第三十五話 溌溂





 長幸に連れられ、カフェからそれほど離れていない場所にある商店街の入り口へ向かう。

 駅前直近のカフェですら目新しかったわたしにとって、その傍の商店街など未知の領域だ。長幸に全面的に任せる。


 それなりに人気の有る商店街を進んでしばらくしてから、長幸は横道に逸れ、路地裏に迷い無く入っていく。


 都市のバックヤードのような狭い路地を進み、落ち着いた和風然としたデザインの看板の立つ店へと入り入り口で店員に名前を告げた。予約していたらしい。


 通路の幅は狭いが、白の漆喰壁と和風モダンな内装で隙無く高級感が演出された店内を進み、掘り炬燵式の個室へと通された。少し狭いが程良く圧迫感は感じさせない密室で、これからこの部屋で長幸と二人きりになるのかと思うと、否応無く緊張させられてしまう。


「なんか……、想像以上に雰囲気のあるお店で驚いてます」


 素直に、驚きと微かな戸惑いを感想にしてみた。


 秘匿性の高い話を腰を据えて話す前提を踏まえて、丁度良い店を準備させて欲しいと提案されて、どんな店が良いかといくつか条件を絞ったあとは長幸に任せていたのだが、まさかこんな本格的なお店に連れて来られるとは思っていなかったので、どの程度の想定を持ってこういう状況になっているのか、内心測りかねてどきまきしてしまっていた。


「前から来てみたかった店なんですよ」

 長幸が照れ臭そうに笑った。


「来客を招いておもてなしするときに、相手やシチュエーションや立地とかに応じて良さそうな飲食店にアンテナを張っているんですけど、調べて興味を持ったけど使うタイミングが無いみたいな店も結構あって、いつか何かで理由を付けて行きたいなと思ってまして」

「あはは、今日がその丁度良いタイミングだったんですね」

「恐縮です。今日はお付き合いいただきありがとうございます」


 男性に会合をセッティングさせた上に感謝までされてしまった。

 相手に引け目を感じさせない作法なのではないかと思えなくも無いけど、正直悪い気はしない。


 お品書きのラインナップは魚料理を中心とした和食。中々強気な値段設定だ。

 お酒はどうします? と問われたので、じゃあ一杯だけ、と相手の様子を窺いつつ答えると、じゃあ私も、と特に含みも無く長幸は呟き、ビールを2杯注文した。


 ――小賢しいお膳立てを企てたのはこちらだ。


 金曜の夜が都合が良いと言ったのはこっちだし、この辺りの土地勘が無いから車を使わず電車で行くと言ったのもこっち。

 話の内容もお酒を入れないと中々難しいデリケートな問題だし、夜の飲み屋で会合をせざるを得ないように仕向けたのはわたしなのだ(そしてそれは、大部分奈智子の入れ知恵である)。

 こういうシチュエーションを用意せざるを得なくしたのはこちらなのだが、実際にこの状況を用意されてしまうと、本当にこれで良かったのかと、不安感に襲われてしまう。まぁ、わたしは独身ではあるけれど、妻帯者的にこの状況は許されるのか? と長幸に問いてしまいたくなる。やっぱり、わたしが無駄に意識し過ぎなのかな……!? これくらいは、オトナの社交の範囲内なのか!? わからん、大人同士の社交というのが全然わからん……!


 程無くビールが2杯配膳され2人で乾杯。

 お互いの仕事の極々浅い範囲での専門的な話を披露しつつ、魚のお造りに舌鼓を打つ。

 かつて片思いしていた相手にこんな大人の真似事みたいなことをするようになるとはほんの数か月前までは思いもよらず、本当に人生とはわからないものだと思う。


 ただ胸中にあるのは高揚感よりも緊張感で、それには、これから奈智子の現状について(ほんの少し、一部誤魔化しつつ)明かさねばならないからである。

 長幸がどんなリアクションをするのか、全く想像出来ない。イラストの依頼を受ける際の幾つかのパターンついて明かす長幸の口調も、どこか上の空で、わたしが『本題』に触れる瞬間を身構えているように感じられてしまう。


 だからまぁ、本題に入ることにしたのは、宴もたけなわと言える、料理もお酒も、ある程度堪能した辺りになってからだ。


「えーと、じゃあ、……そろそろ本題なんですけど」

 さり気無く奈智子の話題にシフト出来るような話の流れにはなりようが無さそうなので、シンプルに無理やり本題を提示する。

 穏やかな笑顔を浮かべて会話していた長幸も、その宣言に律義に真面目な表情を作る。


「わたし、瀬河さんにずっと嘘を吐いていまして。実は、ひなとはずっと連絡を取り合っていたんです。六月頃から」

「はい」


 非常に温和に、長幸は相槌を打つ。

 まぁ、会食を提案された時点で、ある程度は予測していたのだろう。


「今日まで話せなかったのはひなに口止めされていたからで、状況が状況だけにひなの言う通りにすべきだろうと思って。今まで黙っていてごめんなさい」

「いえまぁ、それは問題ありませんよ。必要だったから黙っていたんでしょうし。今日は、何故それを明かしてくれたんですか?」

「その……、ひなは、遠からず自分の夫としっかりと話し合わないといけないと考えているみたいですけど、どうしても踏ん切りが付かないみたいで。それで、長幸さんには旦那さんとの間を取り持って欲しいそうです。その、ひなが、心の準備が出来た段階になったら、ですけど……」

「それは、出来ると思うけど……」

 長幸は遠慮がちに顔を顰めて、わたしの言葉を検分するように呟く。


 いまひとつ、わたしの話がしっくり来ていないらしい。

 まぁ、大事な部分はほぼ全部誤魔化しているのだ。あやふやな掴み所の無い話にしかならないだろう。

 こんな状態で奈智子に唆されて長幸の前にのこのこやって来た自分に改めて後悔し始めていた。


「ひなの様子はどうです? 元気にしてるのかな?」

 努めて朗らかに、恐る恐る尋ねる長幸。


「……元気です。溌溂としているくらいに」

「溌溂……」

 ちょっと驚いた様子の長幸。


 ……表現が的確過ぎたかもしれない。


「最近、瀬河さんの展覧会を2人で観に行ったんです、丸の内でやっていた」

 そう言うと長幸は、ちょっと驚いたように、そして照れ臭そうに笑みを零した。

「はは、ありがとうございます」

「瀬河さんが絵を描く仕事をしていると知ったのが恥ずかしながらつい最近で、精緻でワクワクする素敵な作品がたくさん観られて、ひなと一緒に、愉しませてもらいました」

「……照れますね。そうかぁ、ひなとわたしの絵を観たんですね。こう、学生時代の知り合いにいまの自分の仕事を観られるのって、自分の隠していた内面を覗かれてるようで気恥ずかしい部分もありますね。まぁ、嬉しくはあるんですけど」

「あはは、先日文化祭でお会いしたときのわたしの気持ちも正にそんな感じでした」

 そう言うと長幸はそれは確かに、と寛いだ微笑みを浮かべた。


 うん、長幸の気持ちは良くわかる。

 奈智子に教師としての姿を見られているときの気分が、まさにそんな感じなのだ。


「……ひなとは、よく出掛けるんですか?」

「ああ、たまに。たまに食事に行ったり、買い物をする程度ですけど」


 奈智子と食事や買い物に行く機会はそれほど多くない。それは間違いない。

 しかし半同棲のような状態になっているのはここでは黙っておくことにした。


「変な意味じゃなくて、印象の話なんだけど、ひなと高津さんが今も連絡を取り合ってるのが結構意外でした」

 わたしは、神妙に相槌を打つ。


「高校時代でのひなの交友関係ってある程度把握してたつもりで、高津さんのことも記憶には残ってたんですけど、社会人になっても連絡を取り合うほど仲が良かった印象が無かったから、先日の電話貰ったときとか、いまの話訊いたときとか正直意外で驚いています」


 割と明け透けなその告白にわたしは曖昧に、しかし同意を示すような笑い声を小さく零した。

 いや全くその通りだ。

 なんで奈智子はわたしと同居なんかしようと思ったのか?


「あれ、高津さんって大学どこだったっけ? 確かひなと同じ外国語大学……?」

「ああ、はい、ひなと同じですよ」

「そうだよね」

「ああ、でもその頃は稀に挨拶するくらいの関係で」

「そうなんだ?」

 

 ……現状とはあまり関係無いどうでもいい話なんだけど、たまに居る『自分の同級生の進学先や就職先の情報をやたらたくさん持っている人間』の記憶力は一体どうなっているんだろうかと驚愕させられるときがある。わたしなら、別れた恋人の友人(しかも疎遠気味)の学歴なんて絶対覚えていない。

 他人に対して、しっかりと興味を持って接することの出来るタイプの人間なんだろうなと思う。少なくともわたしよりは。


「実は、どうしてひながわたしに連絡を取って、会いに来たのかよくわからなくて」

「そうなんだ……」


 ……女子高生として再び恋愛をしたいと願っているならば、かつての自分の痕跡があり顔バレの危険性が増す母校へやって来るのは大きなリスクのはずだ。現にわたしにはバレてしまった訳だし。

 しかし、奈智子には正体がバレるリスクを犯しても燐成高校に来る必要性が有ったのだろう。そして、そこには間違い無く瀬河親子が関係している。


「ただ予想は出来るんです。家庭がある知り合いには頼り辛いじゃないですか? わたしが一人暮らしなのを知っていて、頼りやすかったんじゃないかと思うんですよね」

「んー、なるほど……」

 長幸は、少し居心地が悪そうに頷く。


「消去法的な理由でわたしが選ばれたのはそうなんでしょうけど、まぁ、実際頼られて嬉しかった部分も有ったので、ずるずる匿う感じになってしまったんです」


 奈智子がわたしにコンタクトしてきたのは結局場当たり的な口止めだと思うんだけど、そこから半同棲に繋がる経緯はわたしが披露した適当な考察が、正直それなりに的を得ていると思う。


 どうにも、奈智子は心の拠り所を求めてしまう人間だと思える。

 わたし自身がこの頃いい加減孤独に飽き飽きしているので、わたし自身と奈智子の境遇を重ね合わせてしまっている部分もあるのだが。

 

 それが選び取った孤独だとしても、飽きてしまうときは飽きてしまうのだ。


「……避けては通れない問題なので先にぶっちゃけて訊いてしまいますが」

 非常に言いにくそうに恐る恐る前置きをする長幸。


「はい」

「ひなの交友関係ですね。男の存在を疑っているんだけど……」

「あー……」


 うん、どう答えたらいいか悩む質問だなこれ。もし素直に事実を言わねばならないとしたら物凄く嫌な質問だ。


「いえ、わたしが知る限り男の存在は無い、ですね。不倫とかでは、無いです」

 これは、咄嗟の嘘ではなく、奈智子が用意した『設定』に沿った返答だ。


「もちろんそういうのを隠している可能性もありますけど、わたしが知る範囲では、ひなが家出した理由は、ひなが旦那さんへのお手紙に書いた通りで間違い無いと思いますよ」

「……『奥さん役が出来なくなった』」

「ある種、不倫を暗喩しているような言い回しですけど」

「……はは」

「実際はどちらかと言うと、自分の人生の在り方とか生き方とかを見詰め直したい的なニュアンスっぽいですね」


 実際、『奥さん役が出来なくなった』『人生や生き方を見詰め直したい』から家出した、というでっち上げられた理由は少なからず奈智子の本心を部分的に表しているのではないかと思う。


 ただしかし、長幸が予想した『不倫』の疑惑はほぼ正解である。

 その対象が25歳以上年下の高校生だとは予想が付かないだろうし自分の息子もその歯牙に掛けようとする素振りを見せているなど、思いもよらないだろうけれど。


「……具体的に、何をしているのとかは訊けたり?」

「あー……、何か翻訳? の仕事をしてるらしいですけど、これも詳しいことは口止めされてるんですよね。仕事の繋がりで所在がバレてしまうのを嫌がってるみたいで」

「ああ……、徹底してるな……」

「そもそも、わたしもあんまり詳しく教えてもらっていないので……」


 そう、詳しく教えてもらっていない。「広義には翻訳の仕事もしている」と本人は言っていたが、具体的に『何を』翻訳させられているのかは訊かされなかった。想像も出来なかった。


 『日本魔術会のフィクサー』とやらが奈智子のスポンサーをしているらしいが、後援してもらう見返りに奈智子が何をしているのかはわたしは全く知らないし見当も付かない。しかし、奈智子が自分の生活の範囲内でお金に困っている様子は無い。自分の欲しい物には自分でお金を出すし、食事はいつも割り勘。半同棲に際して生活費を一部貰ってさえいる。



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