第五話 『過去』を帯びた生徒たち
わたしと同級生だった瀬河長幸の息子が入学してくる話は教頭先生から訊いた。
もしその話を一年前に訊いていたとしても、受験戦争(のバックアップ)に向けての諸々も準備に忙殺され、担当外の生徒に対して自分の正体を明かそうかどうしようかなんて思い付きすらしなかっただろう。
仕事において余裕があったのだろう、少なくとも前年度よりは。
或いは去年なら、忙しさに追われ『彼女』にも気付かなかったのかも知れない。
……いや多分あちらからアプローチを仕掛けて来かねないので、受験対策の忙しさに併せて、もっと悲惨なことになっていたかもしれない。
五月の中頃だ。
主に新入生達によってもたらされていた緊張感が新生活への慣れによって弛緩し始めていた時期。
授業終了直後の生徒の質問に答え、教室から職員室へ戻る途中。
時間は昼休み。廊下の外は既に生徒達でごった返していた。
生徒達の移動の流れに乗りながら一階へ向かう。
多くの生徒達の目的地であろう食堂と、わたしが向かう職員室が共に一階にあるので進行方向が途中まで同じなのだ。
しばらく進むと、上下階への階段が視界に現れる。
タイミング良く女子生徒の一団が上の階から降りて来ている最中だった。
校舎は4階建てで、数字が若い学年が順番に上の階に教室がある慣習になっている。一番上の4階が一年生。3階が二年生、2階が三年生という具合に。
わたしが居るのが3階で、今階段を降りて来ている女子生徒達は4階に教室がある一年生達なのだ。
一年生の一団が丁度3階から2階へ降りていく最中で、わたしは二年生達に交じって一年生達が通り過ぎるのを待つ。
皆昼休みは一階の食堂に移動するので、どうしても生徒達が合流する地点は混雑する。
……心身に余裕が有る時の『視点の広さ』とは、些事に目を向けられるアンテナの柔軟性と物理的な視界の広さの両方が含まれていると思う。
その時、自分の仕事についてではなく周りの生徒達に注意を向けられる心境だった。
階段を降りる女の子たちの顔、そこには、上級生の前を通り過ぎる微かな緊張感が見て取れるように思えた。
そしてそこにふと、微かな違和感を覚えた。
10人弱の女の子の一団の中で一人、表情に差異が無い、上級生を前に表情を強張らせていない女の子がいるように見えた。
その少女が一瞬だけ顔を上げる。わたしと、目が合った。
その顔を見た瞬間、驚くよりも一瞬早く懐かしさを覚えた。
そして殆ど脊髄反射で感じた郷愁と驚きの正体を頭が瞬時に理解出来ていなかった。
目が合ったあの女の子は、幼馴染の緋山奈智子とそっくりだったのだ。
余りにもそっくり、というか高校生の頃の姿そのままだった。
清楚ながら蠱惑的なニュアンスが奥に潜むアイドル顔負けな顔立ちに、否が応でも緊張させられる。
奈智子の前で喚起させられていたあの感覚が呼び覚まされる。
余りにもそっくりそのままで、わたしの脳内の現実が過去に引き戻され、『わたしの通っていた高校に制服を着た奈智子が居るのは当たり前だ』と誤認してしまう程に。
時間が捻じ曲げられた風景の異常性に気付き現実に引き戻されたときには目が合った女子生徒はもう2階への階段を下りている途中で、引き留めようにも声を掛けようにも階段への移動を開始している生徒達の壁に阻まれ、どうすることも出来なかった。
そもそも、何よりまだ困惑が収まっておらず、今見た光景が自分でも信じられていなかったので、頭が混乱した状態のまま、階段を降りる生徒達の流れにただ身を任せているだけだった。
階段を1階まで下り、生徒達の流れは千切れ幾つかに分散する。大部分は食堂の方に向かっていくが、中庭や部室で食事をする生徒もいる。
そんな生徒達の後ろ姿を見渡したが、見分けがつかない。
奈智子(に似ていた人物)がどこに行ったのかわからない。
いやそもそも、先程わたしが目にした少女の顔が自分でも信じられなかった。
記憶と視界を混同して幻覚を見たと考えた方がまだ妥当なレベル、いやもっと現実的に他人の空似だと考えるべき所だろう。
食堂の方を探してみようかと一瞬考えたが、主に学生達が利用している食堂に教師であるわたしが現れて周りを驚かせてしまうのも余りいい気分がしないし、かつての幼馴染に似ている人物を探すためだけにそこまでするのはやり過ぎではないかと思えた。
……結局その日は、奈智子によく似た人物の姿を見つけられなかった。
しかしその日以来、校内で女子生徒を、取り分け一年生の姿を見掛けるたびに、その顔を確認するのが習慣になってしまった。
学年はブレザーの襟に付いているバッジの色で判断出来るが、まぁ生徒達の胸元を見るより顔を確認した方が手っ取り早いので結局行き交う女子生徒達全ての顔を確認することになる。4階から降りてくる姿を見ただけなので実は二・三年生でした、という可能性もある。
そんなことをやっている最中に、わたしは息を呑んでしまう光景を見てしまう。
下校時間、下足室を通りかかった時(奈智子のそっくりさんを見つけるためにそれとなく生徒が多く現れるタイミングを狙っていた)、女子生徒達の顔を観察する最中、聞き覚えのある声を聴いた気がして廊下の方を向いた。
一年生の男子生徒が数人、談笑しながら下駄箱の方に歩いていく。
その内の一人に見覚えがある気がして、わたしは吃驚してしまう。
間違い無い。
瀬河長幸の息子、瀬河玲だ。
背格好と整った顔立ち、嫌らしい感じのしない快活な笑い声など、とても良く似ていて、わたしの学生時代の焼き増しのように感じてしまった。
瀬河玲とその友人達は無論わたしの事など気に掛けずに下駄箱で靴を履き替え、そのまま外へ出て行った。
わたしは途端に恥ずかしくなった。
誰にも見られないように顔を伏せ、バレない様に速足でその場を離れた。
瀬河玲の顔を見た瞬間、わたしの心象風景は高校生の頃に戻っていた。
格好良い同級生の顔を遠くからちらちら盗み見て、密かに目の保養をしてときめいていた在りし日の自分。
今さっきあの瞬間、教師の外面の下の成長しない自分が剥ぎ出しにされたような恐怖と羞恥心が襲って来て、混乱させられたのだ。
わたしが瀬河玲と関わり合いたくない本当の理由が分かった。
男子生徒の姿形から、男というものに身勝手な理想や思慕を思い描いていた青春時代が暴き立てられそうになるのが、心から怖かったのだ。
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