それって愛じゃね?
日が傾きかけた頃、プエルたちはようやく街へと辿り着いた。そこにあったものは、かつての賑やかな風景などではなく、荒廃した建物が影を落としていた。行き交う人の喧騒に満ちていた大通りは、今や静まり返っている。何かが暴れたのか、門から続く大通りに向かって大きく道が抉れ、そこらに瓦礫が散乱し、塀はあちこちに穴が空いている。風が吹くたびに、その残骸はさらなる荒廃を告げる。今までの繁栄が嘘であるかのように街は壊滅の淵にあった。
「な、なにこれ……ジーニアスさんは……⁉︎」
「とりあえずはみんな避難してるみたいね……」
プエルが惨状にうろたえる一方で、シノカは辺りを見回して人が倒れていないことを確認する。道中、血溜まりが出来ている部分もあったが、少なくとも死体は存在していない。
大通りを抜け、頭領の家にまでやってくると、その光景は凄まじいものだった。石畳が掘り起こされ、数人が通り抜けられそうな大穴があちこちに空いており、局所的な地震で地盤がひっくり返ったようにも、龍や大蛇が暴れ狂ったようにも見えた。それでも、頭領の家そのものは無事で、そこには人々の不安げな顔があった。避難していた者たちが集まっていたのだ。シノカの顔を見るやいなや、人々が声を上げて押し寄せてきた。その先頭にいたのは、頭領マスラオだった。
「シノカ! 無事だったのだな……!」
「おっさんこそ! それにみんなも! 無事でよかった〜っ!」
「いや、全くの無事、というわけではない。何者かに胸を貫かれ、死を覚悟したはずなのだが……ジーニアス殿が助けてくれたようだ。やはり、彼は素晴らしい男だ」
この通り、と胸をさらけ出す。そこには艶やかに盛り上がった大胸筋があるばかりで、どこにも傷跡など存在しない。ジーニアスの魔法を知らなければ、虚言を吐いていると疑うほどだ。
「それで、ジーニアスさんは……?」
「うむ……それは公衆にて口にするのは憚れますゆえ、ちょいと失礼」と、マスラオはそれについて少々難色を示しながらも、周りに聞こえないようプエルに耳打ちをした。「〝セ◯クスの開発〟は倒した、と仰っておりました。正直なところ、どういう意味なのかまるでわかりませぬ」
「なんなんだあの人……」
「それから、黒幕を捕まえてくると仰っていましたな。我々も奮起したのですが、ジーニアス殿に足手纏いと言われてしまい……遺憾ながら不覚を取った手前、何も言えず。なので邪魔をせず待つのが最善かと思い、こうして待機している次第です。というところで……」
言葉を切って、マスラオはシノカの方に向き直った。未だその手に丸太を掴んで離さないシノカの様子に、マスラオは安堵の表情を浮かべて感慨深く頷いた。
「シノカ、達成したのだな。
「まあね? あーしにかかればこんくらい楽勝だし? ……って言いたいトコだけど、プエちにすげー助けられちったし? あーし一人じゃ無理だったかな〜」
あはは、と苦笑するシノカを尻目に、マスラオは背後を振り返って人々に視線をやった。
「
頭領任命の儀の終わりを告げる声に「うおおーッ!」と大歓声が上がる中、シノカは慌ててマスラオの肩を叩いた。
「ちょ、おっさん⁉︎ あーしの話聞いてた⁉︎ プエちの協力がなきゃ無理だったんだってば!」
「知り合ったばかりの立会人が協力したくなるような人間性、まさに頭領の器ではないか」
「そんくらいのことで? 贔屓すんなし!」
「贔屓なんかじゃないと思いますよ」
プエルはシノカの後ろで歓声を上げた者たちをさして言った。
「シノちゃん! 頭領に相応しいのはあんたしかいないよ!」
「シノカ! おまえがナンバーワンだ!」
「おねーちゃんが頭領だーっ!」
「期待してるぞ新頭領!」
彼ら彼女らは、いずれも優しい顔をしていた。他の頭領候補を送り出したパートナーでさえも、悔しいという気持ちを欠片も感じさせない、清々しい笑顔でシノカを祝っていた。それが心からの言葉であるか否かを疑う方が野暮であるほどだ。
「ほら、贔屓なんかじゃないんですよ。シノカさんの人柄が、人徳がこの光景を作ったんです。皆に祝われ、誰にもやっかみを受けない……そんな暖かい光景を」
「プエちぃ〜!」
感極まってか、シノカはプエルに抱きついた。わずかな驚きと照れ臭さはあったが、今も血にまみれた手が、ぼろぼろの体がプエルの地肌に伝わって、どきりとした。特にこの華奢な白い手からはみ出した肉と見え隠れする骨の痛ましさは想像を絶するものだ。丸太を持ったまま山を駆け回り、危機を潜り抜けるということが、どれほど過酷なことかを物語る。
「さて」と、マスラオは皆の方に視線を送った。「新頭領誕生、めでたくはあるが、事態が事態なだけに祝ってばかりもいられぬ。皆、おおよそ避難したようだが、姿の見えぬ者もおる。それに、他の候補者たちは戻っておらぬ。これから被害の確認をせねば――」
マスラオが指揮を執り始めると、上空から「おー、戻ったか」とジーニアスが声を上げた。ふわりと降り立ったジーニアスの横には縄で縛り付けられた初老の女性の姿があった。顔にはデフォルメされた垂れ目の描かれたアイマスクに、口には猿轡を噛まされている。
「ジーニアスさん! その人は……?」
「黒幕だよ。コーガの頭領だってよ。なんか喚いてたからぐるぐる巻きにしてやった」
「……コーガの頭領ってやっぱり女性だったんですね。ちょっと心配してたんですけど、大丈夫だったんですか? ジーニアスさん、女の人相手だと気持ち悪いですから」
「失礼なやつだな……」はーっと大きな溜め息を放って、ジーニアスは肩をすくめた。「ババアは女じゃねえからな、大丈夫に決まってんだろ?」
「失礼な人だな……」
モテないのも当然の言動に呆れ返る。男社会も真っ青だ。
「ジーニアス殿、ありがとうございます」とジーニアスに一礼をしたマスラオは、女性の前に立つと、しゃがみ込んで目隠しと猿轡を取り払った。ミノは視界が開けたことに驚くよりも何よりも先に、キッとマスラオを睨みつけ、その敵意を剥き出しにした。
「なぜ、このようなことを……」
「マスラオ……」ミノは憎悪のこもった低い声で小さく唸る。彫りの深いマスラオの顔は、経験と生き様が皺と共に刻まれているようだった。それでいて年齢を感じさせぬ超大な広背筋からなる筋肉はまるで山か砦のように立ち、その存在はどんな強敵にも立ち向かう覚悟さえ感じさせられる。その目はまるで燃えたぎる炎のようで、老いてなお頭領としての風格を備えていた。
若い頃のままだ――と、ミノはわずかばかり目を伏せた。
イーガの里の良家に生まれたミノは、親の執り仕切る奉仕活動の一環で孤児院を回っていた。親に連れられたものの、ミノは奉仕活動というものに退屈さを感じて遊びに出かけるような女の子だった。孤児だったマスラオと出会ったのは、そんな頃のことだった。二人は同い年だったが、すぐに打ち解けられたわけではなかった。当時のマスラオは今とは似ても似付かぬ引っ込み思案で、体も小さく痩せこけていた。遊びに誘っても体が弱いからと言って聞かず、本ばかり読んでいた。
ある日、部屋に引きこもり続けるマスラオのことが気になり、無理を言って連れ出したことがあった。シノビマスルの里より東北に行ったところにある山の麓で、安全が確認された場所だったが、新しいもの好きのミノにとって〝安全〟は〝退屈〟と同義だった。怖がるマスラオに反対を受けながらも麓から奥へと進み、そこで妖魔に遭遇することになった。
今でこそ大したことのない妖魔といえたが、当時の二人にとっては人間に襲いかかるタイプの妖魔に遭遇すること自体が恐怖そのものだった。ミノは最初ワクワクしていたが、鋭い爪に引っ掻かれて傷がついたのを見て、初めて事態の重さを認識した。子供の足で逃げ切れるはずもなく、頼れる大人もいない。いるのは、ただの女の子と臆病な男の子だけだ。しかし、戸惑うミノを引っ張ったのは、当時のミノよりずっと貧弱なはずのマスラオだった。ミノを守り抜くために傷を負いこそしたが、傷口に構う事なく棒っきれ一つで囮になり続けた。
この時、二人がいなくなっていることに気づいた両親が駆けつけて事なきを得た。ミノは「マスラオはすごいんだよ」と周りに吹聴するようになった。本心だった。実際に、自信をつけたのかマスラオはメキメキと力をつけていった。二十代になる頃、二人はいつしか恋仲になっていた。その頃になると、もうマスラオは今のマスラオとほとんど変わらないほどの成長を遂げていた。一方で、ミノは現代の技術や魔法を積極的に取り入れ、外交気質の人間になっていた。昔気質のイーガとは馬が合わず、当時のコーガの頭領に引き抜かれたのもその頃だった。
「そう、わかったわ」と、ミノは振り返らないまま言った。背後でマスラオが告げたのは別れの言葉だった。俺とは終わりにしてほしい、という内容だ。マスラオが次に何かを言う前に「話が終わったなら出ていって」と強く言った。マスラオの声をこれ以上聞きたくなかったからだ。マスラオと恋仲になって色々なことがあったが、シノビマスルの流儀を最重視するマスラオとは相性が悪く、それまでにも何度も意見がぶつかり合った。しかしもう、言葉を交わすことさえ億劫になっていた。口を開けば喧嘩に発展するような会話など、無い方がいいに決まっている。
あっさりと自分を捨て去ったマスラオに恨みはなかった。むしろせいせいしていたはずだった。それなのに、マスラオがイーガを率いて地位を上げて頭領となり、会談の場に立ったと聞いて憎悪が走った。力だけが取り柄で、男社会として築き上げられただけのイーガが、王都の最新技術や魔法を取り入れて発展を続けるコーガと対等であることが気に入らなかった。
私の方が優れている。この男よりも、何よりも私の方が優れていることを証明したい。女社会であるコーガでそれを実現するには、やはり力を見せつける必要があった。一口に力といってもそれは筋力だけではない。類まれな知性と統率力、それと冷酷さだ。これを解決するため、
「――貴方に死ぬよりも辛い思いをさせてやろうと思ったのよ。叶わなくて残念だったわ。
「弱くはねえぞ」ジーニアスは飄々と言った。「俺の方が強かっただけだ」
「そう、そうなのね……」
ジーニアスからは微かな魔力さえも感じなかったが、不思議と堂々としたその言葉を疑う気持ちにはならなかった。カイツールは、ミノが見た中では紛れもなく最強の存在だった。それがわずかな時間で殺されてしまったというのだから、皮肉を言いたくなっただけの事で、『弱いわけではない』という事実を突きつけられ、皮肉を言ったことを自省する気持ちにさえなった。
「すまなかった、ミノ。吾輩のせいで……」
「……どうして謝るのかしら。私が自分で決めてやったことよ。それに、許されるなんて思ってもいないわ。さあ、投獄でも処刑でも何なりとどうぞ」
「ミノ、そう自棄になるな。あの時もおまえはそうだったではないか」
「うるさい! 何もかもわかったような口ぶりを……! 貴方のような筋肉バカに私の何がわかるというの! 私を置いていったくせに!」
しまった、と目を伏せた。同時に、なぜそのような言葉が口を吐いて出たのか理解できず、ミノは眉を歪ませた。胸の内は沸々と煮えたぎっている。
「……吾輩が子を成せないと知ったのは、おまえと恋仲になった後だった」マスラオは重苦しくも再度口を開いた。「子を成せぬと告げようとしたが、おまえは既に吾輩に愛想が尽きていたようだったから、何も言えず……そのまま別れることになった。その後、育ての親の紹介で今の妻と出会ったよ。だが、それで十分幸せだ。血を分けた子ではないが、子も出来た。自慢の息子……いや、自慢の娘だ。何にも代え難い存在だ。その事実は今ここにある全てによって生まれてきたものだ。だから許せというわけではないが、最初からきちんと説明すべきだったのはあの時から今まで後悔として残り続けている。もしかしたら説明していれば……」
「そうしたら、私は
ミノはキッとマスラオの悲しげな顔を睨みつけ、それから力なく目を伏せた。
「……もういいわ、牢獄に連れて行ってちょうだい」
隣に立っていた屈強な男に告げると、ミノはそれ以上何も語るまいと口を噤んだ。男たちに両隣から支えられながら、ミノは牢獄へと向かった。老齢のミノにとって、これからの獄中生活など死刑に等しい。極刑でなければ、これ以上にない刑罰といえた。
「……ミノさん、本当は知ってたんじゃないでしょうか?」
プエルの呟きに、茫然自失のマスラオが「どういうことです?」と首を傾げた。
「マスラオさんが子供を作れないってことですよ。知ってたのに、言ってくれなかったのが悔しかった、とか……本人が何も言わなかったんで、憶測でしかないんですけど」
「なるほど……だとしても、やはり吾輩のせいですな」はは、と乾いた笑みを浮かべた。「吾輩は……子供の頃、ミノの為に強さを求めました。強いと言われるのが嬉しかったもので……もっと強くなれば、もっと褒めてくれると。まぁ、幼さゆえの愚直さでしたが、今の吾輩があるのは、全てミノのおかげなのです。その感謝と、事実を伝えられていれば……」
「よくわかんねーけど、それって愛じゃね?」
シノカが人差し指をマスラオに向けながら、ぐいと詰め寄った。
「つーか、二人とも口下手すぎだし! 愛してる! ちゅっちゅー! でいいじゃん! もっと話し合えし! 黙ってちゃなんもわからんから! 伝わんないよ!」
「その通りよ」と、何者かが横槍を入れた。そこには気絶した候補者と立会人合わせて四十数人を丸太に乗せ、それを担ぎ上げたまま迸る汗を全身から噴き出すカガだった。
「カガちゃん!」
山のように積み上げられた怪我人を振り落とさないよう慎重に丸太を置いて全員を地面に寝かせると、カガは飛び上がって喜ぶシノカとハイタッチした。それから頭領に視線を向ける。
「頭領、少しだけ話を聞かせてもらったけれど、話し合いって大事よ。日頃から口数少ないのに、女の子とは特に喋らないでしょ? アタクシなんか男も女もなく喋るから、里のコたちのこと何でも知ってるわよ。頭領がいつも孤児院の様子見に行ってることも知ってるし」
「フ……吾輩はお主のことを侮っていたようだ」痛いところを突かれたとばかりに苦笑したマスラオは、カガの持ってきた丸太を見やる。傷だらけで、初代シノビマスル頭領の顔は削り取られているといってもいいほど面影はない。しかしそれに乗せられた人々は無傷で、いかにカガが慎重に彼らを運んできたのかがわかる。繊細さと豪胆さを併せ持たなければここまで一人で運ぶことは叶わなかったであろうことが読み取れる。「カガ、お主を副頭領に指名したい。頼めるか?」
「え? アタクシを……?」
「やったじゃん、カガちゃん! ま、おっさんが指名してなきゃあーしが指名してたけど」
「シノっちまで! でも、いいの? アタクシ、失格してるのよ?」
「関係ないよ! だって、ここまでみんなを抱えてきたんじゃん! こんなこと普通できない……つーかやば! これ
「グハハッ! 確かに! 逸話と変わらぬほどの活躍をした以上、認めざるを得まい! なあ皆の者!」
マスラオが皆に向かって問いかけると、皆が歓声を上げて祝福をした。それこそ、シノカが頭領に任命されたのと同じくらいの熱量があった。男女なく誰に対しても変わらない態度で、誰にでも優しく、時に厳しくもあるカガは、父であり母でもあった。
そんな民衆の声に応えるべく、カガは困惑しながらも胸を張った。よく鍛えられた大胸筋が広がり、ただでさえ大きな体をより逞しく、大黒柱のような揺るがぬ巨躯に見せる。
「アタクシはレディ・カガ! オカマ副頭領として男女の垣根を越えて活躍してみせるわよッ!」
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