銘酒探偵シリーズ

万雷 冬夜

序幕

拝啓 ついに桜が咲き始めてしまったけれど、問題なくやれてるかい。しばらく会いに行けなくてすまなかった。

 今日この手紙を書いているのは、海の向こうの技術を学びに渡米することが決まったからなんだ。期間は分からないけど三年は覚悟している。

 ありがたいことに工場の経営が安定してきて、ちょくちょく増産依頼が入ってくる。父さんの「ここが本社工場になるんや」なんて酒臭い寝言が、じわりじわり現実味を帯びてきているようだ。


 昔から、お前には字を見ただけでその人の五臓六腑まで見透かしてしまう悪癖があるだろう?

 だから、お前にだけは正直に吐きます。吐かせてくれ。

 僕はいま不安で仕方がないんだ。知り合いも誰もいない日本語の聞こえない土地で、裸一貫、かつてお坊ちゃんだった頃に習わされた半端な英語でやっていかなきゃいけない。お国のため、家族のためと立派な使命を背負わされても、戦場でのお前のように獲物をしかと睨みつける大虎にはなれなかったよ。かろうじて取り繕っていた男らしさなんか霧散してしまった。あっちゅう間だよ。

 米国行きが決まった日、庭で妹弟たちと百日紅の剪定をしたんだ。僕は、切り落とした枝を麻紐で縛りながら「じゃあ、兄さんは来月からちょっと行ってきますからね。」なんて気障に言っちゃって、妹弟たちの無垢な視線を一身に集めてきた。父さんも母さんも「それでこそ相沢家の長男だ。」だってさ。嫌になっちゃうよ。


 僕はお前のことが心配だよ。やっぱり片腕では何かと不便なのではないかと思うんだ。昭久さんはお店があるし、金蔵さんはお元気だけどご老体だろう?

 僕の代わりに、時折あれやこれやと世話を焼いてあげる存在が欲しくなるんじゃないかと思うんだが、どうだろう。

 そこでと言っちゃなんだが、僕の弟を覚えているかい。前に会ったのは戦前のことだから、もう十年以上も前になるね。今年から高校生なんだけど、一丁前に生意気になって、何かと物事に首を突っ込みたがるようになった。

 昨晩「兄さんの代理として、我が友人、嶌津三蔵くんの見舞いを任せてもよろしいか」と問うてみたらば、ぱっと顔を上げて返事もせずに部屋から出ていって「相沢嶺二、ただいま長男代理を任じられました!」なんて宣伝を家中に始めてしまった。

 そういう訳で、本当にすまないのだけど来月からは僕の弟がそっちへ行くよ。何なりと申し付けてやってくれ。あいつも寂しい子なんだ。

 僕も日本を離れる前に、改めてお前のところに別れの挨拶をしに行くよ。どうか、生きて帰ってこられるよう祈っていてくれ。

 それじゃ。        敬具


昭和二十五年三月十三日

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