第二話 在りし日
小学生の頃の話から始めよう。
と言ってもそれはもう30年以上前の話になるので、もはや断片的なエピソードをわかりやすい『思い出』の形で加工してしまい、『記憶』ではなく『記録』として振り返るしかないレベルの代物だけれど、その頃から『学校の先生になりたい』という夢があったのは覚えている。
『夢を叶えた』と言えば聞こえが良いのだろう。しかしどうもわたしはその点にも劣等感を覚えてしまうようだ。
『学校の先生』というのは多かれ少なかれ子ども達は一度は憧れる。まともに仕事をしている大人のひとつのサンプルケースとして非常に身近でシンプルなのだ。
幼い頃に抱いた屈託の無い憧れを愚直に信じて突き進み、実際に夢を叶えてしまったというシンプル過ぎる雑味も面白みも無い機構、自分の生き方に疑問を抱かず深い思索も無くここまで来てしまった単純さ加減が恥ずかしくなってしまうのだ。少なくともわたしは『そんなこと』に微かなわだかまりを覚えてしまう。
……それも自分の劣等感を構成する要素のひとつではあるけど、いま話をしたいのはそっちではなくてもうひとつ、緋山奈智子の話である。
緋山奈智子、小学校の同級生。
わたしとは幼馴染と言っても差し支えない間柄だ。
花のある女の子だった。
『記録』の中に居る彼女は常に愛嬌を振り撒き、可憐な美しさを放っている。
頭が良くて機転も利き、しなやかな身体で背も低くはない。
早熟な色香を漂わせる整った顔立ちと甘い眼差しに溌溂とした表情を浮かべ、同学年の男女みんなが一目置くアイドル的な存在だった。
幼心に、わたしは奈智子を特別な人間だと思っていた。
あるいは、『この世に平等などありはしない』と下々の者共に知らしめるために神様が天から遣わした存在とかそんな感じ。
あまりにもキラキラしていて、心の中で彼女と自分の間に一線を引いてしまっていた。わたしはああは成れない、目指すべきではないと。
ある種のベンチマーク、『同年代の』『芸能人じゃない』『美人の女の子』の最上位に奈智子の存在は常に鎮座し続けた(ある時までは)。
中学生になってからも奈智子の女の子としての魅力に磨きが掛かる。
成長による子どもから大人になる羽化、とかそういう次元だけの話ではなく、その所作からも子どもっぽいガサツさが早々に消え失せ、落ち着いているけど暗過ぎない、大人びた雰囲気をクラスメイトの誰よりも素早く、身に付けるようになっていた。まだ小学生の延長線上で、自分が子どもっぽいと意識すらしていなかった頃のわたしはこの奈智子の変化に気付いたときに愕然とさせられたものだ。
奈智子が魅力的に見える理由が、天性のものだけではなく、状況の変化に応じて自分を魅力的に見せる最適解を常に選択出来る機転と感覚の鋭さにあると、自分との差をまたしても思い知らされたのだ。
奈智子とわたしは仲が良くも無く悪くも無い。
まぁ、出会ったら会話をしてそれなりに盛り上がるという程度の間柄だった。
それは小学校から大学生の頃まで一貫していた。
同じ場所で生活して同じものを見て生活していた訳だから共通の話題には事欠かない。ただ、お互いに過度に踏み込まない領域のボーダーラインみたいなものは引いていて、ハッキリ言って表面上の付き合いだった。
中学三年の頃、奈智子の化粧に気付きそれを指摘してやると、奈智子は恥ずかしそうに嬉しそうに笑い「実は小学生の時からコッソリしてたんだよ~」と教えてくれた。
全く気付かなかったよ。というか小学生からメイクの練習をしていた事がカルチャーショックだった。たまに取得される断片的な情報に大いに驚かされるケースが多々あるのだ。
学生時代においては終始そんな近過ぎず他人ではない関係だったが、高校に入ってから、彼女に彼氏が出来た情報は流石に耳に入ってきた(それを教えてくれた相手が本人ではなく奈智子と共通の友人からだったという点を明かせば、当時のわたしと奈智子の距離感が何となく理解してもらえるのではないだろうか?)。
実際にわたしがその彼氏と奈智子が一緒に居るのを見たのは数えるほどの回数、下校時に二人で並んで下校している姿だ。
相手の男の子は同級生、中学まではわたしや奈智子とは別の学校で、少しやんちゃそうな高身長の好青年。
温和な雰囲気だが、隣にいる女の子(奈智子)への(性的な)興味と昂りを少年の無邪気さとオトコの包容力的なモノで押し殺しつつ奈智子に話しかけている様子(遠目に視たわたしの妄想が多分に含まれた描写)が、女の子を慮るイケメンの麗しさが全力で奈智子に向けられており、わたしは思わず息を呑んでしまった。
あんなものが、あんな格好良い男の子の優し気な態度が、ただ一人の女の子に向けられているという現実が、わたしには巧く理解出来なかった。
それを奈智子は自然に受け止めていた。
同性の特に親しい相手に向けるような、寛いだような楽しげな様子から少しだけガサツな姦しさを取り除き代わりに甘い愛らしさを加えたような、完璧な可愛らしさを自然に、出力し、オトコの欲望を匂わせるイケメンと対峙していた。
これは、一体どういう世界なんだ?
それは人智の及ばない高次の生命体の非常に複雑な概念の議論を見せられているようだった。このときの情景によって感じ取ったものを喩えるならそんな風だった。
いや、若い男女が睦み合っているのはわかる。
でもなんでキミらはそんな可愛らしさ格好良さを向け合いながら平然と会話が出来るんだ! そんなものいつどこで教わるんだよ!?
ふと、奈智子と視線が合ってしまった。奈智子は少し困ったような笑顔で手を振ってきたので、わたしも努めて表情に内心を反映させず、小さな笑顔で手を振り返した。
偶然なのか必然なのかその時のわたしと奈智子は同じクラスの隣の席で、翌日わたしは奈智子と彼氏の会話を盗み見してしまっていた事を若干茶化し気味に謝罪した。
奈智子は照れ臭そうに笑いながら「そんなの謝らなくてもいいよぉ」と言う。
それからお互いの中で何かが解禁され、奈智子の口から『彼氏』の話題がぽつぽつと披露されるようになった。
最もわたしからは、その遠い国の出来事であるかのような『恋バナ』に対してお返しできるような物などなにもなく、ほぼ聞き手に回るしかなったのだが。
当時わたしにも好きな男子は居たには居たのだが、ほぼ恋に恋しているレベルというか、完全に遠くから眺めて満足しているだけの状態で、とてもそんな、高度な領域で異性と渡り合っている相手にするような話ではなかった。
『彼氏』と奈智子は少なくとも一年以上は恋人同士だったはずだ。三年生になってから奈智子とわたしは違うクラスになり会話をする機会もぐっと減った。
夏の始まり辺りでふと廊下で出くわした奈智子に「彼氏と別れた」と聞かされた時、唐突で驚かされた部分も少しだけあるが、仲睦まじい男女も多くの場合いつかは別れるなものだ、などという恋愛などしたことが無い癖に一般論が頭に浮かんた。
無論そんなものは口に出さず、慮るように驚いて見せて、「残念だったね……」と何とか思い付いたそんな言葉を絞り出した。
「うん、でもお互いに納得の上だったし、円満離婚。あのままずるずる付き合ってたら中途半端な感じになっていたと思うし」
……彼女の言葉には、自分や相手の思いや、事実を苦心して巧く纏めたような淀み無い落ち着きがあった。
多分もっと前に二人は別れていて、自分の中で気持ちに整理を付けられたからわたし(や他の友人達)に報告が出来るようになったのではないだろうか。
親しい間柄の親友にはもっと近々に相談などをしていたのかもしれないが、それはいい。改めて決別報告をしてくれるだけ、奈智子がそれなりにわたしとの関係を大切に考えていてくれていると再認識出来て、彼氏との別れを報告する彼女には悪いが、少し嬉しく感じてしまった。
腐れ縁というか何というか、大学の志望校もわたし達は同じ外国語大学だった。
2人とも現役合格である。
わたしはいよいよ本格的に教師になるべく勉強を始めるのだが、奈智子はどうもテニスサークルに入ったらしい。彼女の服装もメイクも大人びた華やいだものになり、同じように華のある男女と共に談笑しながら青春を謳歌している(であろう)姿を大学構内でしばしば見掛けた。
嫉妬などするはずも無かった。
わたしと奈智子では住んでいる世界が違い過ぎる。
むしろ、美しい彼女がその魅力を存分に振り撒き日々を活き活きと過ごす姿に誇らしさすら感じていた。
奈智子と逢う機会はめっきり減ったが、たまに講義で顔を合わせた時に、教師になる目標を応援してくれたときは本当に嬉しかった。
大学を卒業してからは奈智子と逢う機会は無かった。
お互い偶然同じ学校に通っていただけの間柄だったのだ、それは当然だろう。
別の友人から聞いた話によると、奈智子は出版社に就職したあと20代後半に商社に勤める年上の男性と結婚したとのこと。
遂にそういう選択をする年齢になったのか! 奈智子の人生の途中経過を明かされたとき、ちょっと愕然とさせられた。
高校生・大学生の頃の瑞々しい美しさの女の子のイメージからそれ以降の奈智子の姿がわたしの脳内で更新されていなかったので、『奈智子』と『結婚』のふたつの概念が最初は巧く結び付けられなかった。でもまぁ、常識的に考えれば、奈智子が『結婚』という選択肢に行きつくのは別に不自然ではないのだ。美人だし、性格も良いし。
……奈智子の結婚に関しては勿論素直に祝福するべきことだったのだが、わたしはこのとき、内心怖気づいたんだと思う、結婚に対して。
その頃のわたしは教職採用浪人というか、塾の講師をやりながら四苦八苦していた時期で、とても結婚など考えていられる時期ではなかった。
そもそも、どうにも、恋愛をするのすら億劫なのだ。
大学の頃、妙な切迫感のようなものに駆られて試しに気が合いそうな男の人と付き合ってみたのだけど、どうにもギクシャクした、というか上手くいかなかった。相手が悪かったという以上にわたしが完全に恋愛に対して受け身だったとか恋愛をしたいから男の人と付き合うとか順序が逆だろとか若かりし日の無思慮不甲斐無さを無数に想起されて死にたくなるので余り思い出さないようにしているのだが、そういう失敗もあって、恋愛とか結婚とか、わたしには向かないものだと勝手に決めつけていた。奈智子ぐらいのスペックが無いと成立しない偉業。それがわたしの結婚に対するイメージになってしまっていた。
冷静な話、奈智子レベルの女性でないと恋愛や結婚が成功しないとか過剰過ぎる程高いハードルなのだが、30手前の頃のわたしにはそんな風に思えてしまっていた。
緋山奈智子には幸せになって欲しい。
わたしが知る範囲で最高の、祝福された完璧な女の子。
持てる者の特権、その恵まれた在り様を存分に駆使して、彼女には幸多き人生を歩んで欲しいと心から思った。
だって、奈智子ですら幸せになれない人生なんて人の世なんて第三者から見てもただの絶望だ。
誰に対してもなんの救いも慈悲も残されないではないか。
まぁ、奈智子にしてみれば『祝福された完璧な女の子』とか持ち上げられたり人類の幸福を託されたりするなんてはた迷惑以外の何物でもないだろうけど。
そもそもこれは免罪符みたいなものだ。
わたしはわたしで出来ることを頑張るから、奈智子は結婚生活とか諸々を頑張って欲しい、応援しているから。というような感じの。
自分の不甲斐無い部分を正当化するための役割分担に奈智子を勝手に組み込んでいるのだ。はた迷惑以外の何物でもない。
それは、勿論誰にも明かさないわたしの胸の内だけで勝手に言っているだけの話だ。
最も、日々の慌ただしさに忙殺されてそんな自己弁護も、奈智子の事も記憶の隅に追い遣られて直ぐに消えてしまったのだけれど。
ただ仕事一筋に生きるしかなかった自分の要領の悪さは劣等感になって密かに育てられ続けることになる。
この若かりし日の忘却は、今年の春に奈智子と再会するまで続いていた。
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