第三十三話 美術部員
「いえ……、お喋りするのは全然問題無いんですけど……」
玲から謝罪された女子生徒(たぶん美術部部員)は逆に会話を邪魔したことを悪いと思っているらしく、恐る恐るといった感じだ。
「その……、会話が断片的に聴こえてしまって……」
「あ……、はは……」
玲は、ちょっとバツが悪そうに笑う。
「その、お父さんの絵を探している、みたいな話をしていた、よね?」
「あ、うん……」
「……もしかしたら、瀬河くん? 三組の……?」
おずおずと尋ねる女子生徒に「うん、そう」とハッキリと頷く玲。
不意の女子生徒の出現に一瞬戸惑った玲だが、そろそろ割と平静を取り戻し始めている。
ただ、急に現れた女子生徒にどう対処するべきかまで考えが及ばず、女子生徒の出方を伺い口を噤むのだが、女子生徒の方も似たようなスタンスだったらしく、一瞬、場に変な沈黙が発生してしまった。
「瀬河くんのお父さんがこの高校の卒業生で」
すかさずわたしは間に割って入った。
「美術室に在校中に描いた絵が保管してある可能性があるんですけど、調べられませんか?」
驚いたような表情で玲がわたしを見たが、わたしは気付かない振りをして女子生徒に視線を向け続けた。
女子生徒は困ったように眉間に皺を寄せてから
「……ちょっと調べてみる。良ければ、部室に入って」
そう言いながら、女子生徒はわたし達を美術室の中へと通した。
美術室の中にはアクリル絵の具の匂いが充満している。
体調の良いときは良い匂いに感じそうだけど体調の悪いときは吐きそうな匂いだなこれ。
ちなみにいまわたしは体調は良いが、長雨による湿度上昇で絵の具の匂いにエグ味が増していた。
教室の面積は普通のクラスの教室の二倍ほどあり、美術室の中は異様に片付いていて、テーブルと丸椅子、折り畳み式のイーゼルはまとめて教壇の反対側に追い遣られ片付けられている。入り口の反対側の壁に流し台が並んでいるのも他の教室に無い特徴だろう。
若い頃も、現在も芸術科目の選択は書道であるわたしは美術室に入った経験は数えるほどしかなく、きょろきょろと室内を観察してしまう。
女子部員の子は、端に仕舞われた丸椅子を二脚持ち上げ、作業台を兼ねたテーブルの傍に配置した。
テーブルの上に置かれているのは一台のノートパソコンと数冊の古いノート。……何故か、絵を描くための道具はそこには見当たらなかった。
女子生徒に促され、用意された二脚に腰を下ろすわたしと玲。
「ええと、まず自己紹介を。わたしは一年四組の雪岡久音って言います。美術部の部員です。始めまして」
妙に形式ばった丁寧な自己紹介をされる。そして、一瞬の沈黙と促すような眼差しを寄越されたので、わたしの方から返答する。
「わたしは一年三組の葉山ひな。それからこっちは、三組の、瀬河くん」
「瀬河、です……」
まぁ、雪岡さんの方から玲の名前を呼んでいたので必要無いだろうと思いつつも一応付け加える。玲も、一礼を添える。
「その……、瀬河くんのお父さんって、『瀬河長幸』だよね? 画家の……」
「ああ、そうだよ」
恐る恐る確認する雪岡に淀み無く首肯する玲。
まぁ、美術部部員なら『瀬河長幸』のことやそれに付随して『瀬河玲』のことを知っていても何も不自然ではない。
「その、瀬河くんのお父さんの作品がもしかしたら美術室に保管されてるんじゃないかと思ってるんだけど、実際どうなのかなぁ?」
「んー……」
とりあえず訊いてみると、雪岡は感情が微妙に読み取れない呻き声を上げながら、卓上のノートパソコンに手を伸ばす。
「ええと、『瀬河長幸』って本名で良いんだよね?」
温和だが直向きさが滲み出る口調で玲に確認する雪岡。
ストレートの黒髪を耳で掻き上げ、眼鏡を掛けた眼差しでノートパソコンの画面を見詰める様子は、なんだか隙の無い印象を急に与えてくる。
「ああ、本名だよ」
「当時のペンネームとかがわかるなら探しやすいかもなんだけど……?」
「いや、ちょっとわからないな」
雪岡は小さく首肯し、ノートパソコンに文字を入力する。
しばし画面を眺める雪岡は、不意に困ったような笑顔を作る。
「ごめん、実は前にも個人的に検索したことがあるから何も出てこないのはわかってた」
そう苦笑いしながら雪岡はノートパソコンを半回転させディスプレイをわたし達に向けてきた。
簡素なホームページのような画面に映されたリストには何の文字も表示されていなかった。
「……このパソコンに、これまでの美術部員の作品が全部記録されてるの?」
「ううん、全部じゃないよ。これは美術室で管理している作品をデータベース化してあるものだから製作者が持ち帰った作品は載ってないの。あとそれから、データベースに入力し切れていない古い作品とかは分類されてないまま準備室に放置されてたりする」
「なるほど……」
わたしと玲は神妙に美術部員の話に頷く。
「その、瀬河長幸、さんが何年頃にその絵を描いたのかとかって、わかるかなぁ?」
雪岡が恐る恐る尋ねると玲がぎくりとしたように表情を歪める。
「いや、いつかはわからないな……。そもそも本当に美術部に作品があるかもわからないし」
「あー……。瀬河長幸さんの年齢はわからない?」
「うわ、何歳だっけ、覚えてないな……」
43歳である、わたしと同じ。ちなみに5月6日生まれ。すかさず玲に教えてあげたかったけど、もちろんわたしは黙っていた。
雪岡はいつの間にかスマートフォンを取り出してきびきびと操作している。
「あった、瀬河長幸……、1980年生まれだから……、高校生だったのは96年から98年か……、あー、うわー……」
Wikipediaかなにかで長幸の生年月日を調べたらしい雪岡は露骨に困ったような表情を作って呻いた。
「どうした?」
「……この頃の作品って、作品の管理状況があんまり良くない時期で。
美術室に保管してある作品をデータベース化してパソコンで管理し始めたのが2000年に入ってからで、それ以前の作品の管理はかなり抜けが多いみたいなの」
「そうなのか?」
「そもそも90年代ってパソコンを教育機関に導入し始める直前みたいな時代だから。アナログデータとデジタル化の狭間みたいな時代なんだよ」
「へえ、なるほど、そもそもパソコンが無かったのか……」
この若者達の古い歴史を紐解くような会話にわたしは密かに怖気を感じていた。
そうなのだ、今の若い子達にとってはコンピューターが身近に無い状況の方が異様なのだろう。
わかしが学生時代の頃に『コンピュータールームが近々作られる』みたいな話を当時の先生がしていた記憶があるのだが。
ジェネレーションギャップに寒気を覚えざるを得ない。
「……パソコンに記録される前のデータとか、目録とかって、別で残っていたりしないの?」
「……学生の作品をコンピューターで管理する前ってさ、結構管理の仕方にムラがあるみたいで。時期によってはかなりしっかり記録してあったり記録が歯抜けだったりまちまちなの」
「でも、美術室の前に飾ってある絵は古いのも結構多くない? それこそ、瀬河くんのお父さんより前の生徒の作品とか。生徒の名前とか年代とかちゃんと書いてある」
「あ、葉山さん結構美術部の作品を観てくれてるんだぁ。嬉しい」
そう言うと雪岡はふんわりと柔らかに笑った。
……美術部作品の管理についての話をしているときはキリっと隙の無い印象を受けるのに、急に温和で柔らかい一面を覗かせてくる。
「それが『ムラ』なんだよね。時期によっては製作者とか製作期間とか掲示の許可とかちゃんと残っている作品もあるの。そういう作品はちゃんと製作者さんの名前を載せつつ掲示出来るんだけど、それとは別に、誰がいつ描いたのか全く分からなくて準備室の中に仕舞われたままの作品も結構ある」
わたしと玲は黙って頷く。
玲は、『父親の作品』の存在の有無が明確にされないモヤモヤした状態にちょっと苦々しそうな表情を浮かべている。
「その、瀬河くんのお父さんの作品、それどういうものかって具体的にわからないかなぁ? キャンバスのサイズとかわかればかなり探しやすくなると思うけど……」
「いや、それなんだけど……」
雪岡の問いに、玲はかなり申し訳無さそうにここに至った経緯を説明する。
存在する絵の存在自体曖昧であること、子供の頃の記憶と現在の長幸の様子に齟齬があることの二点。成り行き上美術室関係者に相談している形になっているが探している根拠が非常に希薄なのを玲はかなり恥ずかしそうにしている。
「なるほどぉ……、途中で言ってることが変わる親かぁ……」
含羞を帯びた玲の説明に、雪岡は丁寧に頷く。
しかし、彼女が本来帯びている温和そうな性質と声色のせいで、どこか真剣味の無い柔らかなニュアンスを含んでしまう。
まぁ、そう感じるだけで本人は真摯そのものだと思われるのだが。
「……『子どもだからわからないだろう』みたいな気持ちで物心付く前の子どもにかなり核心的なこと教えちゃうケースって、たまにあるよね」
「何も知らない子どもの前だけで、犯した罪を告白するみたいなやつだ」
わたしが面白がって便乗すると、玲が困ったような表情で苦笑いをする。
「ああ、ごめん、お父さんが悪いことしてるみたいな言い方、良くないよね!」
雪岡が慌てて謝ると、「いや、オレもそういうつもりで言ってるから、問題無いよ」と柔らかな笑顔で返す。
大人の男みたいな表情するじゃん、中々良い。
「もう少し調べてみようと思うけどわたしの直感だと多分記録からは見つからないなぁ……」
「いや、そもそもあるかどうかもわからないからな……。無理しなくても大丈夫だよ?」
宥めるように声を掛ける玲に対して真剣に思い詰めた様子の雪岡。
ただその思い詰め方は、「何としても瀬河長幸の絵画を見付けよう」という決意よりも、なにか別の思惑について考えを巡らせている意図が読み取れた。
「その美術室準備室の片付けってさ」
わたしは、どうにも進まなそうな話に、切り込んでみることにした。
「わたし達で出来ないのかなぁ? 分類されていない作品からついでにお父さんの作品を探すの」
能天気気味にわたしが提案してやると、玲は興奮と困惑が入り混じったような複雑な表情でわたしを見た。
「や、それ……、それは大丈夫なのかな……? 絵画の取り扱いとか、結構難しいんじゃね……?」
「それは……、あるだろうけど。でもどの道放置されているような作品なんでしょ? そのままにしっぱなしもそれはそれでダメじゃん」
そんなことを言いつつもわたしも玲も、ちらちらと雪岡の顔を窺った。
部外者の不用意な提案に困惑している、というような様子は特に無く、むしろ逆に、目を細めて意識を集中させ、考えを纏めているような雰囲気があった。
「ちょっと、顧問に相談してみないとわからない」
そう口にする雪岡の声色からは、興奮を押し殺しているようなニュアンスが読み取れた。
「いいのか? オレの親父の絵が有るかもとか、なんの信憑性も無いよ?」
予想外の流れに玲は慌てて、改めて念を押す。
「いや、それはいいんだよ? そもそも元々、準備室に正体がわからない絵が放置されているのはどうかと思ってたし。
それにさ、万にひとつでも宝物があるかも知れないなら、ただの片付けでもモチベーションが湧くでしょ?」
そう柔らかな中に上気した気配を滲ませ、雪岡は勇ましく笑顔を見せる。
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