第26話 廣田神社

廣田(ひろた)神社は、兵庫県西宮市大社町にある。駅前の雑踏からは距離があるため、周辺は静かで緑が多く、日常生活で疲れた心を癒してくれる。きっと、ミホコもここに来て、心のリフレッシュをしていたのだろう。


境内は神聖な雰囲気がありながら、慈愛のエネルギーに満ちている、と久志彦は肌で感じていた。祭神は、天照大神(あまてらすおおかみ)の荒御魂(あらみたま)になっているが、荒々しい雰囲気や強烈なエネルギーは感じられない。


『ヒロタ』は、ホツマツタヱの冒頭にその地名が登場する。歴史からその名が消されてしまった『ワカヒメ』についての記述がある。『ヒロタ』は『ワカヒメ』が育った地で、西宮神社と越木岩(こしきいわ)神社は、『ワカヒメ』を祀っていると考えられる。


その謎を解く鍵が「蛭子」という神様の名だ。一般的には「えびす」と読む。しかし、『ワカヒメ』が生まれたときの名は『ヒルコ』という。「蛭子」を文字通り読めば『ヒルコ』となる。


神話では「いざなみ」が流産した子を「ひるこ」としているが、ホツマツタヱでは、その子は『ヒヨルコ』としている。


ホツマツタヱの『ヒルコ』は、イサナギ、イサナミ夫婦にとって、初めての子どもだが、「アメノフシ」という現代の厄年に当たる風習にしたがって、形式的に捨て子にされている。


すぐに、カナサキという人が拾い上げて、育ての親になっている。あくまでも形式的なので、実際には養女として育てたということだ。捨て子を拾ったから、地名を『ヒロタ』にしたという解釈もある。


成長した『ヒルコ』は『ワカヒメ』と呼ばれ、アマテルカミ(天照大神)の妹として皇室に復帰して、イサナミやムカツヒメを支える存在として活躍している。天野の里の丹生都比売(にうつひめ)神社は、神話には登場しない天照大神の妹神を祀っているが、丹生都比売大神とは、この『ワカヒメ』のことだと考えられる。


『ワカヒメ』とのつながりを考えれば、陶邑家にとっても、『ヒロタ』はゆかりの地といえる。久志彦は、陶邑家当主の試練をきっかけに、ホツマツタヱの研究を続けているので、神話には登場しない神様についても理解を深めている。ミホコも、ホツマツタヱの本を読んでいたので、『ワカヒメ』や『ヒロタ』について知っていたのかもしれない。


ミホコと初めて一緒に参拝したのが、丹生都比売神社だった。あの頃は、体に現れたヲシテ文字と、陶邑家当主の試練のことで頭がいっぱいだった。ミホコと双子の姉弟だということも知らなかった。ミホコと過ごした時間はあまりにも短く、姉であることを意識して接した時間はさらに短い。


久志彦は、境内をゆっくり進んで、拝殿の前で手を合わせた。そして、ミホコの手帳と、最期まで握りしめていた御守りを、神様に見せるように手に持って、ミホコが亡くなったことを奉告(ほうこく)した。


御守りが役に立たなかった、と文句を言うつもりだったが、拝殿に来るまでに、悔しさや悲しみは、かなり治まっていた。それらの感情は、決して無くなったわけではない。しかし、過去よりも未来に目を向けて、早産で生まれた赤ちゃんが、無事に成長してくれることを願った。


太田教授も、久志彦のとなりで、真剣に祈りを捧げていた。思いや願いは、久志彦と同じだろう。研究一筋で、頭では信仰を理解していても、信仰心は持っていないと思っていた。実の娘と息子に出会い、血のつながった新たな命が誕生して、太田教授も心境の変化があったのかもしれない。


久志彦が社務所に行くと、若い男性の神職がいた。久志彦より少し年上に見える。声をかけた久志彦に笑顔で応対し、さわやかな好青年という印象を受けた。


「御札を返したいのですが」久志彦がそう尋ねると、

「はい、こちらでお預かりして、お焚き上げさせていただきます」


「御守りもお願いできますか?」

「はい、構いませんよ」若い神職はやさしい笑顔で答えてくれた。


久志彦は、「お願いします」と言って、ミホコの部屋にあった御札と御守りを神職に手渡した。しかし、すぐに久志彦は「やっぱり、御守りは持って帰って、形見にします」と伝えて返してもらった。


「失礼ですが、形見ということは、ご不幸があったのですか?」

若い神職が心配そうに尋ねてきた。


久志彦は説明するべきかどうか、少し迷った。しかし、ミホコは廣田神社と特別なつながりがあったのだろうと思って、亡くなった経緯や、赤ちゃんは無事だったことを詳しく説明した。


悲痛な面持ちで聞いていた若い神職は、久志彦の手元に視線を落として、

「その手帳は、もしかすると住吉さんのものですか?」と尋ねてきた。


「ミホコをご存知ですか?」


「はい、何度かお会いして、この神社や神様について、説明させていただきました。私の話を熱心に聞きながら、その手帳にメモされていたのを、よく覚えています」


「そうでしたか。やはり、瀬織津姫の研究を続けていて、この神社には、何か特別なつながりを感じていたのだと思います」


「熱心に参拝されて、御札や安産祈願の御守りもお持ちだったのに、とても残念です」若い神職は、ミホコが亡くなったことに責任を感じている様子だった。


「きっと、神様でも変えられない運命だったと思います。ミホコとはしばらく会っていなかったので、知っている方にお会いできて良かったです。ありがとうございます」


久志彦は神職を気遣って、そう言ったのではなく、本当に心から感謝していた。この神社に参拝して、神様に癒され、若い神職の温かい心に触れて、ミホコが亡くなったことを、ようやく受け入れられたような気がしていた。


若い神職は、目に涙をためていた。感受性が強く、神社に参拝する人の心に寄り添っているのだろう。立ち去る久志彦に向かって、いつまでも深々とお辞儀をしていた。久志彦は、ミホコがこの地で人とつながりを持ち、幸せを感じた瞬間もあったのだと感じて、心が熱くなった。



「先生、病院に寄って、赤ちゃんの様子を見に行きましょう」

久志彦は、無性に赤ちゃんに会いたくなっていた。


「そうだな」疲れた様子だった太田教授の表情が、一気に明るくなった。

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