第2話 遭遇
ひがし茶屋は、古い店や住宅に挟まれた細い道を抜けた所にあった。昭和初期の面影を残す、床屋と云うよりも「バーバー」と表現したくなるような店の前にある、ちょっとした広場がスタート地点となっている。
そこから真っ直ぐに伸びた通りがメインストリートらしいが、思いの他短く、竹山は少々ガッカリした。
それでも和小物や金箔製品、手ぬぐいに香の類の小間物を物色するのに、須美子は忙しい。
また、一本裏通りに入ると、穴場的な店がいくつかあり、竹山はその中のひとつで、とんぼ玉のストラップを購入した。少々値が張ったが、普段掛けない所に金を掛けるのも旅行の醍醐味だ。現実離れ。夢心地とでも言おうか。
だが、程なく竹山はその浮き立った足を引き下ろされる事になる。
それは、午後八時半を過ぎた頃。
メインストリートの突き当たりに程近い料理屋を出た竹山と須美子が、『梅の橋』を通って帰ろうと、一本奥の道へと入った時だ。突如竹山の眼前を、数台のパトカーと覆面車両が通って行ったのである。
「あっ、お父さん!」
竹山は走り出していた。それはもう脊髄反射と言うに等しい。
余所のシマを荒らす気は更々ないが、体に染み付いたものが、竹山の足を動かしていた。
荒い息を吐き、駆ける竹山には赤色灯以外何も見えない。ただ闇雲に足を動かし、見慣れた白と黒を追った。
この周辺は道幅が狭く一方通行になっている。その為、パトカーの速度もさして速くはなかった。お陰で、竹山は車両を見失う事無く、梅の橋に程近い小さなマンションの前に辿り着いた。
周囲は密集した住宅街だった。だからだろう。パトカーが何台も到着したことでマンションの周りは騒然としており、何事かと集まった野次馬だらけだった。
「ちょっとすんまへん。通して」
つっかけを履いた野次馬達を掻き分け、竹山は前へ前へと進んだ。気温がぐっと下がっているにも拘らず、額からは汗すら流れている。
そしてやっとの事で最前列の人垣から顔を突き出した時だった。
「ありゃっ! 竹ちゃん?」
そう言って人垣から生えた竹山の顔を、現場保存用テープの向こうから凝視する男と目が合った。
「うぉっ? 濱ちゃん!」
竹山も目を剥き声を上げる。
紺色の背広に不似合いなファー付きの作業ジャンパー。街灯の心許無い灯りでも分かる、竹山に負けず劣らずの色黒の顔に銀縁の眼鏡。そして、広い……いや、本来は広くはなかったのだろうが、前髪が後退して面積が広がったと思われる額。
石川県警本部捜査一課で、第一班を率いる濱口義信だ。
「どぉしたんや? ああまあ、ちょっとこっちいらっし!」
濱口は、竹山の痩せた体を人垣から引き抜くようにして、引き上げたテープの内側に入れた。
「はー。助かった」
四方から掛かる圧力から開放され、竹山は両膝に手を突き息をつく。その背中をパンパンを叩くと、濱口は嬉しそうに言った。
「いやあ。ひっさしぶりやなあ。元気しとったかいね?」
「おう、お陰さんで。濱ちゃんも元気そうやな」
「元気も元気。死んどるがは毛根だけや」
「ハハハハハ! 確かに酷いわ!」
「…………」
「冗談やがな」
「分かっとるけど、ほんにしてもちょっこし『そんな事ねぇ』とか言うてくれま」
「堪忍、堪忍。根が正直に出来てんねん」
「でも、そぉれは関係ねぇ!あっ、そぉれは関係ねぇ!」
「はい、亀田のおっかっき~!」
「ナウイな、竹ちゃん」
「濱ちゃんこそ。まだまだヤングやで」
二人はがっしり手を握り合うとニヒルな笑いを浮かべた。多少の間違いも適当も、還暦を目の前にした二人には関係なかった。
濱口と竹山は既に二十年近い付き合いがある。
当時、石川県警が指名手配していた殺人犯を警視庁が別件で逮捕し、移送の為に濱口が警視庁へ遣って来た。その際、たまたま休憩室で竹山が読んでいた釣り雑誌に興味を示し、濱口が声を掛けたのが最初である。
互いに釣りキチだった事で意気投合し、以来、公私共に尊敬し合う間柄だ。
「で、どないしてん。これ」
「ああ、若い女のまんじゅうが見付かってなあ」
まんじゅうとは警察用語で言う所の『死体』である。濱口は後頭部を掻くと作業ジャンパーの肩を竦め、竹山はやはりとひとつ頷いた。
何しろ濱口率いる一班は、殺人や傷害など、人の生命に関わる犯罪の捜査を専門としているチームだ。その班長である濱口が現場に出張って来たと言うことは、当然そこにまんじゅうが転がっていると言う事になる。
「濱口警部!」
「おう、今行くわ!」
マンションの狭い入り口から声を掛ける若い刑事に手を挙げ応じると、濱口はどうやと竹山の二の腕をポンと叩いた。
「見てかんけ?」
「何を?」
「何をて。現場や、現場。ウチの鑑識はまだまだケツが青いんや。勉強さしてやってま。それに──」
濱口は口元を歪めると、ポリポリと顎を掻いた。
「正直、ちょっと困っとるんや」
「困っとる?」
「まあ。俺も出張ったばっかで、詳しい報告はこれからなんやけど」
濱口はそう言い置いてから、事案が密室殺人らしいと零した。
「ハァ?」
竹山はカメのように首を伸ばすと、今度は苦笑を浮かべて手刀を振った。
「有り得へん。コロシに密室は有り得へんで。濱ちゃん」
「いや~、俺もそう思っとったんやけど」
言って濱口は溜息をついた。十二月も終わろうと言う冷え切った夜。濱口の困惑は、白い息塊となって形を成した。
「そう思っとったけど、実際起きとるっちゅうんやさけ困っとる。ほやし、現場見て、竹ちゃんの意見を聞かして欲しいげんちゃ」
頼むわ。濱口はそう言って手を合わせる。
鑑識としての竹山の血が、ざわざわと騒ぎ出した。
コロシ──。
密室──。
濱口は優秀な刑事だ。だが、やはり密室は有り得ない。必ず何処かにトリック──否、見落としがある。
そう。全ての解は現場にあるのだ。
「濱ちゃ──」
「お父さん!」
聞き慣れた声に、友人の肩へと延ばした竹山の手が止まった。
振り返ってみれば、野次馬の中から、妻の須美子が飛び上がっては手を振っているのが見える。
「あ……。忘れとった」
「ありゃ? 奥さんけ?」
「うん。実は、旅行で来たんや。ちょっと待ってな」
竹山は慌てて人垣の方へと走り寄ると、濱口が自分を引き抜いたように、妻の腕を取って引いた。
「エライ人やね」
「あ、うん……」
はーっと息をつく妻を、竹山はバツが悪そうに見下ろした。
折角の誕生日プレゼント旅行だと言うのに、パトカーを追って以降、妻の存在をすっかり忘れていた。
「や、あの、カアちゃ……」
「お父さん」
何とか言い訳せねばと口を開いた竹山は、妻の凛とした声に言葉を飲み込んだ。
須美子はバッグを両手で持ち、上目で竹山を見上げてくる。
怒っている。竹山は直感した。
思えば結婚して以来、何度となく仕事を優先して家族との、何より須美子との約束を反故にしてきた。
また今度。そう言っては須美子を後回しにした。だからこそ、この旅行中はその償いをせねばと思っていたのに、またしてもやってしまった。
「あの……」
「どうぞ」
「え?」
「どうぞ。私、温泉入ってますから」
そう言う須美子の表情は、竹山の予想に反してとても嬉しそうだ。
そして、呆気に取られている竹山をくるりと現場の方へと向けると、その背を押す。
「おい、ちょっ……」
言いかけた竹山の顔が、夜目にも分かるほどに赤くなった。
竹山の背中で、須美子がぽそりと言った言葉に、年甲斐も無く狼狽してしまった。
──お父さん。現場に立つと、凄くカッコイイんやね。
「ほら、頑張って」
須美子はパンと夫の背を叩くと、唖然としている濱口に深々と頭を下げ、また後でと言い残して野次馬の中へと戻って行った。
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