第三十八話 秘薬






 奈智子が帰って来るなりテーブルの上に用意したのは解熱剤と、何やら青い液体で満たされた凝った意匠の瓶。解熱剤はともかく、液体の方はその瓶のデザインも相俟って如何にも魔女の秘薬然としていた。

 

 ……いやそもそも、奈智子が『帰って来る』と表現してしまう時点で間違っていると言えば間違っている。ここはわたしの家であって奈智子の家ではない。

 まぁただ、奈智子が合鍵でわたしの部屋に入って来たときに、わたしは「奈智子が帰ってきた」と思ってしまった。


 奈智子は家に帰るなり、テーブルに解熱剤と怪しげな瓶を置き、身体を投げ出すようにソファーに座り、呻き声のようなものを上げながら横に倒れた。


「え……、ちょっと大丈夫?」

 さすがに心配で声を掛けた。


「うん……、思ったよりも大丈夫……」

「ちょっ、声が変だよ? 体調悪いの?」


 絞り出すような奈智子の声が、普段の声よりもやや低く、張りが無い印象を受けてしまった。


「ああ、これは大丈夫……。声の年齢だけ元に戻したからいつもと違うだけ。すぐ元に戻ると、思う……」


 ……先日、わたしが長幸と会ったのを受けて、奈智子はわたしとの約束を果たした。奈智子は、旦那さんに電話をしたのだ。

 まぁ、実際にはわたしと奈智子は約束を交わした訳ではないのだが、奈智子が自分へのけじめとして自分で宣言したのだ。わたしが長幸と会えば自分も夫に連絡すると。

 ついさっきまで、奈智子はどこぞかで電話していたはず。


「電話するフリで済ませる可能性があるから、みのりぃのウチで電話した方が良くない?」

 などと奈智子は提案したが、そんなの疑わないし、と言って提案を取り下げさせた。

 プライバシーに関わる電話になるだろうし、私は聞かない方が良いだろう。


「……声だけ元に戻すとか、出来るんだ」

「うん、まぁ……。本来の仕様に無い裏技みたいなものだからあんまり多用しちゃダメだけど。現にいま、こんな感じになってるし」

「裏技……」


 わたしはソファで横倒しになった奈智子の隣に座る。

 奈智子の小さな頭がわたしの太腿のすぐ傍にある。


 元の43歳の姿に戻れるのかどうか尋ねた所、「戻れないことは無い」というような回答をしていた。

 『無理をすれば戻れる』という意味で言っていたのなら、いまのやつれたような様子はなんらかの副作用と捉えれば良いのだろうか……?


「もっとひどい感じになるかなって思ってたんだけど、想定よりも大分楽だった。ちょっと安静にしてたら良くなりそう」


 そういう奈智子の声は低く安定した声から風邪をこじらせたような擦れた声に転じ、余計に辛そうな印象を受けてしまう。

 それを指摘すると「ああ、元に戻してる途中だから大丈夫」との答えが返ってきた。


「亮治さん、すごく心配してくれてた」


 少女とも中年女性とも付かない擦れた声で、別居中の夫の名を口にする。


「わたしのことを心配してくれてる気持ちがさ、ハッキリと伝わって来て、そこはすごく良かった」

 わたしに語り掛けると言うか、殆ど独り言のようなトーンの擦れた声。


「久しぶりに亮治さんに胸がきゅんとしたんだけ……。もっといつも、あの人にああいう感じになれていたら、こうならずに済んでいたかもしれないなって。いつもずっと、あんな感じだったら良かったのに……」


 疾うの昔に過ぎ去った日々を、儚むような口調である。


「……なにを話したの」

「あー、目新しいことは特に何も、話してない。今まで手紙に書いて来たことの焼き増しみたいな話だけだよ」

「それで、旦那さんは納得したの?」

「そりゃあ、してないだろうけど。……これからどうしたいか、じっくり考えて欲しい的なことを言われた。もし帰ってきたいなら気兼ねなく帰って来てくれ、的なことも」

「…………」


 そんな良い旦那さん、どうして捨てちゃったの? 


 思わず口に出掛かったが、わかっている、そんなものは奈智子がとっくに自問自答し終えている。


 どれだけ満たされた環境でも欲求にそぐわないなら捨てるしかない。

 多くの人はその選択肢を選ばないはずなのだが、奈智子は、選んでしまった側の人間なのだ。

 それについてとやかく言う段階は、わたし達の間ではとっくに過ぎていた。


「ねぇみのりぃ」

 なんとなく頭を持ち上げわたしの太腿に押し付けつつ、奈智子はわたしを見上げた。


「なにか、恋バナを聞かせてくれない?」

「……え?」

「恋バナが聞きたい」


 急に何を言い出すんだ?

 やつれた様子と弱々しい声で要求するのがそれなのか?


「いや、なんで急に?」

「なんか、そういうのを摂取したい気分だから」

「いや……、その手の話はもう大体報告してるじゃん。そうすぐに湧いて出ないよ」

 奈智子と違って。


「なんか、最近話してくれた以外で何かない? いままでと違う切り口で」

「いやー……、小学校の初恋とか?」

 そう言うと、奈智子はへへへと苦しそうに笑い、部屋の周囲に視線を映して一瞬真顔になる。


「大学生の頃、確か彼氏が居なかった? その人とはどうだったの?」

「あー……、ソレ聞く?」

 わたしは思わず顔を引きつらせてしまった。


「うん、具体的にどんな感じだったのかなって、詳しく聞いてなかった気がする」

「まぁ、あんまり詳しく話したい感じじゃなかったから」

「えー? 酷い男だったの?」

「ううん違う違う。いい人だったと思うよ」


 わたしは、記憶の隅に敢えて埋もれさせていた思い出の小箱を慎重に取り出した。


「まー、そもそもスタートがそんなに良くなくって。サークルで周りのメンバーがみんな付き合いだして、じゃあわたし達も付き合ってみるかって余り物同士で恋人同士になってみた、みたいな感じで」

「うん……」

「どういうんだろう、異性に対する欲求がそもそも希薄で、互いに、相手にあんまり何も求めなかったんだよね。それらしくデートとかしてみたけどそれも『恋人ならこういうことやるだろう』みたいな義務感でやってるところがあってさ。多分、相手もそういう部分があったんじゃないかな?」

「カラダの関係はあったの?」

 擦れた声で見上げながら奈智子が聞いてくる。

 質問の内容とは裏腹にその表情はおばあちゃんから昔話を聞く童女のようだった。


「一応そういうこともした。あれはいまでも思い出しただけで居た堪れない気分になるというか……、上手いとか下手とかそう言う以前にさ、付き合ったならセックスぐらいしなきゃダメだろみたいな同調圧力による強迫観念の延長線上のヤツでさ」

「義務としてのセックスだ」

 覚えたての言葉を始めて使う子どものように無邪気そうに奈智子は言う。


「そう、義務的だったわね。相手の負担になりたくなくて極大に気を遣い過ぎて、結局一緒に居る意味が見出せなくなる、そんな感じの恋愛。欲求のための恋愛じゃなくて、恋愛するために恋愛をしてたって、最初の内から気付いていたのに、ずるずると無為な関係を続けていたっていうのが未だに『しこり』になっていて、わたしと付き合ってなければ、相手ももう少し有意義な時間の使い方が出来たんじゃないかなって、思うことがある」

「んー、それは流石に自罰的過ぎない?」

「……後から考えれば、あの恋愛があった方が人生経験としては価値があったと思うから必要だったと思うけど。相手の方も、同じように感じてくれていればいいんだけど」

「みのりぃって、結構自分のせいにすること多いよね。あんまり他人のせいにしたがらないと言うか」

「わたしが悪いと思ってることなんだからわたしが悪いと捉えるのは当然じゃない?」

「もっと、相手が余りにもつまんない男だったー! とかそういう感じにはならないの?」

「現実を正確に捉えて目を背けない誠実さがあれば誰がどう悪いかは明確なのよ。その上で言えば、わたしも悪いのは明白よ」

「へぇ……。なら元カレさんが悪かった部分はどこだと思う?」

「わたしと同じよ。わたしを本気で好きじゃないのにずるずる付き合っていた点と、わたしを本気で惚れさせなかった点」

「つまんない男じゃない?」

「同じ問題点がある相手にそんな心無い悪口は言えないわ。わたしがつまんない女になるじゃない」

「総じて問題は、『つまんない恋愛』をしていた点にある、と」

「…………まぁ、そうなるわね」


 かつての彼氏や自分を傷付けないために『つまらない男』『つまらない女』という表現を避けてきたのに、その上で最後に残った『つまらない恋愛』とかいう言葉が一番わたしを傷付けているような気がする。


 恋バナをせがまれて出てくる数少ない話題が、つまらない恋愛の話……。


 そんな暗澹たる気分の中、隣で寝ていた奈智子が不意に起き上がり奈智子はびくりとさせられた。

 そんなわたしを余所に奈智子は目の前のテーブルに手を伸ばし、怪しげな青い液体が入った瓶を手にし、素手でコルクの封を外し瓶のまま、洋画のパーティーでビールを呷るような勢いでその謎の薬を飲み始めた。


「……大分楽になった」


 溜息と共に呟く奈智子の声は、若々しい鈴のような澄んだ声色に戻っていた。


「悪くない恋バナだった。若さゆえの酸味とたどたどしさを感じさせる良い語り口だった」

「……ソムリエかい!」

 わたしのツッコミに奈智子は小さく笑う。


「良い恋愛だったんだろうなっていうのは伝わったし」

「ああ、あの語り口でそういう評価になるんだ?」

「少なくとも元カレさんが良い人なのは間違い無いんでしょ?」

「あー、まぁ、うん……」

「話訊いてる限り、その元カレさんを悪者にしたくないっていうのがやたらと伝わって来てたし、みのりぃが自罰的なのを加味してもさ」


 それが例え良い恋愛だったとしても、そこが原因で恋愛を忌避するようになったわけで。それは果たして本当に良い恋愛だったかどうかわたしにはよくわからない……。


「これからどうするの?」

 わたしは奈智子に尋ねる。


「どう、って?」

「いや、自分の家族に対してだよ」

「まぁ、まだ時間稼ぎかな。結論を導くためにもやらなきゃいけないことがある」

「なによ?」

「学園生活だよ。今ちょっと大事なタイミングだからさ」


 マンションの外は、ここ一週間以上雨雲に支配されている。

 時折耳を澄ますと雨音が聴こえてくるような不安定な天気。


 今も、人々を閉じ込めるような重い雨の音が外で響いている……。






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