第三十六話 束縛を望む側






「取り敢えず今までの話を纏めてみますけど」

「はい」

「高津さんはひなと連絡を取り合える状態にある」

「はい」

「そのひなはいまはまだ旦那さんの元に戻るつもりは無いけれど、近い内に話し合いたいと思っている」

「そうですね」

「ひなは溌溂としていて元気そう。仕事もしている。そんな感じですよね?」

「はい、元気です」


 43歳で女子高生をやろうなんて体力とテンション、相当元気が無いと維持出来ない。少なくともわたしには不可能だ。


 長幸は深々と、脱力感のある溜め息を吐いた。

 掘り起こした恐竜の化石の巨大さを再確認するような、時間がもたらした途方の無さに対する溜め息。


「まぁ、要はひなの現状報告だけなんです。具体的に直ぐ何かが変わるって話では無いからこんなことでわざわざ呼んでしまうのも申し訳ない気がしたんですけど。ただいままで隠していたのも謝りたかったですし……」

「いえそんな、少なくともひなの現状を知れたのは凄く意義がありますし、面と向かって話さないとちゃんと伝わらないというのも何となくわかります」

「あはは……」

「多分なんですけど、高津さんの話から、ひなと高津さんが充実感を持って日々を過ごしているのが何となく読み取れる気がします」

「充実感、ですか?」

 わたしはちょっと驚いてしまう。


「いえ、単純にひなのことを楽しそうに話すって思ったもので、違います?」

「いや、そうですね、あの……、はい、楽しんでいる、と思います」


 長幸に勘繰られてしまうほどにそんな雰囲気が外に漏れてしまっていた事実に恥ずかしくなる。確かに、孤独が恋しくなるまではこのままでも良いかと思える程度には、楽しんでいたのかもしれない。


「ひなと一緒にいるときは、どこか、学生時代に戻るような感覚はあるかもしれませんね」

「そういう感覚って、最近は殆ど感じてないかもしれないなぁ……」

 長幸は、遠い景色に思いを馳せる風に呟く。


「学生時代の友達とは、会うことは無いんですか?」

「いや、会うには会うんですけど、あー……、いや最近ありました。会っては無いんですけど、ひな関連で色々電話して、色んな懐かしい相手と会話しましたね」

「あー……」

「そう考えると、嘘吐いちゃいましたね。学生時代に戻るような感覚、昔の知り合いと色々話をして、ちょっと思い出しましたよ。えーと、誰に電話したっけなぇ……」

「え、あ……」

「例えば、久瀬木乃香って覚えてます?」

「えと……、あ、あー、覚えています! ひなと仲が良かった子ですよね!」

「そう。いま子ども三人居るみたいですよ?」

「えー、大変」


 『過去の長幸の知り合い』の話題が出そうになったとき、わたしは一瞬かなり身構えた。長幸しか知らない人物の名前が出てきたら、この狭い個室の中に微妙な居た堪れない空気が充満するのではないかと思い、警戒させられた。

 ただ、その『久瀬木乃香』はわたしの記憶にも残っている人物で、居た堪れない空気の発生は予防された。


 その後も、奈智子の交友関係を中心に長幸が連絡したかつての同級生達の名前がいくつか出てきたが、長幸が注意深く話題の人選をしてくれており、居た堪れない空気の気配を感じずに話題を膨らませることが出来た。そもそも、半同棲の期間に、奈智子と学生時代の同級生達についての思い出話をちょくちょくしていたのでそれが丁度良い予習になっていたのもある。そしてそれと共に、長幸がわたしが知っていそうな人物をしっかり選り分けているらしいのだ。

 これが出来るということはつまり、それほど接点があったはずじゃないのに、当時のわたしの交友関係をある程度把握されていた訳で。

 

 やっぱりこう、『他人』に対する興味の色濃さが、わたしとは全然違う。

 たぶん『オトナ』になる前から、人と人の関わりにおいて大事なことについてなんとなく読み取っていたんだろうなと思わされる。


「……みんなの話を訊いていると、感慨深さ以上に、なにか生々しい時の流れを再認識させられて、自分の老いを感じさせられちゃいますね」


 かつての学友達の仕事や生活の現在についてを聞かされて、思わずそんな老け込んだ感想を漏らしてしまう。

 時の流れって怖いですよね、と長幸も和やかに笑う。


「高津さんは、その点、非常に伸びやかに生きているように感じます」

「え……」

「自分の生き方の芯のようなものがしっかりしていて、自由な力強さを感じます」


 多分褒めている、純真に褒めているのだろうし、『自立した女性』の自己プロデュースが成功しているのをかつての片思いの相手に認めてもらえるのは正直まぁ嬉しいのだが、この手の誉め言葉を素直に受け止められるほどわたしはもはや素直になれなくなっていた。


「あー、でも、伸びやかで自由な生き方も考えものなんですよ?」

「そうですか?」

「しがらみが少ないっていうのは要するに、しがらみからずっと逃げてきただけですからね。ひとりで自分勝手に生きている人生も、どうなのかなーって思うときはありますね」

「自由と束縛はトレードオフ、みたいな部分はありますね」

「そう、そんな感じです」

「高津さんは後悔しているんですか? 自由を選んだ人生に?」


 ……どちらかと言うと、能動的に獲得した自由ではなく場当たり的に行き着いた場所がいまの場所だっただけなのだけど。


「……別に、後悔は無いですね、いまの生き方には。と言うより、誰かと一緒に生きるみたいな人生がいまひとつしっかりと想像出来ない、と言いますか」


 長幸は、表情を変えずに眉毛をくいと持ち上げて、驚いたような表情を作る。

 コミカルな感情表現だなと、少し可笑しくなってしまう。


「それは……、男を一人に絞れないとかそういう話ですか?」

「いえそんな! そんな大したものじゃないですよ!」

 長幸のとんでもない勘違いにわたしは思わず笑ってしまった。


「その、仕事が充実していたのと、恋愛のリスク対効果の低さにどうしても納得出来なかったのが原因でして」

「リスク対効果?」

 興味深そうに呟く長幸。若干身を乗り出してさえいる気がする。


「教師としての仕事って、ヒト対ヒトの職業ではあるんですけど、問題が有れば数字なり項目なりで可視化される部分が多くて、それらに対する対処法もある程度確立出来ていて。

 教師側にしても生徒側にしても、それぞれの立場で求めているものや目的としているものが割と明白なので道筋が造りやすいんです。そこにやり甲斐を見出せているんですが……」

「……恋愛にはその道筋が見出せない、とか?」

「ええと、……ええ、そうですね。それです」

「お互いにゴールラインが全然違うとか、よくありそうな話ですよね」

「多分共通の目標が無いから、何をすれば上手くいくのか見出せないのが、その、面倒臭い」

「面倒臭い」

 長幸が、非常に楽しそうにリフレインする。


 我ながら、一体何を言っているんだ?


 かつての片思いの相手に恋愛に対するコンプレックスを披露するとか、あまりにも面倒臭い女が過ぎるのではないか?


 『自由で伸びやか』とか、不当な過大評価をされているようで居心地が悪くなってしまって、自分から余計な注釈を入れてしまっている。墓穴以外の何物でも無い。


 そう言えば以前の長幸との電話で訊かれてもいないのに自分で「独身だ」と明かしたときもに似たような心理状態だった気がする。

 どうも、期待されたくない気持ちが長幸に対してどこか働いてしまう。

 『正体』が悟られる前に自分から余計なことまで明かしてしまう。


「でもやっぱり、高津さんは自分から自由を選べる人だと思いますよ。憧れますよ」


 わたしの恋愛コンプレックスを聞いてもなお、長幸はそんなことを言う。


「私は、全然駄目ですね、そういう生き方。なにかしらかに繋ぎ止められておかないと無軌道にどこかに飛んで行ってしまいます」

「しがらみが必要な人、ということですか?」

「ええ。……絵を描く仕事において、やはり自分自身のイメージや衝動との対話は重心になるんですが、仕事や家庭のために必要だから、営為としての側面も無視出来ないモチベーションになる」

「必ずしも、見返りを求めず芸術活動をしている訳ではない……?」

「そこまで高尚なクリエーターには成れませんよ。家族が生活していくため、自分が構うべき利害関係者のために創作を続けている部分がどうしてもある。もしそういうしがらみが無ければ、今まで絵を描き続けて来られたかどうか、微妙だなって思った瞬間はありますよ」

「でもそれはつまり家族の存在を仕事へのモチベーションに出来るってことですよ。わたしにとっては、その方がよっぽどすごいと思えてしまいます」

「誰かに依存しないと自分の立ち位置を定められない脆さを感じてしまうことがあって、自立とか自由に、結構コンプレックスがあるかもしれませんね」

「……この話って、水掛け論になるというか、隣の芝は青く見えるっだけのような気がしてきましたね」

「わたしも、そう思います」


 長幸は小さく笑った。

 わたしも釣られて小さく笑ったのだが、若干引き攣った笑いになってしまっていた気がする。


「ですから、自分に適した生き方が出来ているならそれは正しいんですよ。高津さんが欲しかったものが、しがらみのない自由だったとしたら、それは尊重されるべきものだと思います」

「……でも、瀬河さんは自由に憧れとコンプレックスがある」

 わたしがイタズラ心を含ませながら呟くと、長幸はちょっと困ったような笑みで「そうですね」と同意する。


「それを思うと、ひなが一人で生きようとするのも、何となくわかっちゃう気がするんですよ」

「そう……、ですか?」

「家族は大事なのはもちろんなんですけど、それに並ぶくらいしがらみから解放されたい気持ちもあって、それが今回ふとした切っ掛けで解放されたい方に天秤が傾いてしまう。自分に置き換えての話なんですけど、ちょっと想像出来てしまうんですよね。だから、ひなの旦那さんから、ひなが家出したって聞いたときは、なんでって思う感じがあんまり無くて、『ああ、ひなはそちら側に憧れる人間だったんだなぁ』って内心どこか勝手に共感していた部分もあったんですよ」

「…………」


 そう思うと、緋山奈智子の生き方ははたして本当に『自由』と言えるのだろうか? まぁまぁ疑問だ。


 ……結局、わたしと長幸にとって、一番盛り上がる話題は間違い無く共通の話題である『ひなについて』だ。奈智子に関する話のときだけ、お互いに、何となく前のめりになっている気がする。




 結論を明かしてしまうが、この夜わたしと長幸の間には、何も無かった。


 わたしや奈智子が手にする自由(のようなもの)に対す憧れはそのまま、長幸の現状を守りたいとする意志に繋がっている、そんな理由なのかもしれない。


 ここでの会食を割り勘にしようとわたしが提案したら、長幸は一瞬悩んだあと、その提案を了承した。


 駅にて、電車に乗って帰る億劫さに耐えかねてタクシーで帰ることに決める。


 しかし長幸の家はわたしとは完全に反対方向なのでタクシー乗り場で分かれることになる。タクシーの後部座席に座るわたしに、長幸はドアの外から覗き込みながら「じゃあまた、ひなにもよろしくお伝え下さい」と囁かで柔らかい笑顔で告げる。はい、また……。とわたしも控えめな笑顔で返す。


 帰りのタクシーの中、街灯と疎らに営業している店舗の明かりを眺めながら溜息を吐く。


 何事も無かったゆえの安堵を多く含んだ溜息だった。


 そもそも相手は妻子持ちでありしかもわたしは息子が通っている高校の教員である。わたしに対して何かそういう関係を持とうなんて考えは、普通は持たない。理性で御するはず。

 わたしの方も、奈智子に変な風に唆されただけで別にそんなものを目的に長幸に会ったのではない。まぁ、一度腰を据えて話してみたい気持ちは大いにあったが。


 そして、会ってみてわかってしまったこともある。


 わたしが、女として意識されていたという点だ。


 言動の端々に、仄かだが確実に異性への興味と、こちらの心情を窺うような注意深さが見て取れてしまった。


 しかし、それは感じ取ったが、きっと長幸側からは何もアクションは起こさないだろう。長幸は、家族を大切に思う気持ちを持っているし、自身の平穏な日常を積極的に崩そうとするつもりはない。自由への憧れを持つのは、決して同じようにはならない自戒が染みついているからだ。


 可能性があるとすれば、わたしの方からアプローチするしかない。


 また溜息を吐く。

 なんか思った以上に長幸的に『アリ』だったっぽい高揚感と、こんなことを真面目に考えてしまっている自分への呆れを込めて。


 同年代の既婚者が魅力的に見えるのは仕方無いんだよ。慰めるように諭すように、奈智子が以前わたしに教示していた。


 だって、魅力的なものって他人が放っておくわけが無いでしょ?

 結婚している男の人って、異性を引く付けるに足る魅力があるって社会的に証明されている訳だし。


 わたしに泥棒になれって言うの?


 そこを気にしなくちゃいけないならいくつか手続きを踏むしかないけど、欲しいものを手に入れるために既婚とか未婚とか気にし過ぎると、たぶんなんにも出来ないよ?


 ……本当に奈智子は、身も蓋も無く好きなことを言ってくるよな。


 既婚者が魅力的に見えるジレンマは多分無意識化でぼんやりと理解していたが、奈智子に明文化されてしまったせいで純然たる事実としてわたしの常識下に君臨してしまった。





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