第四十話 すべての恋の味方
そう、わたしはこの絵の存在を知っていたし、これが合作であると知っていた。
この絵に長幸と並んでサインしているその主をわたしは知っている。
サインの主は当時の美術部部員。
わたしと長幸より一年上の先輩で、活発で挑戦的な眼差しの快活で美人な女性だったと記憶している。
高校二年生の冬頃、長幸と先輩女子が仲良くしているなんて噂を聞いてしまった。
ただの噂、そんな風にスルー出来なかった。
付き合い始めて一年を過ぎていた頃で、お互いに、なんとなくかつて付き合い始めていた頃の熱量を失い始めているのを感じていた時期だからだ。
そして、わたしと一緒に居ないときの長幸の行動を密かに観察するようになり、あるときの雨の放課後、長幸が一人で校舎別館への渡り廊下を歩いていくのを見掛けた。
密かに後を追い、わたしは、長幸が美術部に入っていくのを見てしまった。
暗い絶望感と不条理に対する怒りと共にわたしの胸を占めていたのは「やっぱりな」という言葉。
幾多の卒業生達の絵画が飾られた廊下で美術室を隔てる壁を背にしゃがみ込み、長幸と、美術部の先輩の微かだが寛いだ様子の話し声を聞きながら、どうやらそれは何かの絵を描いている最中だと察せられた。
長幸の明確な浮気、裏切りである。
ただわたしはこの時、長幸に『裏切られた』という気持ちになれなかった。
半ば無理矢理、『長幸』と『裏切り』を結び付けないようにしていた。
長幸が心変わりしていたのと同様にわたしもこの恋愛に飽き始めていた。
わたしが飽きていたのだから長幸も同様に心が離れていくのは当然だろうと、どこか納得感さえあった。
長幸が先に浮気していた、という具体的な裏切りを当時のわたしにとってはあまり重要とは思えなかった。
当時のわたしの心境ならば、何かの縁やボタンの掛け違いでわたしが先に裏切っていたかもしれないと想像出来たからだ。
道理として理解していた部分はあったと同時にそれはそれとして裏切られた純粋な怒りは湧き、怒りを露わにしたい気持ちと起こるのは不合理だと思う別の意地がわたしの中でぶつかり合い、冷静さを失いそうな気持を抱えたままなんとかその場を離れ、暗い教室の廊下を混乱を紛らわすように歩いた。
別れ話はその数日後、放課後に長幸から切り出された。
他に好きな人が居ると、そのとき聞かされた。
わたしは特に怒ったり泣いたり出来ずに、もう気持ちが戻って来る可能性は無い? と一応訊いてみた。無い、と長幸は決意を以て断定した。
オレが他の相手と仲良くしてたのを知ってたのか? と訊かれ、わたしは極力表情を表に出さないように首を縦に振った。
本当に申し訳無さそうに謝られて、わたしはそれだけで心の奥で長幸を許したい気持ちが膨らんでしまい、わたしも他に好きな人が出来てしまった、と咄嗟に言ってしまった。
それは正直嘘なのだが、それを口に出した瞬間、まあでも、他の男子も無くはないなとか思えるようになってしまい、この恋が本当に終わってしまったんだと実感出来た。
わたしの我儘でその日は手を繋いで、駅までの道を並んで帰った。
友達同士になった長幸とこれまでの思い出で馬鹿笑いしながら盛り上がる帰り道は、とても甘くて楽しい時間だったが、もうこれ以上、長幸とはそんな思い出を重ねられないという深い寂しさを感じさせられた。
円満離婚、と当時口にしたわたしの言葉に偽りは無いのだろう。
たぶん恋の終わりが穏便な形だったから、わたしの中での『恋愛』というものの概念の位置付けは『ポジティブで素敵なもの』として固定されたのだろう。
それから20代中盤までのわたしの価値観は割とその『失われた恋の甘さ』に囚われたものだった。
長幸と両想いだった日々に噛み締めた甘さと高揚感を再現したくてたくさんの男の人とお付き合いしていた時期が続き、それはそれで心揺さぶるとても楽しい日々だった。
でも、年齢を重ねるにつれ、あのときの長幸との日々はお互いの若さと初々しさが心を昂らせた熱源だと少しづつ気付き始め、結婚し子供をなにかこう世間的に正しいとされる常識や規範に自分を適用させていったのだ。
それは子供の頃からわたしがずっとしてきた、周りに合わせて適度に最良な人間として振舞うルーチンの延長上にある生存戦略である。
あの日、美容院の待合室で長幸が画家になっていることを知るまでは、その絵を実際に目にするまでは、そんな自分の人生に何の疑問も感じなかった。
あのとき道を違えた長幸が、原理的にわたしが知り得ない『美術部の先輩に恋した長幸』が思いの外大きな存在になっていた事実がわたしの心を大きくざわつかせた。
世間では長幸が社会人になってから絵を描き始めた、というカバーストーリーが流布されているが、わたしは、長幸が高校生の頃に触れた出来事が、わたしとの別れも内包する長幸の日々が長幸の作品に繋がっているのを知っている。
それらのイラストは、嫌でもわたしを高校生のあの頃の、多感だった、長幸との恋愛が最高の幸福だった日々を再び通せる道筋を真っ直ぐと過去へと伸ばす。
わたし達が別れる切っ掛けになった先輩美術部員との思い出が明確に長幸の人生に影響を与えた事実が美容室で順番待ちをするわたしに理不尽な怒りと嫉妬心を湧き立たせ、それと共にずっと記憶の奥にしまって忘れていた長幸との日々の、若さゆえの迸るような瑞々しい多幸感が結婚して一児の母をしているわたしの胸中に、場違いに、蘇ってしまったのだ。
成長の道理と老化の道理、人間の社会規範と生き物の摂理として正しい『在り様』に自身を巧く当て嵌め続けていたのに、その瞬間心だけは経過の道理を振り切って、恋に溺れていた少女の時代に廻向してしまったのだ。
精神が逆行してしまったなら肉体を精神に併せて再調整するのは魔性の道理。
わたしが師匠から教わった数少ない魔法のひとつ。
しかし非常に強力な呪い。
『恋心』に囚われ、自身の肉体を『恋』のために最適化する魔法。
微かな後悔を上回る渇望で、わたしは自分を恋の獣に変えてしまった。
でも、魔法と言うものが世界そのものを書き換える『物語』であるのならば、わたしはそこに記される文章を完全にコントロールしなければならない。
魔女としてどうしようもなく自然の理(ことわり)から足を踏み外したわたしは、どうしても一度高校時代の瀬河長幸の関わった絵を見てみたかったし、一度見ねばならないと強く感じていた。
わたしの中でも未だに彼の立ち位置があやふやになっていたのだ、『わたしに初めてお互いを思い合う気持ちを教えてくれた大切な相手』として捉えるべきなのか『多感な頃のわたしと付き合っていながら浮気したクソ野郎』として捉えるべきなのか。
この、未だに揺れ動くあの頃の価値観の不安定さとわだかまりも、わたしを恋の魔法使い足らしめている要素のひとつで、わたしはその纏まらない感情の出発点である浮気相手との合作の絵を『美しい思い出の中にある抗えない楔』から今そこにある『現実世界のただの絵』に貶めなければならない。
『恋』を思い出しておかしくなった頭を一度冷静に戻すにはきっとそれしか無い。
わたしが恋をしていた頃の長幸の絵との対峙が、わたしが魔女として生きるのか『現実』に回帰していくのかの分岐点になり得るのだ。
もしその絵がただの過去の産物に見えたのなら、わたしは、鉄が冷め色彩を失っていくようにあるべき『現実』に戻っていけるのだろう。
「えええ、でもこれどうしようとりあえず美術部の顧問に連絡しなきゃだよね!」
いつものおっとりしつつも落ち着いた様子からは想像も出来ないほどに気が動転してテンションが高くなっている雪岡。そんな雪岡のいつもと違う様子に少し冷静になりつつも、父・瀬河長幸の秘された作品から何か隠れたメッセージを読み取れないかと気恥ずかしさを含んだ複雑な表情を浮かべながらその絵を凝視する玲。
わたしも玲と頭を突き合わせてその長幸の絵を見下ろす。
わたしに読み取れる、その感情の残滓が。
学校という入れ物の中で、いくつもいくつも『人に恋する』感情が育まれてきたが、形の定まらないあやふやな感情を日記などで具体性を持たせて記録するように、その絵にも、当時その絵画に対峙し、筆を乗せていた長幸の、一組の男の子と女の子の感情が、ありありと記録されているのがわたしには読み取れる。
そこには描かれているのだ。
稚拙な筆使いではあるけれどひとつの世界を作らんとする無邪気な喜び。
好きな相手と肩を並べてひとつの画に向き合う甘く照れ臭い充足感。
お互いの間で微かに漂う罪悪感。
この先どこまで続くかわからない人生で確かに自分達は同じ場所にいたんだと信じられる実感……。
そこに居たのは、間違い無くわたしの知らない瀬河長幸だった。
わたしが知っている瀬河長幸がわたしの知らない相手に、わたしだけのものだと思っていた感情を向けている。
ふざけるなよ。ダメだろそれ。
激しい怒りが再燃したと同時に、それらに連なるわたしと長幸だけの思い出、別れるときもちゃんとわたしに優しかった長幸の姿も脳裏に蘇り、そしてそれ以上に言語化され得ない淡い恋心がくっきりと塗り込められたその絵画に、わたしは圧倒されてしまった。
わたしは長幸の事を許すべきか感謝すべきなのかずっと決められないでいた。
長幸はあまりにもたくさんわたしに思い出もくれたし深く傷付けたし、長幸の心の置き場をどこに定めればいいかずっと決められないでいた。
そしてわたしはいま恋の魔女になってしまった。
もはや人の理を外側から見詰める立場になり、『恋』という在り様そのものがわたしの価値判断の中心を担うようになってしまった。
その絵に描かれた恋の鮮烈さに否が応でも当惑されてしまい、自分と長幸のかつての関係でさえ、そのスパイスにしてしまっている。
魔女として、恋の絶対性に殉じてしまったが故に、人間として長幸との日々とどう折り合いを付けるべきなのか、永遠に定まることは無いだろうと改めて理解出来てしまった。
人間を名乗るにはあまりにも、わたしは『あらゆる』恋に肯定的であり過ぎる。
魔女に成る前からそれは理解出来ていたはずだ。
いまそれを再認識しただけなのだ。
「……葉山、泣いてるのか?」
驚いたように顔を上げる玲。
「うぃ……、う、うん……、なんか、うん、なんか涙が出てきて……」
わたしは嗚咽を殺しながら玲の顔から視線を外し、ハンカチで自分の口元を押さえる。
自分でももうこれがなんの涙だかよくわからなかった。ただ、いま瀬河玲の顔を見てしまうと、もっと混乱しそうで、ヤバい。
「いやなんか……、瀬河君のお父さんの絵が……、長い間隠されていて、子供に、息子に見つけられるって、改めて考えたらすごいことだなって……」
口から出まかせでそれっぽい理由をでっち上げたが、それはそれでエモくて、また余計に涙が出てきてしまった。年取ると、涙脆くなってしまって良くない。
「いや、そんなんで泣くか……? 泣くのか……」
自分が理由で同級生女子が泣いてしまう展開に気の毒になるくらい戸惑ってしまう玲。
「あ……、うわ、それ聞いちゃうとわたしもちょっと……」
「えええ……、そっちもか……」
そしてわたしの出任せでもらい泣きしてしまった雪岡も、声を震わせながら恥ずかしそうに目を逸らした。
涙を流す女子二人を所在無げに見渡す玲の背後で、窓越しに見える雨雲の合間から降り立つような光が漏れ出ていた。
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