第25話 聖地「ヒロタ」

翌日、久志彦と太田教授は、太田教授の車で再び西宮市(にしのみやし)の廣田(ひろた)に向かった。ミホコが住んでいた部屋を整理するのだが、母子手帳に書かれた住所しかわからない。


太田教授の愛車の古いカーナビでは、母子手帳の住所の周辺までの案内が限界で、そこからはスマートフォンの地図アプリで検索して、何とか住所の場所にたどり着いた。


ミホコは社長令嬢として育ち、かつては大きな屋敷に住んでいた。そのため、それなりに立派なマンションに住んでいたのだろうと、二人とも思い込んでいた。そのせいでミホコが住んでいた場所を、なかなか見つけられなかった。住所を何度も確認して、ようやく見つけたのは、貧乏学生が住んでいそうな、かなり老朽化したアパートだった。


錆びた鉄製の階段を上がった目の前の、202号室がミホコの部屋だった。部屋のドアの横、部屋の外に洗濯機が置かれている。若い女性が住むようなアパートには、とても見えなかった。


久志彦は、ミホコのバッグに入っていた鍵をポケットから取り出して、鍵穴に差し込んだ。鍵を回すと、あまり手応えがないまま回り、カチャリと軽い音がした。簡単に壊せそうな鍵で、お嬢様育ちのミホコが住んでいたとは、ますます信じられなかった。


部屋の中に入ると、キレイに片付いているなと最初は思った。しかし、よく見ると、あまりにも物が少なくて、片付いているように見えたのだ。タンスもベッドもなく、部屋の中には小さな机と布団があるだけで、生活感があまりなかった。


押入れを開けると、洋服が数着あったが、ブランド品やアクセサリーなどは見当たらなかった。すべてを捨てたミホコが、どれほど慎ましい生活を送っていたのか、久志彦はその暮らしぶりを目の当たりにして、涙が出そうになった。


「保証人がいないと、仕事も住む部屋も、まともな選択肢がなかったのかもしれないな」太田教授が、ため息交じりにそういった。


久志彦は狭いキッチンも確認したが、小さな冷蔵庫とトースターがあるだけだった。それらもかなり使い込まれたもので、リサイクルショップで買ったか、誰かにもらったものかもしれない。


殺風景な部屋の中で唯一目立っていたのは、廣田神社の御札だった。部屋の隅の鴨居に小さな板を乗せただけの簡単な神棚に、御札が立ててあった。


太田教授は、机の上に置かれていた手帳を熱心に読んでいる。

「先生、亡くなったとはいえ、勝手に手帳を見るのは良くないですよ」


「たしかに、住吉さんに怒られるかもしれないが、空白の2年間を知るためには仕方ないだろう。それに、とても興味深いことが書いてある。どうやら、住吉さんは瀬織津姫(せおりつひめ)の研究を続けていたようだ」


「そうか、だから廣田に住んでいたんですね」


「どういうことだ?」


「ここ廣田は、『ホツマツタヱ』では、瀬織津姫の聖地なんですよ。夫のアマテルカミ、つまり天照大神(あまてらすおおかみ)から、ヒロタに行って、女性を守るように言われています。おそらく、亡くなった後は女性の守り神になりなさいという意味だと思います」


「たしか、『ホツマツタヱ』では、天照大神は男性で古代の天皇、そして、瀬織津姫はその妻で、皇后だったという話だね」


「はい、その通りです。一般的には瀬織津姫は『大祓詞』(おおはらえのことば)という祝詞(のりと)にしか登場しない謎の女神とされています。しかし、『ホツマツタヱ』には、瀬織津姫が皇后として活躍されたことが書かれています。そして、皇后になった瀬織津姫は『ムカツヒメ』と呼ばれるようになりました」


「そういうことか、これを見てくれ」

太田教授は、開いた手帳の一部分を指差している。


そこには、『廣田神社の主祭神、天照大神荒御魂(あらみたま)、またの御名、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)』と書かれていて、『向津媛(むかつひめ)』に赤い丸が付けられていた。


「この長い名前が、廣田神社の神様のフルネームということですね。そして、その名には『ムカツヒメ』が含まれている。つまり、廣田神社に祀られているのは、天照大神の荒御魂ではなく、ムカツヒメと呼ばれた瀬織津姫であるというのが、ミホコの研究結果なんですね」


「それと、ここにも面白いことが書いてあるよ」

太田教授が指差したところには、『向津峰(むかつみね)→武庫山(むこやま)→六甲山(ろっこうさん、むかつやま?)』と書かれていた。


「向津峰というのは、ムカツヒメゆかりの峰で、それが現在の六甲山ということでしょうか?」


「おそらく、山の名前が時代とともに変わってきたということだろう。地名は、大昔から変わっていないところもあるが、多くは時代とともに変わっていくものだ。特に、漢字を音読みする地名は、訓読みから音読みに変わってしまったか、比較的、新しい地名か、どちらかといえる」


「じゃあ、この六甲山は、今は『ろっこうさん』ですけど、本当は訓読みだったということですか?」


「そうだ、この『武庫山』を簡単な漢字に置き換えたのが『六甲山』だとすれば、訓読みで『むこやま』と読むのが当時の地名で、その元になったのが『向津峰』(むかつみね)。つまり、ムカツヒメゆかりの山ということだろう」


「『むかつみね』が、いつの間にか『むこやま』になって、現代では阪神タイガースの応援歌『六甲おろし』でおなじみの『ろっこうさん』が定着したということか。何だか、伝言ゲームで伝え方を失敗したみたいな話ですね」


「音読みの方が言いやすいし、かつては漢文が正式文書だったから、訓読みから音読みに変わってしまうのは仕方がないよ。でも、住吉さんも書いているように『六甲山』を訓読みすれば『むかつやま』と読めるから、奇跡的に元の名に戻っているところが不思議だね」


「たしかに、瀬織津姫の何らかの意図を感じます。そろそろ、瀬織津姫の真実が世に広まっても良い時期だと、瀬織津姫ご自身が考えているのかもしれませんね」


「さらっと、スゴイことを言うね。神様の意図とか考えなんてものが、本当にあるのかね?」


「先生も、陶邑家当主の試練をやってみれば分かりますよ。先生には、その資格があると思いますよ」


「えっ、そうなのか?」


「そうですよ。先生が陶邑家に婿(むこ)入りしていたら、僕ではなく、先生が試練に挑んでいたはずですから」


「そうか、陶邑君の祖父もお婿さんだったな。私にもその可能性があったということか」


「ところで、先生、日が暮れる前に、とりあえず荷物を運び出しましょう。この荷物の量なら、先生の車で運べると思います」

議論している間に、1時間以上が経過していた。


「ついつい議論に夢中になって、本来の目的を忘れるところだったな。たしかに、引っ越し業者に依頼する量ではないな」


ミホコの部屋にあった荷物を、二人で車のトランクと後部座席に詰め込んだ。ミホコが、この地で生きた2年間の荷物が、乗用車に収まっているのを見て、久志彦は悲しくなった。


ミホコは、この廣田で幸せに暮らしていたのだろうか。子どもを授かっても、シングルマザーになる道を選んだのは、道ならぬ恋だったのだろうか。住吉社長のことは見て見ぬふりをして、大阪で暮らしていた方が幸せだったのではないか。今となっては、何が正解だったのかはわからない。せめて、ミホコが後悔していなければ、それでいい。


「あとは不動産屋に鍵を返して終わりだな」太田教授も、どこか寂しそうな顔をしていた。


「神社の御札は、神社に返した方がいいですよね?」


「そうだな、廣田神社にお参りして、瀬織津姫にご挨拶しようか」

珍しく、太田教授が信仰心のあるような発言をしたので、久志彦は驚いた。


「先生も、神様に挨拶するなんて言うんですね」

久志彦は、少し嫌味を込めて言った。


「私だって、普通の日本人の感覚は持っているよ。古代史の研究者として、懐疑的な見方をすることはあっても、神様を否定してはいないからね」


「信じているとは言わず、否定していない、というのが先生らしいですね」


太田教授は「そうかな」とだけつぶやいて、カーナビの目的地を廣田神社に設定すると、黙って車を発進させた。

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