第十六話 瀬河親子
放課後、例によって職員室で書類作業をしながら部活動の顧問の仕事をしていた最中。
……まぁ、茶道部の顧問の仕事と言っても生徒が部室の鍵を返しに来るのを待っているだけなのだが。
基本的に、生徒側から何らかの要望が無い限り放任する方針である。茶道に関する直接的な指導は週に一回学校に来る外部顧問に任せているが、その応対も今日は無い。
体育祭と中間テストが終わり、緊張の糸が切れたような弛緩した空気が学校内同様に職員室にも伝播していて、比較的のんびりとした雰囲気に満たされている。
しかしそうすると次に控えるのが十一月中旬の学園祭で、楽しみの思う反面、文化系の部活の顧問として通常業務とは別の仕事が回ってくる訳なので、憂鬱ではないと言えば嘘になる。
そうした緩慢な空気が支配する職員室の中に、軽いノックが響き渡る。
「失礼します」
やや遠慮がちな口調でドアをスライドするのは瀬河玲。
部活動の最中なのか、サッカー部のユニフォームを着ている。
思わずちらりと観察するわたし。
玲は入り口のすぐ傍に座っている教職員に短く話し掛ける。高津先生はいらっしゃいませんか、と。
え、わたし?
話し掛けられた先生はわたしの方を指差す。
指差された方向に視線を向けた玲は(わたしはこの瞬間反射的に視線を逸らして机のノートパソコンを凝視しているフリをした)、職員室の机と椅子の間を縫いながらわたしの方へやって来る。
さすがに間近まで来られると反応しない訳にはいかないので、『近付いてきた気配を感じ取った』風を装って顔を上げた。
「瀬河玲くん、よね?」
『一応顔は知っているけど自信が無いから確認する』風を装いつつわたしから話し掛ける。
「……ご存じでしたか」
「ええ、瀬河、長幸さんの息子でしょ?」
ほっとしたような、そして恥ずかしがるような笑顔を控えめに浮かべる玲。多少だが、緊張しているらしい。
「はい……、その、父に頼まれまして」
そう言いながら玲は、手に持っていた紙切れを差し出す。
「父の連絡先です」
連絡先……?
「父がどうしてもお話ししたいことがあるそうなのでいつでもいいから連絡が欲しい、と言っていました」
玲から紙切れを受け取り、確認する。
そこに書かれているのは携帯電話のものらしい電話番号とメールアドレス。
「……瀬河くんのお父さんは何の話で連絡をして欲しいのかって、仰っていた?」
わたしが尋ねると、「いえ、オレ……、ボクも何も訊いていません」と困ったような表情を作って答える。
「どうも人伝にするのが拙い内容みたいで。直接話をしたいみたいでしたね」
ふーむ。
真っ先に連想されるのが奈智子に関連した何らかについてだが、高校に『再』入学した彼女の口にする話題の中に『瀬河長幸』に関するものは実は余り無い。
むしろ玲の話をする方がやや多く、玲に絡めて長幸の話題が断片的に出てくる程度だ(「帰りにさ、サッカー部の練習してるのを見たらやっぱり視線が向いちゃうよねー」「クラスで玲君の笑い声とか聴こえてきたらたまにちょっと吃驚しちゃう時があるのが自分でも可笑しくなっちゃう」)。
高校生として恋愛する夢を叶えるために今に至る奈智子の口から、その『理想の恋愛』の相手であった瀬河長幸の話をそう言えばあまり訊かない。
恋愛の内容はともかく相手にはもはや興味が無いのか、意図的に避けているのか、ちょっと判別が付かない部分がある。
「あの、むしろ……」
「ん?」
「先生の方には何か心当たり無いんですか?」
おずおずと、わたしの顔色を窺うように尋ねてくる玲。
……玲からすれば、父親(長幸)が自分に関してわたしと何か相談する可能性を勘繰っているのかも知れない。
余程その方が現実的だろう、自分の同級生の中に父親の元カノが居るとか言われるよりは。
「いや~、わたしも検討が付かないわね、心当たり」
わたしは、あっけらかんとした口調で明かす。
少なくとも、玲に奈智子のことを詮索される心配は無さそうだ、正直気が楽になった。
「わたしがあなたのお父さんと同級生なのは知ってるかしら?」
一応確認のために改めて玲に確認すると、玲は「はい」と首肯する。
「同級生だったけどあまり接点は無かったのよね。会話した記憶も有るか無いかくらい」
「そうなんですか……」
「ただサッカー部の部長としては精力的に活動されていたわ。グラウンドで練習をしている姿は何度か目にした」
そう言うと玲は、リアクションに困ったようなはにかむような笑みを浮かべた。
……いやまぁ、サッカーをしている姿以上に印象的なのは奈智子とイチャイチャしていた姿なのだが。そんなもんご子息に明かす必要は無い。
しかしこの佇まい。
男として仕上がりつつある引き締まった存在感のある体躯、声変わりした低い声で無理やり少年を演じているような敬語口調、そして父親によく似た顔立ちが、最早記憶の彼方で消え去りつつあったはずの瀬河長幸のイケメン好青年特有のプレッシャーをありありと思い出させる。
その威圧感に気圧されていた当時の自分の心象風景を追体験させられる。
高校教師になってから散々色んな男子生徒と対峙してきてもうすっかりそういうプレッシャーには慣れたつもりだったが、この生徒に関しては別格だった。
女子高生だった頃の自分が嫌でもチラつく。居心地が悪い。
「……そういうイメージしかなかったから、画家をされているって訊いた時は意外だった」
そんな風に生徒の存在感に心を乱されているなんてこと、絶対に悟られたくないので、ちょっと踏み込んだ話を無遠慮に振る。
教師としての立場で、近所のおばさん風ウザ絡み。
「大人になってから、急に開花する才能というのも有るものなのね」
「……親父は、自分が絵を描く第一歩は高校に入ってからだって言ってましたよ」
玲がポツリと口にする。驚くほどでは無かったけど、意外な言葉だった。
「燐高に入らなかったら、間違い無く画家には成っていなかったって」
「それはどうしてなの?」
「いや、それ以上はハッキリ言ってませんでしたけど……。なんか、たくさんのことを学んで吸収しろ的なことは言ってましたね」
「ええ……、それは大事ね。
瀬河くんがこの高校を選んだ理由って、やっぱりお父さんの影響なのかしら?」
「いや、直接なんか言われたわけじゃないんですけど……」
そこで玲は、はにかむような困ったような苦笑いを浮かべる。
「そんな話を訊いてしまうと、意識してしまうっていうのはあったと思いますね」
……そう口にする玲の様子からは、後ろ暗い感情は読み取れなかった。
親子仲は良好。園部先生の推理は当たっていたらしい。
今度彼女にも伝えておこう。
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