第三十話 雨の繭
この年の11月中旬は雨が多い。
折り重なる台風の襲来とそれに伴う発達した低気圧で最近は青空をあまり目にしない。
深く黒い雨雲と頻繁に訪れる長雨は文化祭を終え脱力感に包まれた生徒達の心身に重く圧し掛かる。雨が運ぶ、しんと染み入るような冷気が、やがて訪れる冬の気配を帯び始めていた。
そんなある日の放課後。
雨が降り続く中でわたしは下足室で足を止めていた。
真夏のスコールほどでは無いけれど小雨とも言えない、傘が無ければ一分も経たずにずぶ濡れになりそうな絶え間ない雨。
朝から昼にかけてはたまに小雨が降る程度の曇り空だったが、放課後が近付くにつれて雨は本格化し、下校する学生達に意地悪に降り注ぐ。
わたしはそんな雨の中、校舎の内側、下足室から外の風景をただただ見詰めていた。
雨に包まれた、無人のグラウンド。
『雨』というのは、一種の結界だと、わたしは思っている。
結界の定義が、外と内を分かつ境界線だとするなら、雨は間違い無くその要件を満たしている。
外と内を絶対的に分けるほどに強力なものではないが、例えば神社やお寺の低い柵や目隠し用の樹木、『関係者以外立ち入り禁止』の看板、子ども達が無邪気に白線で引いたドッジボールの陣地。それらが持つ、無に等しいが確かに籠められた『魔術的な』意味合いを『雨』は確実に有している。
雨のせいで外の景色が見通し辛いとか、外に出掛けるのが億劫だとか、それらは立派に結界としての効用だ。
雨が外と内を分かち、学校を、閉じた箱にしている。
……まぁそもそも、『雨』の存在は余りにも人類史に根差し過ぎていて古今東西で神話・魔術の根幹に深々と接続している。
雨降りを『結界』と解釈するのは飽くまでわたしの持論、多分間違いなく他の魔法使いに訊けば全く違う持論が返って来るだろうし、わたしの考えを否定する者も現れるかもしれない。
とは言うもののわたしは他の魔法使いと言えば『師匠』と『芦間耀』の二人しか知らないのだが、ある程度わたしの持説を肯定されつつも別の理論体系・雨と人間との間に育まれた人類学だの神話だの魔術の歴史だののちゃんとした学術的研究成果を持ち出してくるだろう。
この場合、何より重要なのは、術の渦中にあるわたし自身が『雨は結界である』と信じている点だ。
魔法とは、世界の認知の独善化である。
科学や神話など世界を形造するルールから、自分の都合の良い部分とピックアップし、独善的解釈でもって自分だけの『魔性』の『法』を創る技術。
わたしが『雨が結界だ』と信じているなら、それを補強する手段を森羅万象から搔き集めてわたしだけの魔法にすれば良いのだ。
現にいま、この学校は、こんなにも『雨』に閉じ込められている。
学校の外側の風景、雨の幕の中にあるグラウンドは昏い水底のようで、人の気配は無い。
雨の結界に封されたこの校舎は間違いなく、いまわたしの手中にある感覚を感じ取っていた。
……このとき、既にこの学園で結界を張って何かしらかを画策している魔法使いなり妖怪なりが居た場合、違う意図を持った結界同士が干渉してしまいちょっとややこしいことになるらしいのだが、そういう同業者が居ないのはすでに確認済みだ。前に似たような結界を試している。
まぁこの結界、わたしの感度をやや上げる程度のおまじない的な意味合いしかない。結界と呼ぶにはあまりにも稚拙過ぎて、無いよりマシの気休め程度。
そもそもたぶん、わたし自身魔法使いの呪いや魔法をあまり信用していない。
わたしの若返りは魔法の成果以外の何物でも無いのだが、結局、普通の『ヒト』が『ヒト』に掛ける呪いや魔法の方が圧倒的に強力だとわたしは、強く信じている。
雨の音に耳をすませながら、わたしの目を閉じ、手中に納まった学校校舎を知覚する。
さながら自分の心音を聴くような、心の奥の願望に向き合うような感覚。
見つけた。
予定通り、欲しいものはすでに揃っている。
あとは、微調整を加えるだけだ。
わたしは深く息を吸い、土に還る前の木の葉のような匂いを身体に取り込み、また目を開く。
そして強く自分に言い聞かせる。
わたしはこの高校の生徒で、16歳の女子高生としてこの場所に立っていることを。
「よし」
節目の言霊、転換点の明示、わたしは自身を叱咤し、下足室から踵を返し、教室へと戻った。
「あれ? 瀬河くん?」
「おお? 葉山か」
わたしが教室に入ると、瀬河玲がひとり、帰り支度をするでもなくボンヤリと窓の外の雨の風景を眺めている姿に出くわした。
「えー、部活?」
因みに今の時刻はまだ午後四時前。部活の終わりにはまだ中途半端な時間だ。
「一応そうかな。今後の活動予定みたいなんかの連絡に呼び出されたんだけど連絡だけで、その後しばらく部活の同級生と駄弁ってて」
「あー、そっか、雨だから練習出来ないもんね?」
「そういうこと」
「でも雨の日も廊下で筋トレしてるときとかない?」
「ああ、やることはあるにはあるんだけど事前の許可が必要らしくてさ、毎日は出来ない。他の運動部も外で活動出来ないからな」
「あー、取り合いなんだね、廊下の」
「つか、廊下で筋トレする日はグラウンドの練習と比べて圧倒的に出席率が低くてさ、ローテでずる休みするみたいな空気になってる」
「あー、ははは、うわー……」
「葉山はどうしたの? 帰宅部だろ?」
「あー、なんかね、帰るタイミング逃しちゃって」
「なにそれ?」
わたしはさり気無い動作で玲の傍まで移動し、最寄りの机に腰をもたれさせ、玲の見ていた雨の風景を眺める。
「雨が想像以上に酷くてさ、ちょっと帰るのを躊躇ってる最中」
「傘が無い、とか?」
「いやそうじゃないんだけど、もうちょっと雨の勢いが弱くなってくれたら帰りやすいと思ってるんだけど中々弱くならない……」
「あー、いやでもこの雨これから止むかなぁ……?」
かなりハッキリと、雨音が4階の教室まで伝わってきている。その音も内と外を隔てる幕になり、わたし達のやり取りも幕の内側に完全に押し留めているようだ。
「瀬河くんはどうしたの? なんか、窓の外ずーっと見てたよ?」
「いやー……、そうだな、オレも葉山と似たような気分だったな。雨の中帰るのダリぃなって思ってた」
……それは、もしかしたらわたしの規定した『結界』の効果かも知れない。
結界内の内情をやんわりと知り、特定の相手をやんわりと閉じ込める。
強い意志があって帰宅しようとする相手には効かないが、雨が過ぎるのを待とうかどうしようか悩んでいるような人物にはある程度効果がある。
でもそれほど絶対的な効果は無いので、『わたし自身』を使って引き留める。
「男子って、雨にも平気ってイメージがあるな。土砂降りの中わーっと駅まで駆けて行っちゃうとか」
「まぁ、メチャクチャ急いでたらやるけどさ、つかそれって男子限定のもんか? 女子も普通にやらない?」
「女の子はダメだよ。シャツ透けちゃうとヤバいじゃん」
「……確かにな。まぁ、でもたまに見る気がするな……」
「えー、透けてるの見てんじゃん」
「え、いや違う違う雨の中傘も差さずに走ってる女子の話! 透けるとかの話じゃないから!」
「あ、そっか、そうだね、あはは」
そうか、傘を差さずに雨に濡れるのとか気にせず駅なり家なりに走れるとかある種の若さだよな。羞恥とか服がダメになるとかちゃんと気にしてしまうからな、大人になったら。
脳裏に、ずぶ濡れになって家に帰ってきた息子の姿が一瞬フラッシュバックした。
家の中が濡れないように玄関でバスタオルでもって息子の髪を拭いたシーンを何故か思い出したが、そのときのわたしは笑っていたのか身体の心配をしていたのか怒っていたのか、その全てだったのか、上手く思い出せなかった。
たぶんその一瞬脳裏に浮かんだ光景、息子の髪を拭いてやっているシーンをもう二度と思い出さないだろうと予感を感じた。
「どうしてたの、今まで?」
目の前の現実の男子高校生、玲がわたしに尋ねてくる。
「んー、自習室で少し宿題をやってたんだけど、それも飽きちゃって、ぶらぶら散歩してた」
「散歩……」
「雨の放課後って結構雰囲気好きだよ? 吹奏楽部の練習の音の反響の仕方とかいつもと違う気がするし、雨の匂いも好きだな」
「随分、風流だな……」
「あはは風流! 風流かなわたし! そんな大したもんじゃないよぉ」
高校生男子の前で子供のように振舞う背徳感に、在りし日のわたしの姿は頭の奥の引き出しの中に丁寧に仕舞われていった……。
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