第3話 現場

「渡辺、おるか~」

 ビニール製の靴カバーを手に件の部屋の狭い玄関に入ると、濱口は室内に向かって声を上げた。

 玄関には小さな白い造り付けの下駄箱があり、その上には色とりどりの箱が綺麗に積み上げてある。

 竹山は苦笑した。どうやらこの部屋の主は蛸らしい。

 積み上げてある箱はすべて靴箱だ。ちらりと覗いて見れば、下駄箱にもぎっしり靴が、しかも色別に整理されて並んでおり、竹山の足元には、入り切らなかったらしい踵の高い靴が、これまたグラデーションを作るかのように並べられていた。余程几帳面と見える。

「ご苦労様です!」

 濱口の呼び掛けに、部屋の奥からジーンズにスタジャン姿の若い男が、手袋の手で敬礼をしながら出て来た。

 濱口の後ろに立つ竹山をちらと見遣り、視線で何者かと濱口に質しているのが見て取れる。濱口もそれを察したようで、男をご苦労さんと労うと、竹山の身分を明かした。

「この人は、警視庁の竹山警部や」

「ええっ? あっ、そうでしたか! 渡辺です。お初にお目に掛かります!」

 渡辺はスタジャンの裾を引き、自身の背筋も伸ばすと深々と腰を折る。その姿に、竹山も思わず「これはこれはご丁寧に」と腰を折った。その後は互いに米つきバッタである。「いやいやそんな」、「こりゃこりゃどうも」。

 それは濱口が止めるまで暫く続いた。

「お会い出来て光栄です。竹山警部のご高名はかねがね」

「ごっ、ご高名?」

「はい。濱口警部からもよくお話を伺ってます!」

 若い刑事は、頭の上下で乱れた髪を撫で付け、満面の笑みを浮かべている。その表情に、竹山は不安になった。

「どんな話してんねん」

「どんなて。鑑識の神やっちゅう話やわいね」

 そう言うと濱口は胸を張り、それとは対照的に竹山は眉尻を下げた。

「濱ちゃん。大袈裟やで」

「なぁんで。なんも大袈裟な事ないわいや。竹ちゃんの鑑識眼は警察の宝や」

「そない持ち上げても、なんも出ぇへんぞ?」

 言いつつも、濱口が自分を認めてくれることが嬉しい。言葉に反して、竹山の頬が自然と緩んだ。

「なーんもいらんよ。ほな渡辺。竹山警部に状況を説明してくれや」

「はい。取り敢えずどうぞ」

 先に立って歩く渡辺の後について、竹山と濱口は室内に入った。

 勿論そこに暖房など付けられてはいない。しかし、何人もの人間が入っている所為か、外に比べて室内は少し暖かかった。

 部屋は所謂1LDKで、短い廊下の右手にトイレ付きのユニットバス。左手に寝室、正面にリビングダイニングがあり、入って直ぐ右手に対面式のキッチンがあった。広くは無いが、独身の女の一人暮らしには余りある部屋だ。

 しかし、何より竹山を驚かせたのは『臭い』が無いことだった。

 ──生活臭。

 そこに住んでいれば、必ずと言っていいほど何かしら臭いがある。しかし、この部屋にはそれが無かった。そして、殆どの現場に付き物である、死臭──、血や排泄物の臭いも殆ど無い。

 人間に限らず、動物がその生を終えた時、やがて全身の筋肉は弛緩し、血や、腎臓から排出された尿が体外へと流れ出す等の体液漏出を起こす事がある。それ故、病院等では亡くなった患者に対しエンゼルケアを行うのだ。

 鼻、口腔、肛門、膣等、可能性のある部分に綿を詰め、体液漏出を防止する。エンゼルケアを行わない限り、死体を移動させない限り、それがある場所について回る死の臭いのひとつと言っても過言ではない。

 なのに何故だ。この現場にはそれがない。死後間もなく、漏出を起こしていないと言う事だろうか。

「誰か、窓でも開けたん?」

「いえ」

 濱口も同じ事を考えていたようだ。渡辺の返事に首を傾げると言った。

「ホトケさんは失禁しとるんやろ?」

「はい。少量では有りますけど」

「ほぉん……。まあ、何人も玄関を開け閉めした所為なんかもしれんな」

 そうかもしれない。

 二人のやり取りを聞きつつ、竹山も無言のまま頷いた。

 LDKに入って左手、リビング側のソファの下で、女が仰向けに寝かされているのが目に入った。大まかな検視が終わった所なのだろう。その周囲を鑑識が取り囲み、捜査員が室内の捜索をしていた。

「宜しいですか」

 渡辺は手帳を開くと、竹山を見た。

「うん、ええよ」

「ええっと、被害者は上田茜、二十五歳。片町の──金沢の中心部にある繁華街ですが、そのクラブのホステスで、発見者は同僚のホステス川島理恵と、マンションの管理会社の社員で、吉田と言う男。そして、浅野川派出所の金尾巡査です」

「警官が一緒?」

「はい。順にご説明します」

 渡辺は竹山にそう言い置いて、短い時間で精一杯収集した情報と初動捜査の状況の説明を始めた。

「上田茜が勤務するクラブは、風適法から午前一時に閉店します。その後、店が贔屓にしているタクシーで帰宅。

 此方は既に確認が取れておりまして、同乗者等はいなかったそうです。

 到着は午前一時二十五分頃。タクシーの運転手が記録していました。また、同時刻に隣の住人がドアの開閉音を聞いている事から、間違いは無いと思われます」

 更に、渡辺の調べでは、その日の午前十一時半頃、茜は電話で、客と翌日、つまり今日の午後五時半に待ち合わせ、その後同伴出勤をする約束をしていたと言う事だった。

 すなわち、茜はその時間、客と話した時間まで生きていたと言うことになる。

 だが、約束の時間から一時間を過ぎても茜は現れず、連絡も取れない。すっぽかされたと憤慨した客は店に連絡を入れ、雑務の為、既に出勤していた数人の内、同僚ホステス川島理恵が、マンションまで様子を見に出掛けた。

 が、やはりインターフォンを押しても応答が無く、しかし携帯に電話を入れると、室内から着信音が流れて来た。

 それに不審を抱いた理恵は、室内を窺えないかとマンションの裏手に回った。

 茜の部屋は一階の三部屋ある内の中央に位置しており、部屋の裏手には、其々狭い物干し場と言えるベランダがある。そしてそこから1メートル程の間隔を置き、目隠し用の生垣が作られていた。

 渡辺は、窓の側に立って生垣を指差すと言った。

「理恵がその生垣を掻き分けるようにして此方を覗き込んだ所、部屋は真っ暗で、この掃き出し窓のカーテンが開け放たれており、そこからちょうど真正面に当たるこの位置──」

 言って渡辺は足元に置かれたナンバープレートを指し示した。

「ここに、人の手が見えたと」

 しかし、それがぴくりとも動かない上、生垣を揺すって音を立てても、声を掛けてみても何の反応も無い。

 理恵は心配になった。

 その時だ。パトロールに回っていた金尾巡査が、生垣から中を覗いていた理恵を不審に思い、声を掛けた。

 職質──。職務質問だ。

 理恵は事情を話し、金尾巡査も窓から見えた様子に異常を感じ、声を掛けたがやはり反応がない。

 そこで念の為、マンションに掛かっていた管理会社の看板を見て連絡し、急ぎ部屋の開錠を依頼したのである。

「けど、鍵を開けてみたらチェーンが掛かっていたんだそうです。なのに、中からは何の反応もない。ガラスを割るかと言った話になった所、管理会社がチェーンを切ることを提案し、直ぐにチェーンカッターでチェーンを切って入り、倒れている茜を発見しました」

「中に入ったのは?」

「金尾巡査と、管理会社の吉田です」

 濱口の質問に答える渡辺に、今度は竹山が聞いた。

「女は? 入らんかったんか」

「はい。流石にただならぬ異変を感じたのか、酷く動揺した様子だったそうで。女は外で待っていたそうです」

「で、今は?」

「病院です」

「病院?」

「余程ショックだったのか、過呼吸を起こしたんですよ。大事には至らなかったんですけど、一応病院に寄ってから事情聴取をと」

「ふぅん……。まあ、親しい間柄やったんなら当然か」

 そうは言ったものの、詳しい話を聞けるのは明日以降かと思うと、竹山は残念に思えた。

「ほんなら、ちょっとホトケさんでも拝んでもらうかな」

 そう言うと、濱口は手を上げた。

「斉藤!」

 濱口に呼ばれると、直ぐに青い作業服姿の若者が立ち上がり、歩を進めた。所属は聞くまでもない。鑑識だ。

「斉藤です」

 男はそう名乗ると、渡辺と同様背筋を伸ばし腰を折り、次いで濱口に敬礼をした。

 警察は時に理不尽なほどの縦社会だが、石川県警、特に濱口のチームでは、少々意味合いが違うようだ。若い捜査員は皆、実に礼儀正しい。しかし、昨今見受けられる教育――否、洗脳にも似た調教から出る、白々しく見え透いた慇懃さは見受けられず、純粋な上司に対する尊敬の念や忠誠心を竹山は感じた。

 ふと隣の濱口を見る。

 部下の二の腕を軽く叩き労うその表情に、警視庁で目にする出世レースの馬のようなギラギラとした邪欲はない。

 出会って間もない頃、おでん屋で酒を酌み交わしながら、上の連中の利己で固めたピラミッドの一端を担うのは御免だと、しっかり繋がれながらも、輪として存在する数珠のような警察を作りたいのだと言っていたのを思い出す。

 濱口はゆっくりと、実現の為に必要な階級を上げ、自身の理想とする警察を、チームを作り上げて来たに違いない。

 それに引き換え自分はどうだ。

 上の没義道に反発を覚えながらも、長い物に巻かれて来た。警察社会が望むサツ官だ。

 勿論、昇進の代償として心を売る連中ほどは腐っちゃいない。

 だが、三十余年の間、死臭が染み付くほどに仕事に明け暮れ、いつの間にか理想を忘れた自分に、今更ながら気付き、愕然とした。

 ヤマを追う自分は、最早訓練された犬だ。

「警視庁の竹山警部や」

 拳を握る竹山の耳に友人の声が響き、顔を上げる。若い鑑識の目が、竹山を真っ直ぐに見ていた。あの頃の自分と同じ、正義と理想に燃える目だ。

「存じてます。竹山塾の──」

「竹山ジュク?」

 言って目を丸くする竹山に、斉藤はすみませんと言うと、おずおずと、それが竹山の鑑識チームの密かな呼び名である事を明かした。

「警部が率いておられる鑑識チームは、僕ら地方の鑑識の間でも有名で。警部のチームへの研修は、入塾と言われてるんです」

 初耳だった。警察学校で臨時の講師をした事で、先生などとからかわれた事はあったが、自身が率いるチームがそのように称されているなどとは。

「皆、一度は警部の指導を受けたいと思っていて……。だから、今日は本当に光栄です」

 斉藤は照れ臭そうに小鼻の脇を掻くと、ぺこりと頭を下げる。そんな斉藤の頭を掻き回すと、濱口は言った。

「折角の機会や。勉強や思て、お前の見立てを聞いて貰え」

「は、はい。宜しくお願いします!」

「あ……。あの、いや。此方こそ」

 呆気にとられていた竹山は、背筋を伸ばす若い鑑識に、慌ててぎこちない敬礼を返した。

「……竹ちゃんはスゴイな」

「ハ?」

 突如掛かってきた携帯電話に応対する斉藤の背中を、スラックスのポケットに手を突っ込み、ぼんやりと眺めながら呟く濱口の言葉に、竹山は驚いて聞き返した。

「何がや」

「何がて。目指す自分に到達したがいや」

「…………」

「ほら、昔おでん屋で飲んだ時ィ」

 ハッとした。あのおでん屋で夢を、理想を語ったのは濱口だけではなかった。


『俺は、上の連中の私欲の一端を担う駒になるんは嫌や。なんちゅーかな。数珠みたいな。繋がり、連なりながらも、輪として存在する数珠のような警察を作りたい』

『チームやな』

『うん。チームや。竹ちゃんは?』

『おれか? おれは……そやな。組織に使われる道具としての鑑識やなくて、捜査の一端を担う、必要とされる鑑識になりたいねん』

『竹ちゃんならなれるやろ』

『買い被り過ぎやで、濱ちゃん』

『そーか? んじゃ、約束しようや。お互い、理想を実現させよう』


 ──約束やで。


「今の竹ちゃんは、まさしくそうや」

「濱ちゃん、ワシは……」

「あいつらには竹ちゃんの事同志やとか言うとるけどな」

 濱口は、竹山の躊躇いがちな声に被せると、後頭部を掻きながら、微笑とも苦笑ともつかぬ微苦笑を浮かべ言った。

「俺はいっつも、竹ちゃんの背中を追っとったよ。未だに追いつかんけどな」

「濱ちゃん……」

 盟友とは、肩を並べる事だと思っていたが、思い違いだったようだ。

 竹山はニカッと笑うと、濱口の背を叩いた。霧が晴れたような、窓の曇りが取れたような爽快さだった。

「そりゃしゃーないわ。ワシもアンタの背中を追っかけとんやから」

 そう。自分も潜在的に濱口の背を追い続けていた。盟友とは、直線上を抜きつ抜かれつするのではなく、誓いと言う輪の上で互いに背中を追い続ける事。きっとそれが盟友の、自分たちの有るべき形なのだ。

 竹山と濱口は、改めてがっちりと互いの手を握った。

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