋に移動して、居間から続く広縁の掃き出し窓を開け、庭を眺めながら金蔵氏にいただいたお茶菓子を賞味していた。

 嶌津さんは、僕たちの後ろの籐椅子で脚を机に乗せ、帽子を顔の上に乗せて眠っていた。

 昭久さんは、石畳を小走りで進みながら、広縁にいる僕たちに声をかけた。

「やあ、おはよう。大丈夫かい、三蔵にひどいことをされていないかい。今日は来てくれてありがとう。良かったらゆっくりしていってね。」

 言葉は穏やかだったが、明らかに慌てている様子だった。

 玄関の引き戸を開けた昭久さんの「お待たせしてしまって申し訳ありません」という声に続いて「いえいえ、こちらこそお忙しいところ申し訳ありません」という阿瀬戸刑事の声が聞こえた。

 やがて、天気の話などをしながら二人は居間に入り、中央の机に向かい合って座った。

 阿瀬戸刑事はさっき僕たちにした説明を繰り返し、遺書と例の写真を見せた。

 昭久さんによると、町田一氏というのは村山氏の大学時代の二年後輩だという。昔から優等生タイプで、今は大阪の小料理屋で働いているそうだ。

「村山さんと町田さんとは昔所属していたアートサークルで知り合って、何度か三人で飲みに行きました。去年の暮れに、町田さんから葉書が来たんです。料理長の娘さんをお嫁に貰ったって。」

 それまで、昭久さんは阿瀬戸刑事の一言全てに驚き震えていたが、例の写真を見ているうちに「あっ」と声を漏らした。

「何か心当たりがおありなのですか?」と阿瀬戸刑事は身を乗り出した。

 昭久さんは「いえいえ、そうじゃないんです。」と慌てて手を振り、一瞬、籐椅子の息子に視線を向けた。

「ちなみになんですけど、村山さんが用意してくださったこの品物は、やはり受け取った方がいいですよね。」

「さきほど鑑識から、怪しいところは見当たらなかったとの報告が上がってきていますので、差し支えなければすぐに鉄道小荷物の手配をさせますが、いかがでしょう。」

 昭久さんは立ち上がり、阿瀬戸刑事を部屋の外へと誘導していった。

「昭久さんは受け取りたくないみたいだ。」僕は、昭久さんの言い方が気になった。それは相沢も同じようで

「あれがなんなのかすごく知りたい!」と腕を振り回して言った。

 すると、嶌津さんがそばにあったメモ用紙に何かを書いて、僕たちの方に差し出した。

 「二階、最奥部、右の部屋」

 僕はすぐに、この意味を理解した。これは、相沢が大好きなアレだ。

 僕の手元を覗き込んできた相沢は、ぱっと顔を上げて長い前髪をかきあげた。これは、感情の高ぶりやすい相沢の、興奮した時の癖だった。

「野崎、俺たちに偵察命令だ、行くぞ!」

「あのな、聞かれたくないから部屋の外に出たんだろ。」

「聞かれたくないことを聞くから偵察なんだろうが。」

 まるで話が嚙み合っていないことなどお構いなしに、相沢は身をかがめてすっかりスパイになりきっている。仕方なく、僕もその後に着いていくことにした。

 扉に向かいながら、嶌津さんの方を振り返る。

 彼はさっきと同じ体勢に戻っていた。



 いざ偵察


 二階へ続く階段は、二人で同じ段に乗っても物音ひとつ立てない。僕の家とは大違いだ。

「見つかったら死ぬと思えよ。」先に上がりきった相沢が、壁に張り付きながら囁いてきた。

 姿勢をかがめて上がりきると、前と左に廊下が続いていた。件の「二階、最奥部、右の部屋」の辺りから、昭久さんの腰の低い謝罪が聞こえ、続いて扉が閉じられる音がした。

 僕たちは、柱の影から様子を伺った。

「あの部屋の前まで行きたいものだな。」相沢がちらちらこちらを見ながら、独り言を演じた。

「……バルコニーの掃き出し窓が開いている。いざとなったらあそこに隠れよう。」

 言いながら、それでは戻れなくなるのではないかと思ったが、面倒なので黙っておくことにした。

 膝立ちの姿勢で、壁伝いに慎重に近づいていく。幸い、扉近くで話しているようでかなり鮮明に聞き取ることができた。

「実は、あの子……三蔵に長いこと断酒させているんです。その、悪い飲み方をしますから……ですから、あの子の前ではお酒の話はしないようにしているんです。」

 ということは、あの箱の中身は一升瓶ほどの大きさの酒だったののか。

「そうでしたか。あ、もしかして、あの写真もお見せしない方が良かったでしょうか。」

「いえいえ、お気になさらないでください。せっかくご用意いただいた品物ですし、村山さんのご供養の意味も兼ねて、いただくことにいたします。」

「そうですか、分かりました。ではいつ頃お届けしましょう。」

「できるだけ早い方が……明日の午前、王寺駅着でお願いできますでしょうか。」

「承知しました。では、そのように手配しましょう。」

「あの、それから……」昭久さんはさらに言いにくそうな声色になった。

「どうぞ、なんなりとおっしゃてください。」

 じゃあ、と言って昭久さんは話し始めた。

「今日、初めて村山さんが亡くなったと聞いたとき、もしかして誰か、例えば……町田さんなんかに殺されたんじゃないかって思ったんです。」

「なんですって、町田氏と村山さんの間に、何かあったということですか。」

「ええ、実はそうなんです。さっき、町田さんから葉書が来たといったでしょう?その祝いに、今年の初めに村山さんも交えて市内で宴会をしたんです。これも、お伝えしていなかったんですが、村山さんはお酒が入ると、かっとなりやすい性格だったんです。そして、その日も村山さんは些細なことで町田さんと言い争いになって……」

「それで、何があったんです。」

「それで、村山さんが『お前のとこの料理長に言いふらしてやることもできるんだからな』って。僕は何のことだかさっぱりだったので、ただ黙っていました。それがいけなかったんだと思います。町田さんは勢いよく立ち上がって、僕の顔を見て『嶌津さんまで』と一言呟いて店から出て行ってしまいました。」

「それから、二人とはお会いしましたか?」

「いいえ、なんとなく関わってはいけないことのような気がしましたから……」

 しばしの沈黙のあと、阿瀬戸刑事が口を開いた。

「ところで、これは本当に形式的な質問ですので気負わずにお答え願いたいのですが、昨晩はどちらにいらっしゃいましたか?」

「ええと、いつも通り十九時に店をしめて、帰宅したのは二十一時を少し回った頃でした。」

「お閉めになってからどこかへ行かれたのですか? 少しお帰りが遅いようですが。」

「ああ、それはですね、お客様がいない時間帯に入荷した商品を陳列しているからなんです。なにせ、狭くて物の多いところですから、それが一番いいんです。」

「ということは、いつもご帰宅はこの時間なのですか?」

「ええ、そうです。」

「誰かと一緒でしたか? 例えば従業員の方とか、どうです?」

「ああ、いいえ、経営は僕一人でやっていますから。」そう言った後、昭久さんがハッと息を飲むのが聞こえた。「ぼ、僕、もしかしてとっても怪しいんじゃ」

「いいえ、いいえ、大丈夫ですよ――

 ドアノブが動いた。

 しまった、会話の途中で扉が開くことを想定していなかった。振り返ってみたが、今から階段へ戻って広縁に戻るのは時間的に不可能だ。

 僕たちは、慌ててバルコニーの端の植木鉢の後ろに隠れた。

 入れ違いで昭久さんと阿瀬戸刑事が部屋から出てきた。なんとか見つからずに済んだが、僕たちが荷物を残して広縁に居ないことを不審に思うのではないだろうか。いいや、嶌津さんがうまく説明をつけてくれるだろうか。例えば、離れに再び向かったとか――

 そんなことを考えていると、事件が起こった。

 昭久さんが廊下を引き返してきて「僕ってば窓が開けっぱなしじゃないか。」と溜め息交じりに掃き出し窓を閉めてしまったのだ。

 僕は、昭久さんに事情を説明して開けてもらおうとしたが、立ちはだかった相沢に肩を抑えつけられた。思わず、しりもちをついてしまった。

「おい、もう遊んでる場合じゃないだろ。」

「まあ待てって。な、逆に考えてみろ。」ぬるい風で見え隠れする相沢の瞳が、自信ありげに輝いて入る。「ここから下を覗いてみろ。」

 相沢は、僕の背面を指さした。見下ろしてみると、さっきまで僕たちが座っていた広縁が見えた。わずかに、籐椅子に座った嶌津さんも見える。

「お前、まさか」

「よし、戻って報告だ!」言い終わらないうちに、柵に上り真横の桜の木に飛び移ってしまった。僕は、運動は大の苦手だったが、もうどうにもならないと覚悟を決め、大きく足を開いて飛び移った。「アーメン!」僕は、祈りを捧げてから地面に飛び降りた。広縁の中から、嶌津さんがこちらを見つめていた。

 幸いまだ生きている。走って広縁に戻り、僕は上がった息を湯呑で隠し、相沢は食べかけの饅頭を手に取った。

 直後、昭久さんが居間に戻ってきた。

「三蔵、阿瀬戸刑事がお帰りになるよ。」昭久さんに訝しむ様子はない。

「どうも、お邪魔しました。もしかしたら、またお話を伺いに参るかもしれません。その時は、どうぞよろしくお願いします。」

 昭久さんとトイレから出てきた金蔵氏が、竹垣の門まで阿瀬戸刑事の見送りにいった。金蔵氏は、昭久さんと少し話したあと、そのままどこかへ出かけて行った。

 戻ってきた昭久さんは、身支度をして広縁までやってきた。

「せっかく来てくれたのにバタバタしてしまって、二人ともごめんね。」

「いえ、お気になさらないでください。」僕たちは昭久さんの方に向き直って言った。僕たちはもっと悪いことをしましたから、とはとても言えない。

「いいかい三蔵、僕はこれからまた店に戻るけど、きちんとお客さんをもてなしてあげるんだよ。それから、暗くなる前に帰してあげること。夕飯の時間にはこの部屋にいること。いいね?」

 嶌津さんは、顔に乗せていた軍帽のつばを持って軽く持ち上げて見せた。分かっているよ、という風に見えた。

 昭久さんが、竹垣の門を閉めたのを見届けると、なんだかとてもおかしく思えてきて、二人とも笑いながらに堰を切ったように報告を始めた。

 翌朝、僕たちは王寺駅にいた。

 近くを流れる大和川の河川沿いは人気のランニングコースだが、昨晩から降り続いている雨のために今日は誰もいなかった。

 僕は、改めて手の中のメモ用紙を読み返した。「明日、午前九時、王寺駅北口改札前にて会はむ」簡潔で達筆な伝令だった。

「嶌津さん、まだ来ないな。」

「僕の占いでは、あの人は九時ぴったりに現れる。」相沢が傘から滴る水滴で変な占いをしてみせた。

 相沢の言う通り、嶌津さんは九時ちょうどに右手の階段から現れた。僕は、昨日会った時より緊張しなくなっていた。

「おはようございます。」僕たちが挨拶をすると、軍帽のつばを少し下げて戻した。これが、嶌津さん式の挨拶なのだと覚えた。

 九時台一本目の電車で目的の荷物は届いた。持ち上げてみると、瓶のずっしりとした重みを感じた。

 僕たちは階段を降りて広場の大理石のベンチに座り、段ボールの中を確認した。昨日写真で見た通りの立派な箱と、祝辞が書かれた手紙が入っていた。

「ところで嶌津さん、ここにいたら昭久さんと鉢合わせになるんじゃないですか?」

 僕が尋ねると、彼は軽く首を振った。

 屋敷の方へ歩いていると、河川敷のあたりが騒がしいのに気が付いた。堤防へ行ってみると、数名の警察官が川岸で何かを探しており、その中に昭久さんと金蔵氏が混ざっていた。

 見つかったか、いいえどこにも、流されてしまったのか、もっと下流なのか、そんな警察官たちのやり取りが聞こえた。

 ふと血の気が引いた。「まさか、嶌津さん、昭久さんを足止めした方法って……」すると、彼は帽子のつばを軽く持ち上げた。まさしく、という風だった。

 僕は階段を駆け下り、二人を呼びかけ堤防の上を指さした。相沢は、いつの間にかいなくなっていた。危険察知能力の高いやつだ。

 そのあとの修羅場は想像に難くない。



 まさかの作戦


 翌日の放課後、僕たちは再び嶌津さんを訪ねることにした。相変わらずの雨で、道には霧が立ち込めていた。

 初めてここに来た時よりも、屋敷に対する萎縮感は少なくなっていた。しかし、昨日の一件で後ろめたい気持ちがあったのは否めなかった。

「こんばんは、野崎です。三蔵さんのご様子をお伺いに参りました。」

 玄関先から声をかけると、中から昭久さんが現れた。この間と同じ優しい笑顔であったが、心労の色がはっきりと表れていて僕は見ているのがつらかった。もしかすると嶌津さんはあまり良い人ではないのかもしれないと思った。

「やあ、こんばんは。雨の中わざわざ来てくれてありがとうね。」

「あれ、昭久さん、今日はお店はどうしたの?」相沢が不思議そうに尋ねた。梅泊堂の定休日は水曜日と金曜日のはずである。

 すると、昭久さんは困った顔になった。

「実はねぇ、店の鍵をどこかに失くしてしまったみたいなんだよ。仕方がないから『臨時休業』って張り紙だけして戻ってきたんだよ。」

「ええ、それって大変なことなんじゃ……」

「そうなんだよねぇ。まったく僕ってばいけないね。せっかく昨夜見つけた町田さんからの葉書も、もうどこかへやってしまったし。」昭久さんは頬に手を当てて考えるポーズをとったが、すぐにはっとして照れたようにはにかみながら言った。

「ああ、そうじゃなかったね。三蔵なら離れにいるよ。僕の、外出禁止令を守っていたらだけど……」

「そうですか、ありがとうございます。鍵、見つかるといいですね。」僕たちは礼を言って、離れの方へと歩き出した。

 石畳を歩きながら「それにしても」と相沢が話し始めた。

「嶌津さんもぶっ飛んでるよな。まさか禁酒令を搔い潜るために狂言自殺までやっちゃうなんてさ。」

「笑いごとじゃないだろ。俺は、さっきの昭久さんの疲れ切った顔を見て、いよいよ嶌津さんのことが分からなくなってきた。あの人は多分良い人ではないんだ。」

「でも面白い人じゃん。俺はいよいよ好きになってきたぜ。」

 離れの周囲は静寂に包まれていた。まるで自分たちの声が霧となっていくようだった。

 何度か呼びかけてみたが、一向に返事が無い。しかし、恐らく中には居るのだろう。僕たちは「失礼します」と声をかけてから引き戸を開けた。

 嶌津さんは布団の中にいた。いつもの帽子は枕元に置いてあり壁の方を向いていた。

 今日のところは帰ろうかと思い、靴を履きなおそうとしたその時、背後から衣擦れの音が聞こえた。振り返ると、嶌津さんが胡坐をかいて、こちらを見ていた。そして、どこから取り出したのか、彼の前には厚みのある茶封筒が置かれていた。表に『建男君 嶺二君宛 内密にされたし』と書かれてある。

 僕は、再び嶌津さんの顔を見た。その目には、やはり何の色も見えなかった。

 僕たちは、疑問に思いながらもその封筒を受け取りに部屋へ入った。「ええと、これは――」

 質問する間もなく、彼は床に投げられていた絣の単衣を羽織って裏口から出て行ってしまった。

 何がなんやら、訳を聞くために閉まりかけている扉を開けようとしたが、考え直して玄関へ向かった。離れを囲む竹垣の出入り口は正面の一か所だけだ。なので、彼の進行方向に先回りできるはずだった。

 しかし、そこに彼は来なかった。裏口の前まで行ってみたがそこにもいない。

 突然、相沢が「あそこ!」と叫んだ。

 彼は離れの竹垣のさらに外周、庭を囲む竹垣の上にすっと立っていた。

 どうして、と思うより先に彼はそこから飛び降りてしまった。かたたん、と下駄が接地した音が聞こえた。

 「嶌津さん、待って!」慌てて駆け寄ったが、もう足音は聞こえなくなっていた。

 僕たちはどうしようかと考えていたが、ひとまずこの封筒を開けてみることにした。しかし、「内密に」と書かれた封筒を持ち出すわけにはいかない。仕方なく、僕たちは無人となった離れに上がった。

 紐をほどいてみると中には、先日見た村山氏の祝いの手紙、町田氏から昭久さん宛ての葉書、懐紙が留められた白い封筒、そして折りたたまれた長い半紙が数枚入っていた。

 葉書には、一昨日、昭久さんが阿瀬戸刑事との会話で口にしていた、町田氏が料理長の娘さんと結婚したことが書かれていた。本文も宛名も毛筆であり、升目が引いてあったかのように整然とした印象だった。


 私たちは、十二月九日に結婚しました。

 お相手の女性は、私が長年勤めている小料理屋の料理長のご令嬢です。

 今後は、夫としての責任を全うし円満な家庭を築いて参ります。


 半紙は全部で三枚あり、一枚目の紙には『推論及び鑑定結果』という見出しが付いていた。めくってみると、一番下はなんと〈筆跡鑑定書〉であった。

「もしかして、推論っていうのは……」僕たちは、その見出しに続く細やかな文字をたどり始めた。

 そのうちに、だんだんと鼓動が早まっていくのを感じた。きっと彼は、町田氏の葉書を見た時にすべて理解したのだ。たった数秒見ただけの遺書と、数行の文章で。

 今すぐに、このことを誰かに知らせたい気分だった。しかし、もうひとつの伝令が僕の足を掴んだ。

 その伝令とは、白い封筒にクリップで留められた懐紙だった。

『この手紙を我が父へ渡し、私が戻るまで諸君らはここに書かれたことを真として扱われたし。』

 真として扱う? 一体何が書かれているのだろう。封はされていない。これはつまり、先に読めということなのだろう。

 僕たちは恐る恐る便箋を開いた。


 数時間後、屋敷には何人もの警察官が待ち構える事態となった。皆、一様に鋭い目つきで全体をくまなく見張っている。僕たちはただ、成り行きを見守ることしかできなかった。

 封筒の中身は何ということもない、無地の便箋であった。しかし、そこに書かれていたことは夢にも思わなかったことだった。


 ――村山哲士氏を殺害したのはこの私、嶌津三蔵である。

 事件を起こした夜、私は彼の店から徒歩で帰る村山氏の後を着け、彼の自宅を突き止めると呼び鈴を鳴らし、扉を開いた彼を拘束し口と目を塞いで意識を失わせた。

 ここで殺害しなかったのは、居間の机にモルヒネと注射器、そして度数の高い焼酎が置いてあるのを見て、とっさに自殺に見せかけることを思い付いたからだ。

 村山氏を椅子に座らせ、注射器にアルコールとモルヒネを致死量の割合で混ぜ合わせ、ひとりで刺したというのに違和感のない位置へと注射した。

 私は他人の筆跡を真似ることが得意であったので、遺書を偽造することなど容易であった。

 しかし、ここで予期せぬ問題が発生した。

 本来ならば、この後部屋の中を捜索し不都合なものを処分する予定であったが、鍵をかけたはずの扉が突然開き町田氏が現れたのだ。

 顔を見られた、と思った時にはすでに遅く、町田氏は思い出すだけでもおぞましい笑みを浮かべて立ち去っていった。

 私は、急いでその場から逃げ自宅へと戻った。

 私はこれから、町田一氏を探し出して殺害の後、自宅へ戻り家族に別れを告げ自首する。


 屋敷にやってきた阿瀬戸刑事によると、警察にも同じものが届き署内は大騒ぎになったのだという。

「やっぱりぶっ飛んでるよ、あの人。」相沢が囁いてきた。怖がるポーズこそ取っているが、その顔は明らかに楽しんでいる時のものだった。

 僕は相沢にも、嶌津さんにも呆れながら返した。

「相当いかれてるぜ。いくら家族を守る為とはいえ、虚偽の自白を投函するなんて誰が思い付くだろう。」

 昭久さんと金蔵氏の隣には、阿瀬戸刑事をはじめとする警察官たちがぴったり付いていた。嶌津さんが狙っていたのは、まさにこの鉄壁の守りだったのだ。

 僕は考え続けていた。実は、推論の中で嶌津さんは、これから町田氏を「生け捕り」にすると言っていたのだ。

 一体どこを探そうというのだろう。町田氏の狙いが昭久さんだというのなら、彼はどこに目星をつけたのだろう。


 ――『私は彼の店から徒歩で帰る村山の後を着け』


 思い付いたことがあって、自然と僕は立ち上がっていた。

 時刻は十八時半。

 ――この時間に昭久さんがいる場所?

「分かったかもしれない。」もしもそうならば時間が無い。僕は、雨に構わず走り出した。

「おい、分かったって何がだよ!」相沢も叫びながら後を着いてきた。



 犯人確保


 僕たちは〈梅泊堂〉の横の植木に隠れていた。

 時刻は十九時前。〈梅泊堂〉の閉店時刻まではあと五分ほどだ。厚い雲のために、辺りはどんよりと暗かった。

 店内からは照明の黄色い光が漏れており、昭久さんが表に張ったという「臨時休業」の紙は無かった。代わりに「表は開きませんので、御用の方は裏からお入りください。」という張り紙がされていた。きっとあれは、昭久さんの筆跡を真似て書かれてあるのだろう。

「お前、やるなぁ。大当たりじゃん。」相沢は小声ではしゃいでいる。

「まだ町田氏が現れると決まったわけじゃない。」相沢がしきりに褒めてくるので、僕は少し照れくさかった。

 僕の不安は杞憂であった。十分ほど経過した頃、黒いジャンパーを着たひどく痩せた人物が、辺りの様子を伺いながら、身をかがめて店の裏口に向かって行くのを見た。あれが町田氏なのだと直感した。彼は窓から中の様子を伺うと、両手で慎重に扉を開けた。

 僕たちは木々の陰を伝って、裏口近くまで辿り着いた。壁に耳を押し当て中から聞こえる音に耳を澄ませた。

 しばらく経った時、かこり、と聞き覚えのある音がした。

 嶌津さんの足音だ!

 僕たちは、外から裏口の錠を落とした。窓から中を見ると、施錠の音に驚いて振り返った町田氏の背後に、レジスターの後ろから現れた嶌津さんが立っていた。

 そこで僕たちは、町田氏がナイフを持っていることに気が付いたが、嶌津さんは全く怯むことなくあっという間に取り押さえてしまった。とても片腕の人間とは思えない鮮やかさだった。

 僕たちは、鍵を開けて見えていた電話で阿瀬戸刑事に事の次第を伝えた。

 その間、町田氏は観念した様子でおとなしく捕まっていた。


 翌日の新聞でこの事件のことが報じられた。それによると、村山さんに握られていた弱みというのは、結婚が決まったあとに発覚した不倫相手のことだったそうだ。しかし、浮気だけならいざ知らず、殺人犯となってしまっては、これからの人生取り返しがつかなくなってしまったろうに。何とも、後味の悪い事件であった。

 その日の放課後、僕たちが屋敷に向かって歩いていると、昭和橋の入り口で河川敷を歩く嶌津さんと昭久さんを見つけた。

「お二人ともこんばんは。雨、止んで良かったですね。」

「おや、こんばんは。そうだね、今日からは晴れが続くそうだね。」

 どうやら、真犯人を確保した功績があるとはいえ、警察の捜査を誤情報で意図的に攪乱したことを朝からきつく叱られていたそうだ。

 しかし、当の本人は面倒そうに椅子にもたれかかって反省の色を全く見せなかったそうで、そのせいでこんな時間になってしまったそうだ。

「それにしても、よく二人があそこにいると分かったね。すごいねぇ。」昭久さんの笑顔は優しすぎるほどで、思わず目を逸らしてしまう。

「あ、そうだ」僕は、鞄の中から先日の内密の茶封筒を取り出した。もしも町田氏が罪を認めなかったときに、証拠として警察に持っていくつもりで鞄に入れっぱなしにしていたのだ。

 しかし今は、ここに書いてあることをどうしても昭久さんに読んでもらいたい気持ちだった。

「三蔵さんは、きっと父親想いな方なんですね。」

 僕がそう言うと、昭久さんは不思議そうな顔をして、嶌津さんの顔を見た。当の本人は、本当にわずかだけ下を向いた。

 屋敷に着くと、金蔵氏も交えてそれを全て広げてみた。

 楷書で書かれたその書は、単なる伝言として扱うには、あまりにも端整で芸術的すぎる。


 ――本事件は、法隆寺町の自宅で村山哲士氏が亡くなったことに端を発した。

 遺体のそばに、モルヒネとアルコール、注射器と遺書があったことから一時は自殺と決定づけられたが、用意されて間もない贈呈品や村山氏の直近の言動から、殺人の可能性に気付いた阿瀬戸刑事ら数名の警察官たちによって捜査が開始された。

 問題となったのは遺書である。

 私は、遺書が偽造されている可能性を考え、その検証を行うことにした。


 以下は、阿瀬戸刑事によって持ち寄られた村山氏の遺書の内容である。(以降、これを〈鑑定資料〉とする。)

        私はもう後ろめたさに耐えられない

        死んで償う

        金などはすべてを町田一くんと嶌津昭久くんに。


 そして、以下が贈呈品の表書きである。(以降、これを〈対照資料〉とする。)

        祝 最優秀賞 嶌津三蔵様(手紙の全文は割愛)


 そうして鑑定を行うと、いくつかの相違点が見つかった。

 まず、〈鑑定資料〉のハネ、ハライはその直前の収束部や起点に極端に大きな墨溜まりができているのに対し、〈対照資料〉はそれが殆ど見られない。これは、〈対照資料〉に見られる特徴的なハネ、ハライを再現するために無意識に肩から手首にかけて力が入ったことが原因だと考えられる。

 次に、連続送筆、つまり続け字に関して、〈鑑定資料〉の「償」の「貝」は二画目から三画目を繋げて書いたあと、筆を上げ、四画目と五画目をほぼ直線に引いているのに対し、〈対照資料〉の「賞」の「貝」は二画目から三画目を繋げて書いたあと四画目と五画目も繋げている。この時、二画目の縦線に触れていないことが特徴的である。

 同様に、〈鑑定資料〉の「昭」の「口」は二画目と三画目の間で一度筆を紙面から離しているために底が平らになっているが、〈対照資料〉の「祝」や手紙の中でも度々書かれた「口」は二画目から三画目に移動する際、やや左上に向かって筆を紙面から離さずに送筆しているために、三画目の始まりに特徴的な曲線が現れている。

 その他いくつかの点から、それぞれで執筆者が異なるものと断定した。


 そして、父の発見した町田氏の葉書に書かれた文字を見て、遺書を偽装した者が町田氏であると確信した。


     私たちは、十二月九日に結婚しました。

     お相手の女性は、私が長年勤めている小料理屋の料理長のご令嬢です。

     今後は、夫としての責任を全うし円満な家庭を築いて参ります。


 私は、とある手段によって、我が父も町田氏にとって危険人物とされている可能性が強いと考えた。そして、一度殺人を犯した者が、二度三度と繰り返し犯行に及ぶようになることはよくあることである。

 よって、本日より父の身の安全を警察諸君に任せる。町田氏を確保でき次第追って連絡する。



 解決、そして明日香村へ


 数日後、改めて嶌津さんの受賞祝いをしようということになり、僕たちも参加することになった。

 屋敷の呼び鈴を鳴らし、出迎えてくれた金蔵氏はすでに出来上がっている様子だった。

「おお、よくぞ来てくれたのぉ。ひっく、さあさ、上がって上がって。」

 お邪魔します、と言って玄関で靴を脱いでいると、紫陽花の染め物のエプロンをつけた昭久さんが居間の扉を開けた。

「いらっしゃい。今日は来てくれてありがとう。鍋が煮えるまでかけて待っていてね。三蔵、建男君と嶺二君が来てくれたよ。」

 嶌津さんは、広縁の籐椅子に腰かけていた。帽子は被っておらず、鈴蘭の文様の黄緑色の単衣を羽織っていた。

「こんばんは、嶌津さん。あれからお元気でしたか?」僕が声をかけると、嶌津さんはこちらを見て小さく頷いた。

 台所では昭久さんが踊るように食材を調理していた。その楽し気な表情を見て僕は安心した。

 食事が始まってしばらくした時、外の郵便受けに何かが投函される音がした。昭久さんが席を立ち、やがて一通の手紙を持って戻ってきて言った。

「三蔵宛に外国の方からの手紙だったよ。えっと差出人の名前は」

――ライ・ペンシルヴェニア

 その名前を聞いた途端、嶌津さんの表情が一変した。

 真っ赤な目を大きく見開き、持っていた箸を机にバチンと置いた。ごくりと唾を飲み込み、その目は昭久さんの手元を凝視していた。

 その場にいた全員が一様に驚き、嶌津さんの方を見た。僕は彼の表情から明確な「怒り」の色を感じ取った。

 その後は、嶌津さんがすぐに元通りになったこともあり、とりあえず夕食が再開されたが、僕はあの手紙と嶌津さんの見せた表情が忘れられなかった。

 鍋の中が空になったので、いったん会はお開きとなった。

 僕は、片付けをを手伝いながら、昭久さんがひっそりと不安げな表情をしていることに気付いていた。

 紅茶を飲みながら夕食後のティータイムが始まると、不意に昭久さんが嶌津さんに提案した。

「三蔵、さっきの手紙……開けてごらんよ。その、もしかしたら重要なことかもしれないだろう?」

 その口調には、どこか懇願するような響きがあった。

 嶌津さんは、電話台の上に置かれたそれをしばらく見つめていたが、金蔵氏に「開けてみなさい」と諭され、ようやく立ち上がった。

 片手では取り出しにくいのではないかと思ったが、彼は席に戻りながら器用に封を開け、封筒だけを机の上に放った。

 もしかすると、中身を読んでいるうちにまた表情が変わるだろうかと思ったが、今度の彼は眉ひとつ動かさなかった。読み終えると、その手紙を机の上にぽいっと投げた。



拝啓 初夏の候、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。

 さて、この度、貴殿の書画が第二十八回大日本書道展 毛筆 硬筆両部門におかれまして三年連続の最優秀賞を受賞されました事に心よりお祝い申し上げます。

 つきましては、貴殿の更なるご活躍を祈念すると共に、五年ぶりの再会を祝って、ささやかではありますが、祝賀会を執り行いたく思います。

 授賞式が行われる飛鳥村に、下命の所有する別荘がございます。

 当夜は、拙宅にてお部屋を御用意致しておりますので、お連れの方と、是非御宿泊ください。

 詳細は、閉式後のパーティー会場にて、送迎の者を遣わし改めて御案内いたします。

 

日時 昭和二十五年五月五日 (金) 午後五時から

住所 スピリッツ荘

奈良県高市郡飛鳥村○○番地○○

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