第三話 失われた20年
自家用車(グレーの軽)で高校を退勤。
途中、スーパーに寄って律義に言われた通りのものを購入、おつかいをこなす。
帰宅ラッシュでにわかに混雑するテールランプの列に乗りながら、家出中の主婦・緋山奈智子の待つ我が家を目指す。
程無くして郊外のマンションに到着、そこに隣接する駐車場に自家用車を停める。
マンション入り口のオートロックを解除しながら想像する。
奈智子が澄ました顔をしてわたしが渡した合鍵で同じようにオートロックを解除し、悠々とマンションの中へ侵入していく様子を。
さも当たり前のようにそれをやってのける奈智子の面の皮の厚さについては今更言及する気にもならないが、マンションの住人達は奈智子のようなある意味『目立つ』闖入者の存在をなんとも思わないのだろうか?
……うん、恐らく誰もなにも思わないのだろう。
都会の気安さで、住人の動向に注意を向けている者などほとんど居ないのだろう。わたしも正直隣人の顔をよく知らない。ここに引っ越してきてすぐの頃はちゃんと覚えようと努力していた時期もあるが、周りの隣人が引っ越しを繰り返す内にそんな気もいつの間にか失せてしまった。
エレベーターに乗りフロアを進み、私が住む部屋へ。
夜の帳が下りた薄暗いフロアに溢れる余所余所しい蛍光灯の光に照らされた幾つものマンションのドア。そのひとつにだけわたしの同居人が隠れ潜んでいる事実に一抹のシュールさを感じずにはおれない。
ドアの鍵を開け、扉を開く。
奈智子に聞こえるかどうかわからないけど「ただいまー」と、声を部屋の中へと放り込む。
あ、おかえりー。
部屋の奥の方から微かに響いた。
廊下を渡りリビング・ダイニング・キッチンが一体になった部屋に入る。
キッチンの傍から、ぱたぱたとスリッパがフローリングを打つ渇いた足音を響かせて、わたしより一回り小柄な印象を与える人物が現れた。
それは、『少女』と呼ぶしかない人物だった。
溌溂とした清楚さを振り撒く内巻きセミロングの黒髪。
服装はわたしが務める高校の制服。半袖の白のワイシャツと、紺と黒のチェックのスカートをややミニスカート気味にしている。
憎らしいほどに皺ひとつないつるりとした顔に愛らしい寛いだ笑みを浮かべている。
「あ、お買い物もご苦労さま―」
整った目鼻立ちと、清楚さの中に大人の色香を含んだ眼差しは紛れも無くその制服姿に相応しい思春期の少女のそれで、仕事から帰ってきたわたしを労う言葉と共に買い物袋を受け取った。
……新妻かよ。
心の中で密かに呟いたそんな軽口には若干の感動が含まれていた。
ダイニングキッチンに買い物袋を運んで華やいだ表情でバニラアイスを詰め合わせた箱を取り出し嬉々として冷凍庫へ納める彼女はスカートと黒髪と黒のエプロンをひらめかせ、思わず凝視してしまうほど愛らしい。
制服姿で台所に立つ女の子を『新妻』と称するのは適当ではない気もするが、キッチンできびきびと働く真摯な女の子から香る色気は、思わず『新妻』と呼びたくなってしまうプレミアム感がある。呼ばないけど。
そもそも新妻など見たことも無いしなったことも無い。
寧ろ新妻に関する見識なら目の前の制服姿の人物の方が深いだろう。
わたしが勤務する高等学校の制服を着た少女の名前は緋山奈智子。
本来ならわたしと同じ43歳。
30代中盤で一念発起し、魔女の下で修業し若返りの魔法を習得した、らしい。
パンツスーツから私服に着替えたあと、奈智子を手伝い夕食を完成させる。
献立はこうだ。
豚肉入り野菜炒め。
溶き卵入り中華スープ。
生春巻き(手作り!)。
白米。
感動的な眺望と言う外無かった。
玄関を開けて何の労力も無くちゃんとした夕食が用意されているのだ。何という贅沢。
こんな途方も無い待遇、若かりし日々に実家で過ごしていた頃以来だ。
「……中華スープさ、前に買った市販のやつなんだけど味が薄かったでしょ? ちょっとアレンジしてみたんだけどどうかな?」
机の向かい側でやや上目遣い気味に奈智子が尋ねてくる。
「……美味しくなってる」
思わず呟いてしまった本心に、奈智子は嬉しそうに小さくガッツポーズをして見せた。
この女子力である。
朝露に濡れる若葉の如き瑞々しい愛らしさ、それと両立される家事遂行能力。いや落ち着こう、見た目が女子なだけでわたしと同い年なのだ。むしろおかんで15歳の息子が居る。
そう、この手料理スキルは無論主婦として夫や息子に振るわれてきたのだ。
2か月の共同生活で、たまに半分趣味で料理をする程度のわたしとは比べ物にならない程料理が上手とい思い知らされてきた。
引き出しの多さが違うのだ。
より実践に即した技術であるゆえ、選択肢が多彩な広がりを持っている。
得手不得手の差、と言ってしまうのは簡単だ。
しかし同い年の奈智子に家事の面での手際の良さは決定的な努力の差、これまでの人生に費やしてきた時間の質の違いを突き付けられているようで、中々に心をざわつかせる。
ずっと見て見ない振りをしてきた劣等感を刺激させられる瞬間だ。
「努力、と言うほど大した事でもないけどね。わたしが家事を努力していたのと同じようにみのりぃは先生として頑張っていたんでしょ? ならそれでいいんじゃない?」
以上の料理の感想を言った直後からのモノローグのような文章群をほぼ原文のまま口に出していたわたしに対して、奈智子は事も無げにそう言った。前もって答えを用意していたようにあっさりと。
「うん……。まぁ、習得スキルの取捨選択は止む無し、って割り切りはとっくに済ませはしたんだけどね……」
先生を頑張っていた、という言葉に内心嬉しくなってしまっているのが滲み出てしまっていると意識しながら口にする。
「もしかして、料理を上手くなりたい、とか?」
多分見当違いな予想だと口にした本人もわかりきっているような気配を漂わせつつ奈智子は尋ねる。わたしは律義に首を横に振って応える。
「いえ、単にわたしたちが過ごしてきた途方も無い時間がそれぞれ全然違う性質のものなんだなぁって、思いを馳せたくなってしまっただけよ」
「途方も無い時間」
奈智子はキョトンとしたように目を丸くして復唱する。
若々しい女子高生の姿でそんな様子を見せると、彼女が本当に何も知らない無垢な女子高生であるかのように錯覚させられてしまう。彼女の容姿は、彼女が本当に十代の少女だった頃そのままだが、制服の着こなしや細かいメイクは今風にアップデートされている。
「大学卒業から今までの間の20年強」
「ああ、確かにそれは途方も無い」
そんな時代の経過の埒外に居るかのような姿の少女は、納得した笑顔を見せる。
「20年前のわたしには、結婚して、子供を育てているなんて全く想像出来なかったな」
「その後に家出して、若返って、幼馴染の家で居候している方がよっぽど想像の枠を逸脱してるし」
多分ツッコミ待ちだと感じられたが、言わない訳にはいかなかったので、丁寧に付け加えてやった。待ってましたとばかりに奈智子はにっこりと笑う。
……本当に、悪びれないなこの人は。
「『失われた20年』とかって、こういう時に使うのかしら?」
「いや、そこまで言うつもりは流石に無い」
「ありがと。でもたまに言わない? 失われた10年とか20年とかっていう言い回し」
「あー、経済用語とかにあるかな? 経済成長が低迷していた期間をそういう風に言うね」
「わたしの失われた20年で手料理が美味しくなったなら」
奈智子はスプーンで掬った中華スープを啜ってから言う。
「料理を練習してこなかったみのりぃの失われた20年をわたしの20年で肩代わり出来ているのかも」
「……本当に、わたしの家に住むつもりなのね」
彼女がわたしの家に現れ始めたのは2か月ほど前からだが、ここ最近はほぼ毎日わたしの家に寝泊まりするようになっていた。部屋の端、空きスペースにちらほら奈智子の持ち物が蓄積し始めている。
「うん、しばらく住みたい」
奈智子は少し机に身を乗り出し、上目遣い気味に瞳を輝かせながら言う。
「まぁ、飽きたらすぐに出ていくし? みのりぃもわたしとの生活に飽きたなーと思ったら言ってくれたら出ていくから」
なかなか無常観溢れる言い様である。
ただ半同棲を辞めたところでわたしが出勤する学校に奈智子は通学してくるので奈智子が卒業する3年間は顔を合わせる機会がある。
「……それは別にいいけど」
安易に、彼女が居座ることを許してしまっている。
人恋しさ、みたいなものが一切無いと言えば嘘になってしまうかも知れない。
少し位なら、こういう生活も新鮮なんじゃないか? とか思ってしまっている。
「ありがとー。あ、こっちの生春巻きは中身チリソースだからちょっと味が違うんだよ」
……他人との生活に飢えている点は否定しがたいが、胃袋を掴まれ抜け出せない事態になりつつある点も真剣に考えなければならないかも知れない。
夫や息子との生活を『失われた20年』と言い切ってしまった緋山奈智子。
その仄暗い心情と目を覆いたくなるどろりとした欲望を無理やり思い出し、何とか平静を保つ。
彼女の前で、良識を弁えた大人、一歩引いた友人のフリを続けられるよう自身を調節する。
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