第3話 空虚

「おはよう、エヴァ」

「父様、おはようございます」


 100年の眠りから目覚め、数日が経った。

 ここ数日は、寝て起きて食べてぼーっとしてまた寝ての繰り返しだ。ただそこに生きている。そんな時間が過ぎていく。


「今日は少しリビングに来てみない?」


 そういえばトイレとお風呂以外でこの部屋から出たことないな。

 リビングってどんな感じなんだろう。気になる。

 それにぼーっとしていると考えても仕方がないことを考えてしまうから。


「行きたいです」

「分かった。……立てる?」


 私はゆっくりと立ち上がってみせる。

 一昨日までは壁や椅子を使わないと立つことすらできなかったが、昨日には何にも頼らずに歩くことができたのだ。

 父様が見てないところで歩く練習はしていたけど、それにしても回復する速度が早い。

 これもあの魔法水エリクサーのおかげなのだろう。


「歩けるようにもなりました」

「……! それなら大丈夫そうだね。ついてきて」


 父様はゆっくりと歩き出す。時折後ろにいる私を確認しながら。

 歩く速度を合わせてくれているのかな。歩けるようになったといっても早くは歩けない私にとって、それはとてもありがたい。


「階段は問題なさそう?」


 目の前には下に続く階段がある。

 私がいたのって2階だったんだ。この家で数日過ごしてきたが初めて知った。

 正直、階段を上り下りする自信はない。きっとつまずいてこけてしまう。

 でもリビングには行ってみたい。どうすればいいんだ。


「……階段は無理そうです」

「そうか。……はい、乗って?」

「……え?」


 父様は私に背中を向けて屈んだ。

 これは、おんぶというものだよね? わ、私はどうすれば?


「リビング、行かないの?」

「……い、行きます」


 子どもでもないのにおんぶされるという恥ずかしさよりもリビングに行ってみたいという気持ちが勝った。

 考えても仕方がないことを考えてしまうことに少し疲れたよね。気分転換がしたいよね。

 そう、気分転換のため。これぐらいは恥ずかしくも何ともない。

 無理やり自分を納得させ、父様の背中にそっと乗った。


「しっかりつかまっていてね」


 私はその言葉通り、しっかりと父様につかまった。

 父様はゆっくりと立ち上がり、階段を降りる。

 目線が少し上がっただけなのに普段見ている世界とは全然違って見える。少し楽しいかも。

 なんて思っていたら1階に着いた。

 父様が屈んでくれたので床に降りる。


「リビングへようこそ。私は朝食を作るからそこの椅子に座って待っていて」

「分かりました」


 私は案内された椅子に座った。

 そして周りを眺めてみる。

 私が数日過ごしていた部屋と同じく、木でできた壁と天井。窓から差し込む柔らかい光。端の方に本が数冊積まれてある大きめのテーブル。至る所に本や植物の緑がある。

 リビングと繋がっているキッチンには朝食を作っている父様の姿が。

 穏やかで優しくてゆっくりと時間が流れていくこの空間はとても居心地が良い。


 ——喉が渇いた。


 水をもらおうかな。

 私は立ち上がり、父様のいるキッチンへと近づく。


「どうしたの?」

「お水もらってもいいですか?」

「うん、もちろん。ちょっと待ってね」


 父様はパンを切る手を止め、空のコップを持つ。

 それに手をかざしたと思ったらコップが水で満たされていた。


「はい、どうぞ」

「ありがとう、ございます?」


 どういうことだろう? 魔法なのかな? でも魔法は呪文を唱えて発動するものじゃなかったっけ?

 私は疑問に思いながらもそれを受け取り、さっき座っていた椅子に戻った。


 ——喉が渇いた。


 水を一口、二口と飲む。


 ——全然足りない。


 コップに入っていた水を飲み干しても喉も渇きは治まらない。

 むしろ渇きが増したような気さえする。


 ——足りない。全然足りない。


 あるべきものがなくなってしまったかのような不安。

 心に真っ黒な穴が開いているような嫌な感覚。

 何かが足りない。何かが、何かが……。


 私は一体どうしてしまったのだろう。


 あんなに居心地の良かった空間が遠く離れていく。

 色のない空間。見えるのは闇だけ。抜け出せなくて、ずぶずぶと溺れていく。

 怖い。よく分からないものに支配されていく。

 怖い。私が私ではなくなってしまう。


 分からない。どうしてこんな風になっているの。


 ——足りない。全然足りない。


 ……そうだね。全然足りない。


 ——喉が渇いた。


 ……喉が、渇いた。


 ——ならば奪ってしまえ。

 なら分かるはず。何が足りないのか。

 何が欲しいのか。

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