第5話 その頃の須美子
「ハー……」
褐色の湯に体を沈めると、須美子は満足気に息をついた。
人のまばらな大浴場の、ぬるりとした湯は柔らかく、底から上がる気泡が心地よく肌を刺激して、旅の疲れを癒してくれる。
「極楽、極楽」
須美子は、誰にも聞こえないよう小さく呟くと、浴槽の縁にもたれた。
ホテルはまるで温泉宿のようだった。しかしそれは、円形の浴槽を埋めているのが温泉であると言う事だけでない。
客室フロアには、通常のエレベーターとは別に大浴場行き専用のエレベーターがもう一基あり、それを使えば、ホテルでありながら、温泉宿と同様、部屋着や浴衣で部屋と大浴場を行き来出来る造りになっていた。
湯上がりに体を締め付けたくない須美子にとって、有難い配慮だ。
浴室は、パンフレットで見た写真より小さく感じたが、サウナがあったり、シャンプー、コンディショナー、石鹸に基礎化粧品に至るまで、何から何まで備え付けられていたりと、文字通りの至れり尽くせり。ここへはタオル一本持ってくる必要もない。
「ホンマ贅沢やわ……。お父さんに感謝せな」
浴槽に食い込むように造られた水風呂から、手杓で掬い上げた水でほてった顔を冷やすと、須美子はぽつりと言い、ぼんやりと現場に立つ夫を思い出した。
ほんの一瞬ではあったが、現場に立つ夫を見たのは初めてだった。
確かに自分の夫であるのに、現場で刑事らしい男と話す夫が知らない人のように見え、なんだか顔を見るのが気恥ずかしくさえあった。
きっと、あれが警視庁鑑識員、竹山誠吉警部なのだろう。
須美子の心に、初めて夫と出会った頃の新鮮な気持ちが甦った。と同時に、仕事仕事で、いつも後回しにされてきた事を思い出す。
新婚旅行以降、旅行はいつも計画倒れだった。父兄参観や運動会に夫が参加出来た試しはなく、正月に家族が揃った年は一体何度あっただろう。
両親が揃っていながら、子供達は母子家庭のような子供時代を過ごした。
また今度。互いに今度が来ないと分かっていながら、いつもそんな約束をした。
いつしか、口癖のようなものだと割り切っていた。
それでもきっと、子供達は父親を尊敬していたに違いない。その証拠に、娘は警官に嫁ぎ、息子は科捜研に籍を置いた。
単に、蛙の子は蛙だったと言う事かもしれないが、ひょっとしたら、父親の本質と仕事の崇高さを、母親以上に理解していたのかもしれない。
須美子は顔を拭うと目を閉じた。
ようやく叶った旅行だと言うのに、夫はまたしても事件に飛び込んで行ってしまった。
しかし今、須美子はそんな夫が誇らしかった。
「ホント……。来て良かった」
心からそう思った。
後で子供達に電話しよう。お父さんがカッコ良かったなんて言ったら、惚気だと馬鹿にされるだろうか。
それとも──。今更だと笑われるだろうか。
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