第20話 送り込まれた刺客

父の住吉社長に嘘の報告をした翌朝、ミホコはいつもより早く家を出た。緊張しているのか、胸がドキドキして、家に居ても落ち着かなかった。もしかすると、父を試している罪悪感のせいかもしれない。


ミホコは父を疑うことに、まだ抵抗がある。養子であるミホコを我が子として育ててくれた父のことを、これまでの人生で疑ったことはなく、信頼できる理想の男性と思っていた。それでも、太田教授から確信を持って、父が組織と通じていて、ミホコ自身が監視役だと指摘されたことを否定できなかった。


ずっと不思議に思っていたが、なぜ父が太田教授を支援しているのか、その理由がよくわからない。ミホコの実の父親とはいえ、その研究を支援し、多額の寄付をする理由が見当たらなかった。しかし、太田教授が父親の古代文字の研究を引き継いで、現代の常識とされている歴史を覆すかもしれない、それを阻止するために飼い殺しにしていると考えれば納得できる。


ミホコは、いつもより1時間以上早く大学に着いた。講義が始まるまで、かなりの時間がある。それでも、大学構内にはそれなりに人がいた。徹夜明けの理系の学生や、朝練をしている体育会の学生、学生食堂の安い朝定食が目当ての教職員と学生たち、様々な人たちが朝早くから活動している。


大学には一日中、たくさんの人がいるが、学生や教職員ではない外部の人が構内に入ってくると、内部にいる人から見れば、何となく違和感を覚える。もちろん、学生や教職員の全員の顔を記憶しているわけではない。その人が持つ雰囲気が、この大学に馴染んでいなければ、自然と目立つのだ。


もし、外部の人が悪意や殺意を持って構内に入ってきたら、多くの学生や教職員の注目を集めることになるだろう。警備員は、その感覚が特に鋭いので、そのような人物を見逃すことは少ない。


父が通じているかもしれない組織の人が大学構内に入ろうとすれば、すぐに警備員が気づくと思う。しかし、ミホコは念のために警備員の人たちに警備を強化してもらおうとと考えて、警備室に向かった。


白鳥大学の警備室は、新しい校舎に中央警備室があり、時計台の建物の入り口にも警備室がある。それ以外には各校門に小さな警備室があり、構内に出入りする人をチェックする警備員がいる。


ミホコは時計台の警備室に向かいながら、どう説明すれば、警備を強化してもらえるのか考えた。本当のことを話しても、冗談としか思われないだろう。太田教授に殺人予告のメールが届いたといえば、すぐに警察に連絡しましょうといわれるかもしれない。


大ごとにせず、警備を強化してもらうためには、ストーカーがうろついていて不安を感じている、くらいがちょうどいいかもしれない。ミホコは時計台の建物に入って、警備室にいる顔なじみの警備員に声をかけた。時計台の建物に出入りするときには必ず挨拶をするので、名前は知らないが全員の顔はわかる。


「おはようございます。ちょっとご相談したいことがあるのですが」

ミホコは不安そうな表情を作って、話を切り出した。


「はい、どうされましたか?」

いつもにこやかに挨拶してくれる警備員の顔が、緊張感のあるピリッとした表情に変わった。


「勘違いかもしれないのですが、ストーカーがうろついているようなので、研究室周辺の見回りを強化してもらえないでしょうか?」

ミホコは泣きそうな表情を作って、精一杯の演技をした。


「それは心配ですね。もう警察には相談されましたか?」

警備員はかなり心配してくれているようだった。同じ職場で働いているとはいえ、所属も立場も違う。それでも、毎日のように挨拶するミホコのことを、自分の娘のように大切に思ってくれているのかもしれない。


「いえ、まだ確証もありませんし、あまり大ごとにしたくもありません。できれば、不審者がいないか注意してもらいたいのと、部外者が訪ねてきたら、すぐに私に連絡をもらえませんか?」


「わかりました。見回りの回数を増やすのと、すぐに連絡を入れることは、警備員の全員に情報共有しておきます。ストーカーの特徴は何かありますか?」


「えっ、そうですね。特徴といわれても、特には思いつかないけど」

ミホコは、そこまで考えていなかったことに、質問されて初めて気づいた。


「だいたいの年齢とか、背の高さとか、体型とかはわかりませんか?」


「それが、はっきりと姿を見たわけじゃなくて、視線を感じたり、誰かにつけられているように感じたり、という程度なので特徴まではわからないんです」

ミホコは苦し紛れの言い訳をして、とにかく怯えた表情を作って乗り切ろうとした。


「わかりました。あまり先入観を持たずに、不審者を警戒するようにします。不安だと思いますが、私たちが必ず守りますので、何かあったらすぐに連絡をください。緊急の場合は、火災警報器を鳴らしてもらっても構いません。すぐに駆け付けます」

警備員はミホコのあやふやな情報を疑っている様子はなかった。むしろ、頼りにされて正義感を刺激されたのか、やる気に満ちあふれているようだった。


「ありがとうございます。よろしくお願いします」といって、ミホコは足早に事務室に向かった。本当は太田教授がストーカーの被害に遭っているという設定にするつもりだったが、それは言い出せず、ミホコ自身がストーカーに怯えていることになってしまった。


朝から、ありもしないストーカー被害をでっち上げて、ミホコは後ろめたさを感じていたが、今はできる準備をしようと気持ちを切り替えた。


太田教授の部屋をのぞくと、いつものように獣のようないびきが聞こえてきた。昨日の夜に、噓の報告をしたことは伝えたのに、本人にはまったく緊張感がないようだ。ミホコは太田教授を叩き起こして、警備員とのやり取りを伝えた。


「先生も、何かあったら迷わず火災警報器を鳴らしてくださいね」ミホコはそれを強調して伝えた。


結局、その日は何も起こらなかった。いつも通りの一日で、特におかしなことはなかった。いつもと違っていたのは、久志彦から何度もメッセージが届いて、返信が面倒だったのと、警備員からの熱い視線が、まるでミホコ自身が見張られているようで、息苦しさを感じたことだった。


また、昼休みに学食から時計台に戻ってきたとき、警備員から「身の危険を感じたら、これを使ってください」といって痴漢撃退用のスプレーを手渡された。それを見ていた同僚の事務員から何かあったのかと聞かれて、また、ありもしないストーカー被害をでっち上げることになってしまった。


嘘をつけば、その嘘がバレないように、また嘘をつかなければならない。嘘を重ねているうちに、ミホコ自身も本当にストーカー被害に遭っているような気持ちになってくるのが恐ろしい。


無事に一日を終えて、念のために太田教授に油断しないように釘を刺してから帰宅した。帰るときには警備員から意味ありげに敬礼されて、見守られているのをひしひしと感じた。


翌日、太田教授は朝から講義だった。1時限目が終わった後、事件が起こった。若い女性が事務室に飛び込んできたのだ。見た目は大学生のように見えたが、構内で見たことはなく、白鳥大学には馴染まない露出の多い派手な格好をしていた。


「助けてください。太田教授に突然押し倒されて、乱暴されたんです」

その若い女性は大きな声でそう叫び、両手を広げている。ミホコには引きちぎられたシャツをアピールしているように見えた。まるで舞台女優が客席に向かって演技しているような、とても襲われた直後の女性とは思えない迫力だった。


事務室にいた人たちは呆気にとられて固まっていたが、ミホコはすぐに立ち上がって、その女性の肩をやさしく抱きながら「もう大丈夫ですよ、落ち着いてください」と声をかけた。その女性に怯えている様子はなく、違和感は確信に変わった。


「すぐに警察に連絡しますから、まずはあなたの学生証を確認させてください」


「えっ、学生証ですか?」

予想外の対応だったのか、その女性の顔から血の気が引いていくのがわかった。


「はい、あなたがこの大学の学生かどうかで対応も変わりますので」

ミホコは冷静に、淡々とした口調で答えた。


「もう、いいです」

そう言って、その女性は事務室を出て行った。ミホコは追いかけるべきか悩んだが、とりあえず太田教授の様子を見に行った。


太田教授は机に向かって仕事をしているようだったが、ミホコの顔を見て「何かあったの? 少し騒がしいようだったけど」と聞いてきたので、何も気づいていないようだった。


「先ほど、先生に乱暴されたと若い女性が事務室に飛び込んできました」


「えっ、それってドッキリで、私をだまそうとしてるの?」

太田教授はとぼけているのではなく、本当に身に覚えがない様子だった。


「違います、本当の話です。若くて露出の多い派手な格好をした女性が来ませんでしたか?」


「たしかに、質問があると言って若い女性がここへ来たけど」


「その人です。先生に突然押し倒されて、乱暴されたと言ってました」


「まさか、質問に答えただけだよ。ちょっと的外れな質問だったけど」


「油断しないでくださいって言いましたよね。どう見ても、うちの学生じゃなかったでしょ」


「そういわれてみれば、見覚えのない顔だったような気はする。でも、私の講義を真面目に受講している学生なんて、ほとんどいないから、初めて出席した学生だと思っていたよ」


「そうだとしても、あんなキャバ嬢みたいな学生、うちの大学にはいないって気づきませんか?」


「そうなの? あまり学生には興味がないから気づかなかったなあ」

ミホコは、太田教授がいう興味がないの意味が、研究に夢中で学生のことまで考えられないのか、男として若い女性には興味がないのか、少し気になったが、とりあえず無視することにした。


「とにかく、何度も言いますけど、油断しないでください」

太田教授はばつが悪いのか、「はい」とだけ小さな声で答えた。


事務室に戻ると、警備員が心配そうな顔をして、ミホコを待っていた。

「申し訳ありません。不審者は男性に違いないと思い込んでいまして、この大学では見ないタイプの女性だとは思ったのですが、不審者とは思わず通してしまいました」


ミホコは、私に謝るのは筋が違うのではないか、と思ったが今後のことも考えて、

「私だけでなく、太田教授やこの研究室全体を標的にしているのかもしれません。引き続き、警戒をお願いします」と少し厳しい口調でいった。


警備員はビシッと敬礼して、「はい」と短く返事をすると足早に立ち去った。まるで命令を下した上官に対する態度のようだった。


その後は何事もなく、無事に一日を終えた。帰ろうとするミホコを見つけた警備員が、慌てて警備室から出てきた。


敬礼をして「お疲れ様でした」という警備員に見送られて、ミホコは恐縮しながら時計台の建物を出た。朝の事件のお陰で、嘘はマコトになった。ミホコがずっと感じていた後ろめたさは、少しやわらいでいた。


校門に向かう途中で、高そうなスーツを着こなす、いかにもデキるビジネスマンといった感じの男性とすれ違った。もちろん、うちの大学では見ないタイプの男性だったが、共同研究をしている企業の人だろうと思った。


年齢は太田教授と同じくらいだが、清潔感のある落ち着いた雰囲気は太田教授とは正反対で、人間性の良さがにじみ出ているようだった。手には手土産と思われる、上品な風呂敷で包まれた細長いものを持っている。おそらく日本酒の一升瓶だろう。研究の成果を祝って、酒を酌み交わすのかもしれない。


ミホコは朝の事件を無難に処理できた安心感から、すぐに二の矢があるとは思わず油断していた。それは太田教授も同じだった。

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