第5話 吸血衝動【ノヴァ視点】

「……ああ、切ってしまった」


 ナイフを使っていたら自分の指を傷つけてしまった。

 これぐらいならすぐに治るか。ひとまず水で流そう。

 そう考えているとエヴァが近づいてくる来る気配がした。


「エヴァ? どうかし、……た?」


 瞳が、あかい。

 エヴァの瞳は落ち着いた琥珀色から妖しく光る紅に変わっていた。

 ……吸血衝動か。


「エヴァ!」


 私はエヴァの肩を強く掴んだ。

 これが失敗であったと気づいたのは数秒後、エヴァが私の左手を掴んだ時。

 左手の指からは真っ赤な血が流れている。

 エヴァは妖艶に微笑み、その華奢な腕からは想像もつかないような強い力で私の左手を引き寄せた。

 そして思い切り咬みつく。


「っ!?」


 ……痛い。ここまでの痛みは久しぶりに感じた。

 だが、そんな痛みは一瞬で過ぎ去る。

 ヴァンパイアが吸血する際に使う麻酔作用のある魔法が発動されるからだ。この魔法は麻酔の役割と同時に相手の自由を奪う役割もある。

 何とも皮肉なものだ。相手を苦しませないようにしながらも確実に相手の生命いのちを奪っていく。

 これ以上は流石にまずい。

 エヴァの魔法は私の血液を伝い全身へ広がろうとしている。このまま何もしなければ私は動けなくなるだろう。

 満足するまで血を飲み正気に戻ったその時、目の前の惨状と欲のままに行動したという記憶は簡単に自身の心を壊してしまう。

 今までそんなヴァンパイアを幾人も見てきた。かくいう私も……。

 それは、それだけは避けなくてはならない。


「……エヴァ、ごめんね」


 咬まれていない方の手でエヴァの額にトンと触れる。私は眠りの魔法を発動した。

 膝から崩れ落ちるエヴァをそっと抱きとめ、呟く。


「大丈夫。起きる頃には全て、綺麗さっぱり忘れているから」


 エヴァは目を閉じる直前、私の方へと手を伸ばす。その瞳は琥珀色に戻っていた。


「……ごめんね」


 また君から奪ってしまう。

 私の弱さを理由にして。

 失うのが怖い。壊れてしまうのが怖い。笑いかけてくれなくなるのが怖い。

 ……独りになるのが怖い。

 奪って良いものなんてないのにね。


 ……どうか、自分勝手な私を許しておくれ。


『記憶を忘れても、思いを忘れるな。消えない思いが君を形作る。——記憶操作スペス・メモリア


 そう唱えると白い光がエヴァを包み込む。


 喉の渇きを、欲に支配されていく感覚を、血を飲んだ記憶を、忘却の彼方へ。


 白い光は一つの球となり、エヴァの額へと消えていく。

 これで吸血衝動と吸血に関する記憶はなくなったはずだ。


 自分の左手を止血した後に洗浄の魔法を使い、手や口、服についている血を落とす。

 エヴァを抱きかかえ、エヴァの部屋へと移動。そっとベッドに寝かせ、額にキスをした。


「……おやすみ、良い夢を」


 静かにリビングへと戻り、椅子に腰掛ける。


 ……そうだった、100年が経っていたか。もう少し注意して見ていればよかった。

 そんな後悔をしてももう遅い。ことは起こってしまったのだから。


 ヴァンパイアは不老不死だ。食事も人のそれとほとんど変わらない。

 変わっていることといったら、100年に一度人の生き血を飲まなければならないということ。

 ヴァンパイアになってから、前に血を飲んでから100年が経ったその日、突然吸血衝動に襲われるのだ。


 エヴァは100年眠っていたことやヴァンパイアになっていることについてかなり混乱していた。自身が血を飲んだことを知ったら混乱では済まないだろう。

 それこそ心が壊れてしまうかもしれない。だがそれは私が耐えられない。

 記憶を操作したのはあくまで一時的な対処だ。

 また100年後、同じように吸血衝動は起こる。


 その時、今日のように私が止められるだろうか。

 ヴァンパイアは長く生きるにつれ力が増していくから、止めようとしても加減ができず、エヴァを傷つけてしまうかもしれない。


 それならばエヴァ自身でコントロールできるようになってもらおう。

 吸血衝動は、力を得たり自身を理解したりすると、ある程度はコントロールできるようになるものだから。


『旅に出てみたら?』


 ふと、そんな声が聞こえた。

 その声はきっと妖精のいたずら。私の記憶から出てきた旧友の言葉。

 ずっと昔、旅をしていた頃を思い出す。


「……そうだね。それも良いかもしれない」


 エヴァが力を得るための旅。自身を理解するための旅。

 私が私を受け入れるための旅。


 ——世界を見て回るための旅。

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