第二十八話 曇天
喧騒の文化祭が終わり一週間が過ぎようという頃。
わたしはひとり、都内の駅近辺のビル群の谷間をスマホ片手に歩いていた。
異様に清潔感のある街並みと威圧感の有る巨大なビル、わたしにとってあまり馴染みの無い景色の中を彷徨う理由は、瀬河長幸の個展を観に行くためだ。
文化祭の振り替え休日、塩焼きそばとお好み焼きを食べに行った直後から、奈智子との話題の中心は、「長幸と次に会う状況をどのように作るか」についてが大半となった。
とにかく奈智子が異様に楽しそうだった。
わたしもそんな奈智子の様子に流される、ようなことにはならないように極力冷静を装う。
確かに長幸との再会にちょっとわくわくしてしまっているのは認めるけど、学生時代に残してきた淡い恋心にいまさらしゃしゃり出てこられても、それに対して本気になれるような無邪気さは、わたしにはもう無い。
そもそもあっちは既婚者である。
そんな相手に本気になれるはずもないだろう、と奈智子にも一応念を押してみた。
「みのりぃが本気にならなくても、長幸くんの方が本気になるかも知れないけどね」
などという意見を返されてしまった。
「それは……、ちょっと長幸さんに失礼じゃない?」
「んー、でも全然有り得なくは無いと思うけど?」
他人事だからか、随分いい加減だな……。
「まずさ、みのりぃの『とりあえず親しくなりたい』って気持ちを大事にするべきなんだよ」
「……まぁ、うん」
「実際にまた会ってみて、自分がどう感じて、あっちがどうリアクションしたかでまたどうするか決めたら良いじゃない。とりあえず、欲求を満たしてみようよ」
……若い感性だから選べる選択肢だな、と思ってしまった。無邪気で、怖いもの知らずだ。
年齢を重ねると、環境や他人の感情の向けられ方の変化に忌避感を覚えてしまう。
奈智子が実年齢に逆らっているのは見た目だけでなくその精神性にも及んでいるように思える。肉体や環境に精神が引っ張られているのかも知れない。
そして、そんな奈智子の在り様にたぶんわたしも引っ張られてしまっているのだ。
……スマホの地図を頼りに、ビルの合間をアミダくじのように進む。
不意に視界が拓け、ビルの谷間に広場のようなスペースが現れる。
スマホの地図にも同じ広場を見止め、周辺のコンビニエンスストアの位置関係も確認し、この広場を擁するビルが、個展の会場だと確信する。心なしか、休日のオフィスビル群の中でもこの広場の周辺だけ、カップルや家族連れの姿をよく見る気がする。
広場の掲示板を確認すると見覚えのある街並みのイラストが描かれたポスターを目にすることができた。
『瀬河長幸展 -観賞用都市計画-』
目的の場所はこのビルで間違いなさそうだ。
広場を抜け正面の入り口からビルに入る。
館内は4階か5階まで吹き抜けになっていて、壁際には飲食店やブティックが並んでいる。下層階は商業施設になっているタイプのビルらしい。
長幸の個展はこのビルのB1階のイベントスペースで行われている。早速エスカレーターで下の階へ向かう。
……今日ここへ長幸の個展を観に来たのは奈智子の提案が切っ掛けだ。長幸に会うなら直近の個展に行くのは必須だ、奈智子は頑なにそう主張した。
「共通の話題としては最高にわかりやすいでしょ?」
「まぁ……」
「やっぱり男の人ってさ、自分の仕事を理解してもらえるのは心がグラつくんだよ。自己肯定感を高めてくれるものにはどうしても弱くなる」
それは、『女の人』も大して変わらないんじゃないかと内心ツッコミそうになったが、揚げ足取りのように思えたので口には出さなかった。
自分の行動が『他人』にどう影響を与えるかしっかり意識しろ、というレクチャーなのだろう。
まぁ、何より、瀬河長幸の個展に対しては、普通に興味が湧く。
エスカレーターで降りた先には白い壁で囲まれた狭いスペース。ささやかな物販コーナーと壁の向こうへの出入り口に続く受付。
低反発するカーペットの床を踏みしめつつ物販コーナーの商品をチラ見する。長幸のイラストを使用したA4ファイルやTシャツ、マグカップ等々瀬河長幸ワールド一色。
同級生が、凄いことになってるなと驚かされる光景である。
受付で前売り券を提示。個展のパンフレットを渡されて中に通される。
会場内の客層は思いの外子ども連れが多いように思えた。
通路に沿って等間隔に展示されたジオラマめいた街並みは、その建物ひとつひとつが玩具めいていてなおかつ精緻で、その細やかな世界観に子ども達が、そして大人達も釘付けになり喰い入るように観察されていた。
そんな風に立ち往生する客が非常に多く、入り口の辺りで人混みが出来上がってしまっている。壁に注意書きで『鑑賞には順番がございませんので空いている箇所から鑑賞して下さい』と書かれていた。この状況は前以てキュレーター側も予測していたらしい。
わたしは小さく苦笑いし、入り口近くで釘付けになっている家族連れやカップルを尻目に会場の奥へと進む。
入り口近くの数点ほどでは無いけれど、奥に展示された他のイラストもやはりどれも、数人のお客さんが時間をかけてつぶさに凝視されている。空いている所から観て欲しい、というのがイベント企画側からの要望だが、空いている場所が無い。
人混みに流されつつ逆らいつつ、鑑賞者の入れ替わる隙間を縫って一枚の額縁の前に滑り込む。
滑り込んだ先に対峙した一枚の絵画、一息吐いて改めて見上げたそれに、わたしは息を呑んだ。
玩具めいた描かれ方をする他の絵画とは、それは、明らかに一線を画していた。
それは、他のものと同様にやはり風景画なのだが、周囲に展示されている他の作品と比べて色彩に乏しい、全面ほぼ灰色の濃淡で表現されている。例によって、非常に高い場所から俯瞰した大都市の街並みなのだが、異常に霧が濃く、絵画を除く観測者(つまり絵を見るわたし達)を中心に僅かに視界が開けているだけで、景色の奥に進むほどに都市の建造物を縫うような霧は濃くなり、全景の大部分を支配し、空へと昇り非常に重い曇天を構成しさえする。
都市の街並みは相変わらず精緻だが、他のジオラマめいた作品と比べるとかなり高い位置から街を見下ろしている。
街を覆う霧と、重苦しく暗い雲が主役なのは間違いない。街を描きたいというより、雲と霧に埋もれる様子を描きたい欲求が伝わって来る。筆のタッチも、イラストめいた他の作品と違い境界があやふやで淡い。
「長幸くん、こういう絵も書くんだね……」
すっかり聞き慣れた、少女の声が隣で響く。
隣を見ると、いつの間にか奈智子が立っており、興味深げに長幸の作品を眺めていた。ニットのトップスにタイトスカート、そのタイトスカートと同じくらいの丈の大人っぽいトレンチコートという秋と冬の狭間のコーディネート。TPOに併せて背伸びした大人っぽさを加味してきたようだ。無論、似合っている。
「みのりぃ、いま着いたの?」
奈智子はわたしを一瞥し、またすぐ視線を長幸の作品へと戻す。
「ええ。ひなは、もう中を見て回った?」
「ざっとだけどね。とりあえず知り合いは居なさそう」
……例によって、知り合いに二人で行動しているのを見つからないようにするための措置だ。
会場内で見つかった場合は「偶然出会ったから二人で観覧している」と(まぁまぁ苦しい)言い訳が出来るが、会場に訪れるまでのビル群を二人揃って歩いているとそうはいかない。現地で落ち合う形を取ったのだ。
喰い入るように絵を見詰める奈智子。
その視線は大部分を占める雲と霧に向いており、幾層に折り重なった雲煙の中から何かを読み取ろうとしているようだった。
「この絵って、なんか他のと全然雰囲気が違うよね、筆使いが違うと言うか……」
「長幸くんのイラストは殆どデジタルで描かれてるから。この絵は他と違って、直に水彩絵の具を使って描いた原画だから印象が違うのかも」
「え……、ああ、なるほど……。ひな、絵に詳しいの?」
「いや、ここに解説がある」
そう言いながら奈智子は絵画の隣に貼られた解説文のプレートを指し示す。
確かに、言ったことが全部書いてあった。わたしは小さく苦笑いする。
タイトルは、『煙濁に都市ありて』とのこと。
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