第三十四話 お花屋さん





 わたしが、瀬河長幸に片思いしていたときの思い出。


 学生時代を遠く彼方に見送り、教育関係の仕事を20年強努めてきた今になっては、それはもう、『片思いしていた』一文だけしか記録しているだけのものでしかなく、具体的な思い出、わたしがそのとき何を感じ考えていたかなんて殆ど記憶から抜け落ちていた。

 なんなら、瀬河玲や緋山奈智子の姿を目にするまで、その片思いの記録すら頭から抜け落ちていたレベル。


 緋山奈智子との半同棲生活は、わたしのその、長い間眠らせていた脳内の配線を繋ぎ直すような日々で、奈智子の恋愛や学生時代に関する諸々を訊かされるたびに、彼方に忘れていた古い記憶が呼び覚まされていくようだった。


 ただしかし、断片的に思い起こされる高校生:瀬河長幸がサッカーをしたり学生生活をしている凛々しい姿よりも、奈智子とのツーショットの方がより深くわたしの記憶に刻まれているような気がする。

 肩を寄せ合いはにかんだように笑い合う、初々しいけど洗練された美男美女の風景の方が、長幸単体の記憶よりも圧倒的にインパクトが強い。


 その理由は、それがわたしの失恋の具現化であり、単純に奈智子と長幸の麗しい様子に見惚れてしまっていた点にある。

 当時の、奈智子と長幸が織り成すカップルとしての在り方が年頃の少年少女が夢見る理想として完成され過ぎていて、周囲の思春期の少年少女達にたぶん多分に様々な影響を与えていた。


 その在り様は、わたしの人生とか恋愛観にも大きな影響を与えていて、奈智子と長幸のカップルが恋愛のサンプルケースとして深々とわたしの情緒に刻まれ、「自分はあんな風になれない」と、不甲斐無い自分の有様や人付き合いの下手さ加減と理想の中の二人を比べてしまい、色恋沙汰に踏み出せなくなってしまっていたという訳だ。


 ……緋山奈智子という完璧な少女に失恋させられた記憶、奈智子と長幸の完璧なカップルの記憶。それらが無ければ恋愛に対してコンプレックスを抱かずに恋愛とか、結婚とかスムーズに出来ていたのか?

  まぁ、そもそも恋愛や結婚を人生から遠ざけてきたのは完全に自分の欲求の問題であり、それらに仕事ほどのやり甲斐は感じなかったし、わたしの人生に、それらに腐心する時間的・精神的余地があったとはどうしても思えない。


 しかしそれでもひとつ考えてしまうのは、奈智子と長幸の存在を知らず、自分の今の生活に対する言い訳として存在していない状態だったとしたら、もしかしてわたしの人生はもう少し違った可能性があるのではないかという想像。


 まぁただ、美しいものを知らないからこそ劣等感を抱かない人生なんてのは、あまりにも惨めでつまらなさそうではあるけれども。






 そんな訳で、瀬河長幸と再び会う約束を取り付けた。


 塩焼きそば(+お好み焼き)による会食と展覧会による情報収集(?)を経て、奈智子と打ち合わせをし、長幸と連絡を取った。


「ひなについて話をしたい」

「でも、電話でするには抵抗がある話だから、直接会って話がしたい」

 というようなことだけ伝える。


 詳しくは電話越しには話せない、みたいな空気感を存分に発散していたのは充分伝わってはいたと思うが、「ひなの現状は、今は訊かない方が良いのかな?」というような質問をダメ元の空気感で投げかけてきたので、「はい、そうですね、会って話した方が」と遮る。

 長幸の方も、それであっさり引き下がってくれた。


 待ち合わせ場所は燐高の最寄り駅から電車で十数分先のそれなりに大きな駅。


 燐高からはそれなりに遠い地域で、この辺りから通学している生徒は割と少なめだが、生徒達が休日などに少し遠出をして遊びに行こうとする際によく目的地として利用されているスポットではないだろうか? 少なくとも、わたしが学生の頃はそんなポジションとして認知されていたと思う。


 交通費という金銭的制約を気にしないほど財力を得た現在では、この駅周辺は最早『地方の繁華街』でしかなく、地元ほど便利でも無く都心ほど華やかでもないこの駅はいまとなっては買い物にも行楽にも中途半端で、いまやわたしにとっては特に顧みる必要の無い地域になってしまった。


 待ち合わせ場所に指定された駅のすぐ傍のカフェのチェーン店に入店。

 わたしが記憶する範囲では、高校時代以来この駅には下車した記憶が無いので、こんなカフェが建っていた記憶が無い。


 こんなカフェは無かったと断言出来るが、カフェの以前にどんな店が営業していたかは、完全に記憶から欠落している。


 この、再開発された馴染みの駅周辺のかつての姿がどんなものだったか全く思い出せなくなる現象、この駅よりもよっぽど使用頻度が多い燐高の最寄り駅でさえしばしば起こる。


 十一月に入ってから長雨の日が続いていたが、今日の夕方は運良く雨は止んでいた。しかし冬が近付く季節の雨上がりは肌寒さを感じさせ、ちょっとだけ暖房の入ったカフェ店内に内心ホッとさせられた。

 わたしの入店を見止め居住いを正す店員から視線を逸らし店内を見渡すと、窓際の二人掛けの席でコーヒー片手にスマートフォンを眺めている長幸を目にした。


「お待たせしました、瀬河さん」

 席の傍まで歩み寄り、途中で気が付いて視線を上げた長幸。

「いえ、私も、さっき着いたところですよ」

 そう言いながら席を立ち、「どうぞ」とわたしに着席を促す。長幸に起立させてしまったのを申し訳無く思いながら少し笑い、わたしは長幸の向かいに座る。


「この辺に来たの、随分久しぶりで、こんなお店ができていたんですね」

「ああ、駅前一等地なのに随分長い間空き家で、このカフェができたのもまだほんの4、5年くらい前です」

「その前って、どんなお店が建ってましたっけ? ど忘れしてしまって」

「確か……、花屋がありませんでした?」

「あ、あー! ありました! はい、そう言えばそうですね!」


 それからしばらく、長幸がどうしてこのお店と土地の変遷を知っていたのかという話から、お互いの現住所についての話題が少し続いた。

 長幸は、駅最寄りのショッピングモール目当てでたまにこの辺を散策していたらしい。もっとも、息子:玲が成長して思春期に入ってからは家族で出掛ける機会は少なくなったと、努めて朗らかに笑うが。

 ……なるほど、家族で行動する前提ならわたしと行動範囲が違うのも納得だ。


 長幸がいま住んでいる場所は、車を利用する前提で考えれば割と近い。

 実家から少し離れた場所に居を構えている点ではわたしに似ているが、長幸の場合、奥さんの実家に近い場所を選んでいるようだ。……嫁・姑問題を未然に防いでいるのだろうか? と口にしてしまいそうになったのを辛うじて堪えた。


 長幸の服装は文化祭のときに似た、整った着こなしのスラックスとジャケットスタイル。ただジャケットは冬が近づいてきたからか少し厚手のモノに変わっている。

 この如何にも仕立ての良い『大人の男性』として歳を取った長幸の姿には、どうも違和感を拭えない。高校生の長幸と今の中年に至った長幸が、どうしても一本の時系列の上で繋がらない。体付きに中年的な贅肉も見られず、顔立ちも相変わらず浮足立ってしまいそうなほど整ってはいるけれど。


 多分、息子の瀬河玲の方にかつての高校生:瀬河長幸の存在を重ねてしまっている部分があるので、現在の洗練された大人としての瀬河長幸を見てしまうと、何故か『瀬河長幸の父親』というポジションがしっくり来てしまう。身勝手なカテゴライズだ。


 斯く言うわたしの服装はタイトスカートのスーツ姿といういつもの教師スタイル。  

 もう少し私服寄りのファッションでここに赴くプランも考えたが、一度家に帰ってスーツから私服に着替えるのも何か可笑しな気がするし、スーツ以外の服で出勤して生徒や先生方に有ること無いこと勘繰られても中々面倒だ。

 奈智子は「みのりぃのスーツ姿なら男の人的には全然アリだよ!」と無責任に熱弁していたが、まぁアリかどうかはともかく、過度に準備している印象を与えたくないし与えるべきではないと思うので、如何にも仕事終わりついで感を出すための、スーツ姿である。


 近況についてある程度盛り上がったが、今回の主題はそれではない。狭い店内に客は多く、込み入った秘匿性の高い話をするにはあまり向いていない。


 店を変えましょう、と提案する長幸に同意し、2人カフェを離れる。



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