第4話 見立て
「え……えっと……」
「そない緊張せんと。ワシなんかホラ、冬茹や思ってくれたらええねん」
そう言うと、竹山は自分の顔を指差した。
冬茹とは、干し椎茸の事だ。斉藤は一瞬ぽかんとしたが、その意味に気付くとプッと噴出した。
細面ではあるが、浅黒く、そして皺の刻まれた竹山の顔は、確かに本人の言う通り冬茹に見えた。
「似とるやろ?」
言ってニッと笑ってみせる。そんな竹山の表情で、斉藤の緊張も太陽に温められた雪のようにゆっくりと溶けて行った。ふっと短く息をつくと肩の力を抜く。
そんな斉藤の様子に竹山は目を細めると、懐から愛用の老眼鏡を出して掛けた。
「ほな、見立てを聞かして貰おか」
「はい」
竹山の手が斉藤の肩を叩く。それを合図に、斉藤は自身の見立てを竹山に語った。
「我々が到着して直ぐに直腸温を計った所、直腸温は室温と略同じ状態まで下がってました。教科書通りの死後経過時間推定式に、冬季であることを考慮しても、およそ三十時間と誤差プラマイ一時間と云う所かと思います」
そこまで言って、斉藤は竹山を見る。竹山は黙って頷いた。それを確認すると、斉藤は遺体に軽く手を合わせ、女の顔に手を掛けた。
生前は美しかったであろう女の目は虚ろで、半分開いた状態となっている。その目蓋をピンセットで摘むと、斉藤は眼球を露出させた。
「角膜は混濁。死斑は──」
言いながら遺体の着衣を開く。無駄な肉のない、自身に充分な金と手間を掛けていた事を思わせる身体が露わになると、その前面と右頬に集中して死斑が出ているのが見て取れた。
うつ伏せで、右頬を下にして倒れていたと言う事だ。とは言え、それ自体は珍しいものではない。だが、それらを見た途端、竹山の眉がぴくりと上がった。
しかし、検視に夢中な斉藤はそれに気付かない。死斑を、ラテックスの手袋を嵌めた指先で押して見せると続けた。
「死斑は指圧しても退色しませんし、死後硬直も緩解し始めています。これらも先程の死後経過時間の裏付になるかと」
「っちゅーと……何時……」
発見時間の三十時間前が直ぐに出てこない。濱口はこめかみを掻くと、眼鏡を外し、腕時計の文字盤を指でなぞった。
「ええっと、誤差を含め、昨日の午前十一時半から午後一時半の間ですね」
「やな!」
斉藤の答えに頷くも、実はそれが合っているのかどうか、濱口は分からなかった。時刻の逆算が出来なかった事を悟られる前に、時計を指先で叩くと手を引っ込める。そしてすかさず話題を変えた。
「で。死因は?」
「──アオ」
答えたのは竹山だった。
遺体、否、正確には死斑を睨み、唇を噛んでいる。
アオ――。青酸カリを指す警察用語で、正式名称はシアン化カリウム。
これを経口摂取すれば、胃液などの酸と化合してシアン化水素が発生し、それを吸引する事で細胞が窒息状態に陥り死に至るが、その際に、強いアーモンド臭を発する。
しかし、シアン化カリウム自体には匂いがなく、酸と反応して発生したシアン化水素がアーモンド臭を発するのである。
このアーモンド臭とは、菓子やつまみに含まれるアーモンドの「種子」ではなく、収穫前の「実」の匂いの事で、それはオレンジや桃にも似た甘酸っぱい匂いだ。
竹山は、死因がこのシアン化水素による中毒死、青酸ガス中毒だと確信した。遺体の死斑が鮮紅色を呈していた。それが何よりの証拠だ。斉藤も頷いた。
「はい。死斑の色から、僕も青酸ガス中毒と見ました。一酸化炭素中毒死に至るような状況でもありませんし。でも――」
斉藤は戸惑いを露わにした。
「口腔内に出血やびらん、腐食が見られませんので、経口摂取した訳でもないようですし、注射痕、皮膚から吸収と言った物もありませんでした。室内を捜索していますが、今の所……。それに、妙なのは、発見者が誰も異臭に気づかなかった事なんです。それどころか、何の臭いもしなかったと」
確かにそうだ。この部屋は無臭だった。密室であったにも拘らずだ。
斉藤によると、彼らが踏み込んだ際にも、何の臭気も無く、検視を行うまで、青酸カリの可能性など考えも及ばなかったらしい。
こう言う話がある。
ある現場から発見された遺体から、青酸反応が出た。状況から、自身で摂取したとは考えにくく、病死としたヤマが一転。事件性ありと騒ぎになったが、なんとその青酸は、ホトケの体内で発生した物だったと言う、驚くべき話だ。
このヤマと同じく、室内は低温で、青酸化合物の痕跡もなかったが、発見された遺体は、腐敗していた。そして、遺体が腐敗する事でアルコールを生成するように、稀に血液が腐敗する過程で青酸を発生させる事が明らかになったのである。
結果、事件は更に一転し、結局病死として幕を閉じたと言う話だ。
しかし、現場の状況が似ていると言っても、明らかに死後経過時間が違う。腐敗の始まっていない遺体から、青酸が生成されたとは考えにくい。
竹山は唸った。
「それにしても、死後三十時間や言うても密室やろ? ガスの痕跡が全く見られんっちゅうのは、やっぱヘンやなあ」
その時だった。
──ヴォン。
「ん……?」
室内の明かりがちらついたかと思うと、低い音がし、次いで空気が動くのを感じて竹山は顔を上げた。
「……!」
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