An elephant in the room.


 

 

 屋敷の門は突然、轟音と共に蹴り開けられた。暗闇の中から姿を現した男は、まるで己の屋敷であるかのように悠然とした態度で歩き出した。彼が不適な笑みを浮かべる意味は、その手を一目見ればはっきりとする。何者かの鮮血が滴り落ちて、石畳に染料をこぼしたかのようになっていたからだ。彼の目には真っ黒い闇が宿っており、周囲の空気までが彼の荒々しい存在に引き摺り込まれるようだった。背後の扉の向こうには、イーガの頭領マスラオが血を流して倒れていた。

 

「――まさか、頭領任命の儀を狙うとは」

 

 背後から突然胸を貫かれたマスラオは、血を吐きながらも瞬時にそのことを理解する。

 

「別にオレが考えたことではない。だが、キサマたちの頭が悪いのは見ていてわかる。対立する勢力があるのだ、それくらいは考えて当たり前のことだろう」

 

「そうか……そうだな……」と、マスラオが遠いところを見つめながら言った後、カイツールはその腕を引き抜いた。ミノの〝殺すな〟との約束通り、急所は避けていたが、直接この手で殺さなければいい。その後、勝手にのたれ死ねばよいと考えていた。胸の風穴からどっと血が吹き出し、身体中の煤けた包帯にはもちろん、カイツールの四本のねじれたツノもその血で汚れた。

 

 それがつい先ほどあった出来事だ。ここに来るまでにも屈強な門番やいくらか残っていた大男たちがいたが、それらでは相手にならない力の差があった。門番の首をねじ切り、襲い来る男たちは手刀で切り刻んだ。死体の山を築くと騒ぎになるため、その場で衣類の糸一本さえ残さず喰らい、そのまま何食わぬ顔をして屋敷に侵入はいった。カイツールにとって簡単な仕事だった。

 

 頭領の屋敷を出ようと門扉に近づくと、一人の女がいた。腰を抜かしていて身動きできない様子であり、カイツールを見る目が怯えていた。この女は、カイツールが何をしてきた後なのかを知っているのだ。どこかで見ていたのだろうが、カイツールは魔力のない者を探知することができない。ゆえに、最も弱いただの人間だけは見過ごしてしまっていた。

 

「キサマ、見ていたな?」

 

「ひっ、ひっ……」

 

 女は声にならない声を上げる。彼女はマスラオの妻、モリヤだった。頭領候補者たちが帰ってきたときのために、豪勢な食事の準備をしていたためにカイツールの目から逃れていたが、カイツールがマスラオの胸を貫いたその瞬間を目撃していた。そして、自分ではどうすることもできないことを悟り、誰かに助けを呼びに行こうとしていたのだった。

 

「フン、だが運が良かったな」

 

 モリヤは痩せすぎず、肥えすぎず、ちょうどよい肉付きの美しい女で、これまでに何人もの人間を喰ってきたカイツールから見ても美味そうな体をしていたが、己の腹具合を鑑みて喰うのをやめた。ここに来るまでに、すでに何人かを喰らい、十分に腹は満たされていたからだ。

 

 困惑するモリヤの匂いが気に食わなかったせいもあった。どこかで嗅いだことのある、脳を刺激するような花の匂いだ。甘い匂いで、刺激臭というわけではない。ただただカイツールにとって不快感を煽る匂いだった。そのせいもあり、カイツールは「どけ」とにべもなく言い捨てて彼女に蹴りを浴びせた。軽く小突いた程度の力加減だったが、彼女は地面を転がり壁に激突する。フン、とその様子を可笑しく思い鼻で笑った後、カイツールは門の方へ視線を向けた。

 

「――何をしているのかな」

 

 それは何の気配もなく、何の魔力もなく、突然現れて耳元で囁いた。聞こえた瞬間に身を翻し、数メートルほど距離を取ると、そこには長髪の男が立っていた。

 

(なんだ、こいつは……?)

 

 男は切れ長の鋭い目をカイツールに向けていたが、一方で虫も殺せそうにない優男にも見えた。第一に、やはり魔力を微塵さえ感じないからだ。そして、体格にも優れていない。これならば、里のニンジャたちの方がよっぽど脅威になるだろう。

 

「キサマ、気配を完全に消せるのか。ニンジャでもそう上手くはいかないぞ」

 

 男はカイツールからの言葉を一切聞いておらず、壁に激突して気を失っていたモリヤを起こしていた。驚くべきことに、男が抱きかかえた途端にモリヤは目を覚ました。それから背骨が砕けたであろうにもかかわらず、男に何かを言われるとすぐに門から逃げていった。

 

「全部おまえがやったってことでいいんだな?」

 

 男は砂のついた手を叩いて払うと、冷たい声を投げかけた。

 

「そうだが。そんなことより――キサマ、コーガのニンジャになる気はないか?」

 

「ならねえ」

 

「即答か。なぜだ? キサマの実力なら副頭領に口利きしてやってもいいんだぞ。副頭領ともなれば冨も名声も手に入る。女も抱き放題だ、人間は繁殖行為を好むのだろう?」

 

「興味な……くもないけど興味ない」と、やや揺れたものの、すぐに頭を振った。「おまえみたいなクズになるくらいなら子供なんぞいらねえ。俺は女に暴力を振るうヤツが嫌いだ」

 

「残念だな。交渉など一度きりだ、悪いが容赦せん」

 

「それは俺のセリフだ」

 

 男が買い言葉を言い終わるかどうかというタイミングで、カイツールは文字通りに腕を伸ばしてその腕を掴んだ。どれほど気配を消すのが上手かろうと、所詮は魔力のないただの人間だ。カイツールの膂力に抵抗できるはずもなく、いとも容易く上空へと跳ね上げられた。

 

「このまま地面に叩き落としてやるのもいいが――」と言うと、カイツールは伸ばした腕を引っ込めて口を開いた。包帯を巻いていた口の部分がメキメキと音を立てて、あっという間に直径五メートルはあろうかという大口に変貌する。「オレの血肉となれることを光栄に思えッ!」

 

 男は何の抵抗もすることなく落下し、口内へと誘われるようにして吸い込まれていく。ばくん、とその大口が閉じられ、あっさりと決着はついた――かと思われたが、次の瞬間カイツールの体が爆散した。何が起きた、とバラバラになっていく体を無数の目玉で見つめながら思考する。男を食い、抵抗できないはずの男が何かをしたということだけは即座に理解できた。カイツールは己の体を超スピードで再生しながら、男に対して拳を幾度もぶつけた。

 

「シハハハッ! 浅はか! 浅はかだぞ! 爆弾ごときでオレを殺せると思ったキサマの負けだッ! 無駄な抵抗をするからだ! おまえはボロ雑巾のようになる運命を自分で選んだッ!」

 

 常人の目には見えぬほどの拳を何百と叩き込んだだろうか――というところで、飛び散る肉片が男のものではないことに気がついた。男の肉ではなく、己の拳が砕け散っていたのだ。拳をピタリと止め、一瞬で体の再生を終えると、わずかに距離をとって男の様子を眺めた。

 

(傷一つない……どういうことだ)

 

 男の体には傷どころか、身に纏ったローブが破れた様子さえなかった。かといって、防護魔法プロテクシオンに見られるような薄い魔力の壁もない。魔法で守られているわけでもなく、なぜオレの拳が届かない――と、混乱のさなか、男はその長身からカイツールを見下ろした。

 

「おまえ、それで本気か?」

 

「なんだと……?」

 

「さっき、ずいぶんはしゃいでいたな。本気を出せよ」

 

「キサマ……」これは挑発だ、とカイツールは直感したが、あえてそれに乗ることにした。「どうやらキサマはオレが本気を出すのに相応しい相手のようだな。名乗れ、覚えておいてやる」

 

「そうか。じゃあ先に名乗っていいぞ」

 

「……まあいいだろう、オレは六の眷属セクストのカイツール。キサマを殺す者の――」

 

「は⁉︎ 待て待て、セ◯クスの開発……⁉︎ いまセッ◯スの開発って言った⁉︎ おまえこんなときにそんなこと言うキャラだったのかよ、やべえ奴だな」

 

六の眷属セクストのカイツールッ‼︎ キサマを殺す者の名だッ‼︎ 二度と間違えないようにその腐った脳みそに刻みつけてやるッ‼︎」と、怒声を上げて地面を蹴り付けた。


「金星霜・地割れ螺旋シュピラーレ・ボーデン‼︎」

 

 石畳は砕け散るようなことさえなかったにもかかわらず、即座に地鳴りを起こし、次の瞬間にはまるで波打つかのようにぐにゃりと渦を巻いた。男の立つ場所まで奪うのに時間は掛からなかった。渦巻く大地の中に飲み込まれようとしたとき、男は跳び上がって退避した。落ちてくるまで待てばいいだけだ、とカイツールが見上げると、男は空中で静止して見下ろしていた。

 

飛行魔法ヴォラール……!」と、一瞬たじろいだものの、カイツールは次の一手を放つ。


「金星霜・渦巻く死の領域シュピラーレ・ネビュラ!」

 

 両の手を大地に密着させると、螺旋状に回転を続ける地面が無数の岩石となってちぎれ飛んだ。それらの軌道は全て男に集中し、あっという間に男の姿を消すほど覆い被さった。それでも液状化した大地は回転を続け、男に向かって落下を続ける。視界のほとんどを奪うほど立ち昇る土煙がようやくのところで収まったとき、カイツールの立っている場所以外の地面は大きく抉れ、石畳があったはずの道は巨大なモグラが通ったかのような深い溝が出来ていた。

 

「やったか……」

 

「やれてないんだよなあ」

 

 男は軽い調子でそう言って、手を使うことなく瓦礫を押し除けると、その姿を現した。

 金星霜・渦巻く死の領域シュピラーレ・ネビュラは大地を武器として対象を押し潰す、カイツールが自信を持って主力とする魔法だ。どんな生き物だろうと大地の圧倒的質量を前にすればちっぽけな存在であり、その場から遁走しようとも、どこまでも対象を追跡する必殺必中の魔法である。たとえ魔王が相手であっても避けられるはずはない。なのに、この男はその服に綻び一つさえなかった。


「おまえさ、一つ確認したいんだけど」

 

「……なんだ?」と、限りなく冷静を装いながら返答する。

 

「その〜、いま裸だけど、チ◯コ付いてないように見えるなって。女じゃないよね?」

 

 こんなときに何を言い出すのかと、カイツールは舌打ちをした。最初に男を喰らい、体内で爆発を起こされたとき、衣服は全身の包帯もろとも切れ端一つも残さず爆散している。元の引き締まった肉体を再生したものの、男の指摘した通り股間には何も存在していない。カイツールは人間の男を模して体を形成しているが、元々は強いだけのヤギ型の魔物でしかなかった。それが魔王の魂の欠片を与えられ、眷属デーモンとなった際にこのような魔王と似た姿となったのである。

 

「くだらん。オレは眷属デーモンだ、男も女もない。しいて言うなら男に近いがな」

 

 ヘッドとかいう女に男と勘違いされたな、と思い返しながら返答する。


「ならよかった!」と、男はそう言うと同時にカイツールの顔面を殴り抜けた。


 何の予備動作もなく、殺気もなく、ただただ無情な一撃だ。一切の反応も出来ず、カイツールは顔にめり込んだ拳を爆裂四散した無数の眼球で見つめる。何が起きたというのか――理解できたのは、豆腐が叩き潰されるがごとく己の顔が弾け飛んだという事実だけだった。それでもカイツールは顔面を再生しながら、すかさず男との距離を取った。


「キサマ、魔力もないくせに……ッ!」


 思わず声が飛び出した。身の毛がよだつ――これほど得体の知れぬ存在と対峙するのは、序列が高位の眷属デーモンと魔王以外では初めてのことだった。いや、えもいわれぬ不気味さで言えばこの男は突出している。初めて目にした時も、今この時も、この男に魔力は存在していないからだ。

 

(魔力がない……?)


 己に疑問を投げかける。魔力がないはずはない。この男は魔法を使っている。飛行魔法ヴォラールは極めて微弱な魔力で空を飛べるが、微弱でもやはり魔力を使うことには変わらない。そして魔力を使えば独特の魔力の波長を視認できる。カイツールは人間よりも高い精度で魔力を感知でき、カイツール自身もそのことに絶対の自信を持っている。街一つを覆うほどの巨大な感知魔法ペルシヴィルを張り巡らせたカイツールに感知できない魔法使いなどいるはずがない。

 

「俺の魔力が見えてねえんだな」


 男の一言で、カイツールの頭に一つの可能性がよぎる。魔力が無いのではなく、魔力が大きすぎて見えていないのだとしたら――それはつまり、街一つよりも、或いは国一つよりも。


 An elephant in the room.(象は初めから部屋の中にいた)


 魔力のない人間に全く気づけないほど感知魔法ペルシヴィルに頼りすぎたカイツールには、大きすぎるこの男の存在まりょくが視界に入らなかった。否、ありえないことだと本能が見て見ぬふりをしていたのだ。そのことに気がついた時、カイツールは目の前の男を初めて脅威だと認識した。


「おまえがどうやったら死ねるか、試してやるよ」


 再生しきって五体満足となったカイツールを見て、男は口の端を歪ませた。






 

 

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