第22話 家族の意味
久志彦は仕事を休んで、太田教授に会いに行った。時計台の建物は全焼したため、新しい校舎の空いていた部屋を研究室として使うことになったらしい。
太田教授は仲が良かった同級生に殺されかけた。そして、実の娘のミホコが姿を消してしまって、かなり落ち込んでいた。久志彦は太田教授を少しでも励ましたいと思って言葉を探したが、適当な言葉が見つからなかった。実の親子とはいえ、一緒に過ごした時間があまりにも短すぎる。
「ミホコから連絡はありましたか?」
結局、久志彦は気になっていることをストレートに尋ねた。
「いや、連絡はない。電話をかけてみたが、すでに携帯電話を解約しているようだから、こちらからは連絡の取りようがない」
「退職の手続きもしているようですね」
「そうなんだよ。とりあえず上司の私が退職手続きを保留にして、今は有給休暇にしてある。とにかく帰ってくる場所を残しておきたい。住吉さんが頼りにできる身内は私たちしかいないし、故郷と呼べる場所もないからね」
「そうですね。気持ちを整理することができたら、ふらっと帰ってくるかもしれませんね」久志彦は、ミホコが一時的になげやりになっているだけで、すぐに帰ってくると信じたかった。
「住吉さんは大人だから、そんなに心配することもないだろう。夏休みを取っていると思って、無事を祈りながら待つしかないよ。それより、陶邑君は大丈夫なのか?」
「僕ですか? たしかに、先生が命を狙われたことや、ミホコがいなくなったのはショックです。でも、僕自身はどうすればいいのか、正直なところ、自分でもよくわかりません」
久志彦は、自分の身を守るためにどうするべきか、いろいろなことを考えたが堂々巡りになるだけで、考えはまとまらなかった。
「そうだな、私もどうするべきか、よくわからないよ。研究資料は燃えてしまったから、再び命を狙われる可能性は低いと思うけど、決して安全ともいえない。いっそのこと、私も大学を辞めようかとも考えたけど、そうすると住吉さんが帰ってくる場所もなくなってしまうからね。とりあえず、住吉さんが帰ってくるまでは、ここで細々と研究を続けながら待つしかないと思っている」
太田教授は自分の身の安全よりも、父親として娘のために何ができるかを考えているようだ。久志彦も、ミホコが帰ってきたときに、天野の里の実家で生活できるように準備しておこうと思った。
翌日、久志彦が出社すると、上司からすぐに社長のところへ行くように言われた。上司からは、何か問題を起こしたのかと聞かれたが、よくわからないとごまかした。もちろん、社長の用件はミホコのことだろう。
久志彦は職場の南港から、すぐに本社ビルに向かった。住吉海運の本社ビルに社長室はない。もちろん、役員室もないし、各部署の部屋もない。本社ビルの2階は大きなワンフロアで、応接室や会議室以外に個室はなく、営業部や総務部など各部署の場所はある程度決まっているが、その間に仕切りはなく、いつでも、すぐに情報共有ができるようになっている。それが住吉海運の強みともいえる。
そして、フロアの一番奥に社長の席があり、入り口からも見えている。これは住吉社長が社員全員を家族のように考えていて、誰もが自由に社長に意見をいえる雰囲気を作るためだと日頃からよく話している。
久志彦が入り口のドアを開けて中に入り、フロアの奥に視線を向けると住吉社長と目が合った。社長は会議室を指差して、そちらに向かって歩き出した。久志彦もその会議室に向かって、フロアの端を真っ直ぐ足早に進んだ。
現場で働く久志彦がこのフロアに来ることはほとんどないので、フロアにいる社員の視線が久志彦に集まる。しかも向かっているのは社長が入った会議室なので、社長と何を話すのか、気になっているのが伝わってくる。
久志彦が会議室に入ると、すぐに社長から「ドアを閉めてくれないか」といわれた。これから話すことを他の社員には聞かれたくないのだろう。
「朝からすまないね。実は、ミホコが家を出たきり、帰ってこないんだよ。何か聞いてないかね?」
社長は心配しているというよりも、問題が起きて困っているという口振りだった。
「家を出るという連絡はありましたが、それ以降は連絡が取れていません」
久志彦はすべてを正直に話すかどうか迷ったが、まずは事実だけを伝えようと思った。
「どこへ行くとか、いつ帰ってくるとか、何か言ってなかったか?」
住吉社長にも心当たりはまったくないようだ。
「はい、何も聞いていません」
「そうか、陶邑君にも知らせていないのか。困ったヤツだな」
住吉社長は、やはり心配しているというより、呆れているという感じだった。
「社長は心配じゃないんですか?」
「ミホコも、もう子どもじゃないからな。書置きもあったし、自分の意志で家を出たのは間違いない。親としては帰りを待つしかないと思っている」
「書置きには何と書いてあったんですか?」
「家を出ます、探さないでください。それだけだ」
「私へのメッセージと同じです」
「そうか、メモみたいな書置きだったから、気分転換の旅行みたいな家出と思っていたが、短い文章だからこそ、決意の表れと考えた方がいいのかもしれんな」
「社長は、なぜミホコが家出したと思われますか?」
「白鳥大学の時計台が全焼したのは、私のせいだと思っているんだろうな」
「そうじゃないんですか?」
「もちろん、責任の一端は私にある。しかし、私が直接、誰かに指示したわけではないし、これほど大ごとになるとは想像もしていなかったよ」
「どうして、あんなことになったのか教えてもらえませんか?」
「それは私にもわからないよ。私は情報を伝えるだけで、それ以上でも、それ以下でもない。今までは、そう割り切って考えていた。しかし、今回は自分の娘も巻き込まれていたかもしれない。本心では関係を切りたいと思っているが、そう簡単なことではないんだよ。場合によっては、この会社が倒産して社員が路頭に迷うかもしれない。私の家族は妻とミホコだけではない。この会社の全社員とその家族が、私が守るべき家族なんだよ」
社長の苦悶の表情を見て、久志彦は社長を責める気持ちが失せてしまった。世の中は損得勘定だけではなく、複雑な事情が絡み合って微妙なバランスを保っていることを痛感した。
久志彦は、そのときにハッと気づいた。住吉社長にも身近な社内に監視役がいるのかもしれない。久志彦にドアを閉めさせたのは、その意味で話を聞かれたくなかったとも考えられる。会議室に入る前の久志彦に集まっていた視線の中には、監視役の目があったのかもしれない。
久志彦は今まで、住吉海運は家族のような温かい会社だと思っていた。しかし、それは上辺だけで、本当は暗い闇を抱えているのかもしれない。久志彦は会社にいることが、急に怖くなってしまった。もう誰も信じられない。ミホコが姿を消した気持ちが、久志彦にも、ようやくわかってきた。
住吉社長は、おそらく本音で話してくれていると思う。でも、常に味方というわけではない。社長には悪意がなくても、何を優先するかで、誰を守るのかも変わるのだろう。
社長は家族と考える社員を守るために、本当の家族を犠牲にすることも覚悟しているのだろう。そして、多くの社員を守るためなら、久志彦という一人の社員を犠牲にするのは、社長にとっては正しい選択のはずだ。もちろん、そんな人は信用できない。久志彦にも決断が必要なのかもしれない。
久志彦は自分の職場に戻ると、すぐに辞表を書いて上司に手渡した。社長に呼ばれた理由を聞こうとニヤニヤしていた上司の顔が、一瞬にして凍りついた。理由を聞かれたが、決意が固いことだけを伝えて、私物の整理を始めた。
会社を辞めたと太田教授に報告すると、「そうか」の一言だけだった。本当はミホコに報告して、これからのことを相談したかった。姉弟二人で、知らない土地に行って暮らすのも良かったかもしれない。でも、今は頼れるのは太田教授しかいない。
「これから、どうするんだ?」
太田教授にそう聞かれて、久志彦は何も決めていなかったことに気づいた。
「とりあえず実家に帰って、考えてみます」久志彦はそう答えるしかなかった。
「住むところがあっても、生きていくためにはお金がいる。それが現実だからな。私が紹介できる働き口もあるけど、どうする?」
「それも考えてみます」今すぐには何も決められなかった。陶邑家のお役目を次の世代に引き継ぐことも考えて、今後のことを決めなければならない。独りで身を隠して暮らせば、安全かもしれないけれど、お役目を果たすことはできない。
古代から現代まで陶邑家は、ヲシテ文字やホツマツタヱの世界観を後世に残すために、自分自身の肉体を器(うつわ)としてお役目を引き継いできた。しかし、祖父母の代で『秘伝の書』は火事で失われ、母はシングルマザーとしてミホコと久志彦を産んだので、お役目だけでなく、陶邑家そのものが危機といえる。
久志彦は会社の寮を引き払って、天野の里の実家に帰ってきた。しばらく閉め切っていたので、埃っぽいような気がした。また、ここで暮らすことは想像していなかった。
住み慣れた家だから、懐かしいという気持ちはもちろんあるが、じいちゃんもばあちゃんもいなくなった実家は、なぜか他人の家に来たような雰囲気もある。ここで独りきりで暮らすのは、陶邑家当主としてお役目を引き継ぐ重みをより一層感じてしまう。
久志彦は、丹生都比売神社に参拝して、実家に戻ってきたことを神様に報告した。本殿からさわやかな風が吹き抜けていく。その温かくてやわらかい風は、久志彦をやさしく包み込んでくれた。実家では誰も久志彦を出迎えてくれなかったが、ここでは神様が久志彦の帰りを喜んでくれているようだった。
久志彦が陶邑家当主の試練を目の前にして不安だったとき、神様が巫女の姿で現れて、試練のヒントや励ましの言葉で導いてくれた。あの頃に比べれば、成長したと胸を張っていえる。もう神様はその姿を見せてくれないが、巫女の姿で舞っていた舞台で、今も久志彦をやさしく見守ってくれているのがわかる。
久志彦は、気持ちを前向きに切り替えて、新しい一歩を踏み出すことを神様に誓った。
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