第27話 受け継がれるもの
久志彦と太田教授は、保育器の中にいる赤ちゃんの様子を見に、夕方の病院にやってきた。外来の診察は終わっているので、院内は閑散としている。
ガラス越しの、早産で生まれた小さな赤ちゃんは、昨日より血色が良いように見えた。起きているのか、寝ているのか、よくわからなかったが、ときどき、手や足を動かしている。小さな命が懸命に動いている姿に、久志彦は何とも言い表せない感動を覚えていた。
夕陽のオレンジ色のやわらかい光が、廊下に差し込んでいる。そこには男二人がニヤニヤしながら、黙ったまま並んで立っている。ガラスの内側から見れば、異様な光景に見えたかもしれない。
二人の存在に気づいた看護師が、慌てた様子で近づいてきた。昨日、ミホコが妊婦健診に来たときの様子を教えてくれた看護師だ。
「こんにちは」と声をかけたが、軽く会釈をするだけで、強張った表情をしている。
「あの、実は」と話し始めた看護師は、昨日とはまったく違う緊張感を持っていた。
「こういったことは初めてなので、過去の症例を調べたり、他の病院の先生にも聞いてみたんですけど、原因がよくわからなくて。もしかすると、非科学的なことが原因かもしれないと言う人もいて」看護師が何を言いたいのか、まったく要領を得なかった。
「何があったんですか?」久志彦は、生まれたばかりの赤ちゃんの身に、何か大変なことが起こったのではないかと心配になった。
「実は、住吉さんのお子さんの背中に、記号のようなものがあるのを、今朝になって気づきました。昨日は何もなかったと思うのですが、ちゃんと確認できていなかったのかもしれません」看護師の説明は、だんだんと声が小さくなり、責任を感じているようだった。
「あっ、そうか。そのことを、すっかり忘れてた。ミホコが亡くなったから、この子が受け継いだのか。たしかに、そうなる、そうなるよな」
久志彦は、ミホコの背中に現れた『アワウタ』のヲシテ文字を思い浮かべていた。ばあちゃんが亡くなった後、久志彦が受け継ぐだろうと予想していた、陶邑家当主の妻の試練だ。
確か、ばあちゃんの葬式の翌日に、ミホコの背中にヲシテ文字が現れて、ミホコが妻になるのかと勘違いしたのだ。あのときは『アワウタ』の前半が先に現れて、その翌日に、残りの後半が現れたはずだ。
「赤ちゃんに、例のアレが現れたのか?」太田教授が小声で聞いてきた。
久志彦が「はい」とだけ答えると、
「女性の方のアレは、実物を見ていないんだよ。赤ちゃんのは見られるかな?」
太田教授は、ミホコから報告は受けたようが、実際には見ていないらしい。
「赤ちゃんの背中を見ることはできますか?」
あの小さな体に、どのようにヲシテ文字が現れているのか、久志彦も実際に見てみたいと思った。
「保育器に入っているので、今すぐに背中を見せるのは難しいですけど、写真ならあります」そういって、看護師はスマートフォンを取り出して、今朝撮ったという写真を見せてくれた。小さな背中の右半分にびっしりと、ヲシテ文字がきれいに並んでいた。たしかに『アワウタ』の前半部分だった。
「体の大きさに合わせて現れるんだな。明日の朝には、残りの半分も現れるのか?」
太田教授が久志彦に尋ねた。
「はい、おそらく、そうだと思います」久志彦がミホコの背中を見せてもらったときは、すでに『アワウタ』は完成していた。ミホコは、二日に分けて現れたと説明していたはずだ。
「あのー、この背中の記号のようなものについて、お二人は何かご存知なのですか?」看護師が、小声で会話する二人に、遠慮がちに尋ねてきた。
「ああ、そうですね、ちゃんと説明した方がいいですね。といっても、理解できるように説明するのは難しいけど。簡単に言えば、遺伝のようなものといえば、わかりやすいかもしれない。だから、病気や呪いではないので、心配しないでください。軽いやけどのような状態なので、熱は持っているかもしれません。冷やしてあげるのは良いと思いますけど、本当のやけどではないので、治療する必要はないと思います」
「よくわかりませんが、治療の必要がないなら、とりあえずは安心です。こんな症例は見たことがないし、もし、呪いか何かだったら、どうしようって朝から大騒ぎだったんです」看護師は見るからに安堵している様子だった。
「明日の朝には、左半分にも現れると思いますので、そのつもりでいてください。それと、このことは、できれば口外しないでください。ところで、その写真はあちこちに送りましたか?」
「いえ、知り合いの先生に送っただけです。知っているのは、ここのスタッフとその先生だけです」
「そうですか、写真は絶対に拡散せず、削除してください。そして、これからは見て見ぬふりをして、話題にもしないでください。この子のためだけでなく、あなたのためでもあります。世の中には『知らない方が幸せ』ということがあります。私たちのように命を狙われたくなかったら、できれば忘れてください」
「命を狙われるなんて、冗談ですよね?」
看護師は、久志彦がからかっていると思っているのか、半笑いだった。
久志彦は、静かに首を横に振って、じっと看護師の目を見つめた。
「信じるかどうかは、あなたに任せますが、あなたの行動次第では、この子が危険な目にあうかもしれない。どうか、この子を守ってください」
「わかりました」看護師は、まだ半信半疑のようだったが、久志彦の真剣な眼差しを重く受け止めてくれたようだった。
「住吉社長にも、念のため、釘を刺しておいた方がいいかもしれんな。変なことにならないように、うまくやっておくよ」
太田教授はかなり自信があるようだった。住吉社長に頭が上がらないように見えて、うまくコントロールしているのかもしれない。
「ところで、赤ちゃんの名前はもう決まりましたか?」
雰囲気を変えたかったのか、看護師が明るい声で尋ねてきた。
「そういえば、名前のことは何も考えてなかったですね。僕たちで決めてしまってもいいのかな」
「この子にふさわしい名前を考えるのも、育ての親の役目だろうな」
太田教授にそういわれて、久志彦は育ての親になる責任を改めて感じた。
陶邑家には、先祖の名前を受け継ぐという伝統がある。『ミホコ』は三穂津姫(みほつひめ)から取った名で、神話では大国主神(おおくにぬしのかみ)の后とされる。『ホツマツタヱ』では、コトシロヌシ(事代主)と呼ばれた『クシヒコ』の妻だ。
出雲の美保神社は、神話から、事代主と三穂津姫は義理の親子であると説明している。しかし、『ホツマツタヱ』の解釈では、二人は夫婦だ。だから、久志彦は、ミホコの背中にヲシテ文字が現れたとき、二人が結ばれる運命にあると考えた。
久志彦とミホコの母の名は『タケコ』という。『ホツマツタヱ』に登場する『クシヒコ』の母も『タケコ』なので、先祖の名をそのまま受け継いでいる。その流れで、赤ちゃんの名前を決めてしまっていいのだろうか。
「住吉さんの手帳に、赤ちゃんの名前について、何か書いてないのか?」
悩んでいる久志彦を見かねて、太田教授がアドバイスしてくれた。
「そうですね。ミホコが名前を決めていたのなら、その名前にするべきですよね」
久志彦は、少し救われたような気がした。ミホコが赤ちゃんの名前を考えていたことを期待しながら、ミホコの手帳をゆっくり開いた。
ミホコの手帳は瀬織津姫の研究ノートと、日常的な記録も兼ねているようだ。しかし、どのページも覚え書きのようで、文章になっていないので詳細がわからない。双子でも、一緒に過ごした時間が少ないので、手帳に書いてあることを理解するには時間がかかりそうだ。
ページをめくっていくと、『廣田神社=本宮、六甲比命神社=奥宮、磐座はウサギ(月の象徴?)』など、興味深いことが書かれている。じっくり読みたいところだが、赤ちゃんの名前について書いていないか、さらにページをめくる。
手帳の半分を過ぎたあたりで、『ホノコ、ほの子、穂乃子、穂ノ子、歩ノ子』と書いてあり、カタカナの『ホノコ』に、二重丸がしてあった。『ホノコ』とは「瀬織津姫」が生まれたときにつけられた本当の名前で、「セオリツヒメ」と呼ばれたのは成長してからのことだ。
「セオリツヒメ」が生きていたのは、漢字が伝来する前の時代だ。「瀬織津姫」と書くようになったのは、日本で漢字が使われるようになってからということになる。つまり、漢字は当て字であって、「セオリツヒメ」自身がそう書いていたわけではない。「姫」を「比売」と書くことがあるが、初めは一音に一字の漢字を当てていたからだ。
その意味では、漢字の意味や画数を考えて命名するのは、縄文時代から続く日本人の価値観や国民性とは違うのかもしれない。
ホツマツタヱでは、ヲシテ文字のふりがなにカタカナを使うことが多い。漢字やひらがなで『ホノコ』をいくつも書いてあるのは、ミホコが生まれてくる子どもの名前を『ホノコ』と決めて、どう表記するか考えていたのだろう。
漢字やひらがなで書くことも検討した上で、やはり、カタカナで書くのがいいと思って、二重丸をしたのだろう。それは、双子じゃなくても理解できる。ミホコが赤ちゃんに遺したものを見つけられて良かったと、久志彦は胸をなでおろした。久志彦が独断で名前をつけて、後からこの『ホノコ』に気づいていたら、後悔してもしきれなかっただろう。
看護師に名前を決めたことを伝えると、「こちらに書いてください」といって、名札用の紙とペンを手渡された。
久志彦が『ホノコ』と書いて、看護師に渡すと、
「ホノコちゃん、かわいらしい名前ですね」といって微笑んでくれた。
「母親が遺してくれた名前なんです」
「最高のプレゼントですね」
「はい、そうですね。母親とはもう会えないけど、お母さんがつけてくれた名前だって、いつかホノコにも、ちゃんと伝えようと思います」
もちろん、ホノコには、毎日、子守歌を歌って聞かせる。陶邑家の代々の母親たちが、子どもに歌って聞かせたように。
了
陶邑家当主の知られざる過酷な試練 @tataneko
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