第三十九話 ファッション雑誌
瀬河長幸がイラストレーターとして活躍していると知ったのは偶然で、美容院の待合室で女性向けファッション雑誌を読んでいたときだ。
色々な方面の著名人を紹介するコーナーで長幸のインタビューと写真が載せられており、在りし日の好青年から落ち着きのある大人の男性に様相を変えていた。
その記事を見た瞬間、酷くショックを受け、混乱したのを覚えている。
頭が真っ白になると言うよりも、その雑誌の中の長幸の姿を見て、胸に抱いた感情の量と複雑さに頭がパンクしてしまっていた。
長幸と別れてから一児の母になった現在に至るまで、長幸の存在やその思い出はぼんやりと胸の内に存在していた。
長幸と付き合っていたときの記憶や心の動きが、わたしの人生観の大きな部分を占めていたからそれは当然なんだけど、それらはわたしの中に吸収されて、疾うに栄養に変わっているものだと、そんな風に思っていた。
でもそれは勘違いだった。
高校生の頃の恋愛は、確かにわたしにとっての根幹だけれど、色褪せてつまらなく整地されていく人生を「これが大人になるということだ」と自分を納得させ、それなりに自分を適応させていただけなのだった。
再びわたしの人生の前に現れた長幸を目にしたときわたしは、長幸と一緒に居たときに感じた人生のあらゆる鮮烈さを思い出してしまった。
嬉しさも、楽しさも、愛おしさも、思慮深さも、優しさも、焦燥感も、嫉妬心も、怒りも、感情の全てが余りにも鮮やかで、その感情を求めて恋をしていた時代があまりにもわたしにとっての全てであり過ぎて、その後の人生が役割や年齢に流されるだけの惰性だと気付いてしまったのだ。
自分の満たすべき欲求と自分の人生の限界を、その瞬間パズルの最後のピースを嵌めて乱雑な模様に秩序を与えるように、明らかにしてしまったのだ。
でも美容室の待合室でそれに気付いたときにはまだ胸中に飛来したインスピレーションの正体がわからず雑誌の中で落ち着いた様子で椅子に座る瀬河長幸の姿を見ながら目を白黒させるしかなかった。
頭の中はパンクしていたが美容院の順番が回ってきたらとりあえず立ち上がり、パンクした頭のままスタイリングチェアに座った。
予約を取るのに毎回苦労するので今日を逃すわけにはいかないとかそういう反射的な打算が働いたのだ。
スタイリストさんの言葉にも殆ど生返事になってしまい、体調を心配されてしまった。
わたしの人生の理想形はもうとっくに終わっていた。
今になってわたしの人生に姿を現した長幸の姿によってそれは気付かされた。
でもそれは結局誰にでも起きるときの流れによる必然である。みんな年を取ると生き方を変えなければならない。
本来ならば、そのまま過ぎ去った日々を懐かしみながら色褪せた現在を慎ましく生きるちゃんとした大人の人生を続けていたのだろう。
しかしわたしは出会ってしまった。
わたしの師匠である、道理を覆す『魔女』に……。
土日を挟み、美術部の手伝いを始めて4日目。
撮影とラベリングはようやく終わりが見えてきた。
そもそも雪岡が未分類の作品をある程度纏めてくれていたので、作業は作品の開封と撮影、再梱包の流れでスムーズに進み、わたしと玲も作業の手順に慣れていった。
作業開始2日目には漫研兼美術部部員の同級生・西崎と羽田野が部室に現れ、手伝いもそこそこに雑談で盛り上がってしまい作業が著しく停滞したが、3日目と今日(4日目)は雪岡以外の美術部部員は誰も現れず、わたしと玲と雪岡3人での作業が淡々と進んだ。
「結局、誰が描いたのかわからない絵が多かったから、『未分類』で検索できるようにしてみた」
絵画の開封と再梱包をしている作業台群とは別の作業台で、ノートパソコンを操作しながら雪岡は言う。
「おー、全部入れたんだ……」
雪岡が操作するノートパソコンの画面を肩越しに眺めながら玲は感嘆の声を漏らす。
時間は放課後の午後四時半手前、秋の夕暮れの暗さと雨雲の暗さでもう外はかなり暗い。
つい先程までかなり集中してラベリング作業を行っていたので、いまはなんとなく緊張の糸が切れて休憩みたいな空気になっていた。そこで、話の流れで雪岡が先週ラベリングした作品分も更新した美術部のデータベースを玲に披露しているのだ。
「結構細かく書いてるな……。えっ? これかなり大変じゃない?」
「ううん、そもそものフォーマットがちゃんとしてたからそこにデータを入力しているだけだしさ。むしろマニュアルをちゃんと作ってくれてたOBないしOGの人が凄いかな」
「へぇ。……正直、マニュアル有りでも使いこなしてる時点で凄いことのように見える」
そう言われて、雪岡は照れたようにはにかむ。
「わたしね、どっちかって言うと絵を描くより絵を管理する方の仕事に憧れがあって、こうリストを作ったりしっかり整理するのが好きなの」
「キュレーターみたいなもん?」
「うん、そう、まさにキュレーター。もちろん、描くのも好きなんだけど、こう、白紙のリストが作品の情報で埋まっていくのを見ると妙にうきうきしちゃうんだよね」
「ほぉ……」
「変かな、わたし?」
「結構気持ちわかるかも。傍から見てる分には、過去の絵の管理を率先してしてるの、責任感強いなと思ってたけど、部活の活動時間が削られるのは違うんじゃないかなと疑問だったから……」
「あはは、完全にわたしがやりたくてやってることだし」
「ああ、そうらしくて安心したよ」
「逆にいま、急に絵が描きたくなったらすぐにラベリング放り出して絵を描き始めるから安心してね」
「はは、それはそれでひでぇ……」
……そんな会話に聞き耳を立て、わたしは何気無い風を装い準備室の方に移動し、棚の奥へと渡り、棚から、一枚のキャンバスを引き抜く。
そろそろ、わたしの結界も限界なのだ。
魔法の時間が終わる前に、現実の方を魔法のように作り変えなければならない。
「次の絵が見たくなったぁ~」
わたしは大量に並ぶクリスマスプレゼントを気まぐれに封切る子供のような無邪気さを装いつつ引き抜いた絵を美術室に持ち帰り、作業台に置く。
「あ~、もしかしてもう今日はおしまい、みたいな空気だった?」
「ん~……、せっかくだしそれだけ終わらせよっか?」
「おっけぇ」
温和な表情を作り、古めかしいデジタルカメラを手に取り、雪岡は玲と共に作業台にやって来る。
わたしは、特に何も考えていない様子で機械的に絵が傷付かないように注意しつつ油紙の梱包を解いていく。
手の平が汗ばみ、震えそうではあったけれど、そんなものはおくびも出さないようにしながら。
そして、わたしはそれを、解き放った。
「……ちょっと見て」
近付いてくる二人に、呆然としたように呟く。
それは演技ではなく、その絵を目にし、思わず出てしまった油断した反応だ。
「…………」
「…………ぁ」
作業台までやって来て、それを一目見た玲と雪岡も一瞬言葉を失う。
油紙の梱包から現れたそれはもちろん絵画、まぁ普通の水彩画と言えば水彩画なのだろう。
遠くを見上げる少年の顔の大写しのように見えるけど、三人の目を惹いたのはその少年の背後。夕焼けと青空が溶け合ったような空とその下の街並み。延々と横並びする団地の風景がまさに、瀬河長幸が得意とする街並みの描写を彷彿とさせるのだ。
「これは……」
「当たりを引いたか……?」
わたしと玲は顔を見合わせる。
雪岡は、明らかに今まで扱って来た学生達の作品とは違う手付きでゆっくり恐る恐る絵画を持ち上げ、「油紙を引き抜いて」とわたし達に指示を出す。
手早く油紙を作業台から排除すると雪岡は一瞬思案して絵を裏向けにして布の敷かれた作業台に置く。
「……作者の名前とかは、無いね」
そしてまた絵を表側に返す。
「……どう思う?」
興奮を押し殺しきれていない口調でわたしに尋ねる雪岡。
「街の風景は、作風似てる気がするけど……?」
「だよね。でもさ、この中心の男の子?の顔はあんまり長幸さんっぽさを感じないかなって」
「……そこは、画風が変わった、とか?」
「まぁあるかもだけど、そもそも瀬河長幸の水彩画自体レアなんだよね。デジタルイラストと水彩で人物の描き方変わるとか有りそうな話だけど。うわー、これで作風が似てるだけの別人の作品とかだったらへこむなぁ……」
「なぁ」
若干テンションがおかしなことになりつつあった雪岡に玲が声を掛ける。
「これ、サインじゃね?」
玲が指差した絵画の右下部分には、芸能人のサインのような崩し字のようなものが小さく書かれていた。
「うん……、でも、長幸さんのサインってこういう感じじゃないよね? もっとデジタルっぽいフォントというか……」
「これ……、見覚えあるかも……」
わたしは呟き、スマホを取り出して検索を掛ける。
タイトルは確か、『煙濁に都市ありて』だ。
わたしの両サイドからスマホ画面を覗き込む2人に画面を見せながら検索で表示した画面を拡大する。
スマホに映された絵画の下部右端にもサインが書かれており、そのサインは発見された絵に似ているように思えた。
「似てる……、気がする!」
興奮気味に瞳を輝かせスマホ画面と絵画を交互に見遣る雪岡。
わたしは、スマホを発見された都市と少年の絵の傍に移動させ、サインの部分とスマホの拡大したサインを並べる。
「似て、るよなぁ……」
玲も流石に驚きを隠せず、雪岡と共にふたつのサインを覗き込む。
「水彩画とデジタルアートでサイン変えてるのかぁ……」
「葉山、よく知ってたな?」
感心するように呟く玲に「……わたしも興味あって、作品調べてたから」と内心の興奮を抑えているように装いながら言葉を返す。実際個展で見たから、とは言わないでおいた。
「えー……、どうしよう? これ本物だぁ……」
雪岡はそれぞれの手で両頬を抑え、歓喜に打ち震えるように言葉を零す。
「テレビ番組でたまにあるでしょ? お金持ちの家の蔵の中を調べたら貴重な骨董品が見つかるみたいな話! わたしの家マンションなんだけどそういうの、子どもの頃憧れてたんだけど、現実になるなんて思わなかった……!」
「……あー、気持ち、わからなくはないな……」
普段の温和で冷静な様子とは違う、恍惚とした雪岡の様子に若干気圧されつつ、玲は同意する。
「でもなんだろ? 学生時代のサインと今のサイン、似てるんだけどちょっと文字数が多いんじゃないかな?」
見比べつつ疑問を口にする雪岡。
わたしはどんな表情をすればいいのかわからなくて口を噤んだ。
その理由を、わたしは既に知っている。
「……もしかして、別の人のサイン?」
そう、わたしの代わりに響くのは玲の声。
途端に玲と雪岡は弾かれたようにお互いに顔を見合わせた。
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