第一話 おつかい
隙間の時間は、わりと生命線なのだ。
高校教師という仕事上、カリキュラムに縛られるのは生徒達同様に宿命である。更に諸々の出張だのアポイントメントを考慮に入れると、自然と書類作成や授業の準備などルーチンワークに回せる時間は限られる。だから仕事のスケジュール上にちゃんと『準備のための時間』を確保するように考慮しているのだが、教師の仕事はそんな機械的に処理出来るモノではなく有機的で、生徒の不意の相談やトラブルでカリキュラムと連動した綿密なスケジュールなど簡単に破綻する。
計画が必ず上手く行く、などという幻想は捨てるべきだ。不測の事態にも余裕を持って朗らかに対処するために僅かな時間の隙間も逃さず少しでも次の準備を進めておく必要性が出てくる。先手先手を打つに越したことは無い。
……学生時代、課題宿題の期限から必死に逃げ回っていたような毎日だったのに、大人になってからも似たようなモノに追われる毎日を過ごす事になろうとは夢にも思わなかった。
まぁこれは子供の頃の自分に想像力が足りなかっただけ、と言うより教師という職業独特の現象。学生のスケジュールと並行して行動するので生活サイクルも学生と似通ってしまう。
課題宿題に追われる学生達を尻目に、教師達は次の課題宿題の準備に追われるのだ。
そんな訳で、放課後の特別補修の終了後、教員の数もまばらになった職員室で、来訪してくるはずの生徒達を待ちながらわずかな時間を利用して英語の小テストの作成をしているのだ。最も、去年作成した同じ時期の小テストをクラスの授業の進捗に併せて微調整するだけの作業なのでそれほど手間は、掛からないのだが……。
「失礼します」
ドアを開く音と共にちょっとだけ畏まった女の子の声が職員室に響いた。待ち人、来る。
制服姿の女子生徒は二人、ちらちらと職員室内に視線を走らせながらわたしの元にやって来る。
……中々入れない部屋に好奇心がそそられる気持ちは良くわかる。
「部室のカギを持ってきました」
「はい、お疲れ様」
女子生徒の片方、九月から茶道部の新部長になった二年生がわたしに部室のカギを渡した。労うような笑みと共にわたしはそれを受け取る。
「どう、部長職、慣れてきた?」
「はい、なんとか」
わたしが尋ねると茶道部新部長は恐縮したように照れ笑いした。
「……もしかして、待って下さってたんですか?」
職員室内の閑散とした様子に多少驚いていたらしい新部長は恐る恐る訪ねてきた。
「いやまぁ、顧問の仕事だからね。全然気にする必要は無いわよ?」
ちょっとデスクの上を片付けて見せながらそう言うと、新部長は申し訳無さそうに笑いながら「わかりました」と素直に応える。
ううむ、真面目な
三年生達、良い娘を部長に選んだんじゃない?
「わたしはもう少し片付けに時間がかかるからあなた達は先に帰っていて」
そう言うと生徒二人は明らかに微かに表情を綻ばせ、「はい、失礼します。さようなら」と頭を下げる。「さようなら」とわたしも返す。
職員室から脱出する二人を見送りつつ職員室のキーボックスに茶道部部室のカギを収めに行き、デスクに戻って帰り支度をしようとしたとき、デスクの引き出しから振動音が微かに響いた。
……いまこのタイミングでわたしに連絡をしてきそうな人物は非常に限られる。というか、ほぼ一人と断定しても構わない。
デスクからスマートフォンを取り出し画面を確認。LINEのグループチャットに着信あり。
送り主は『ヒナ』と表示されている。
文面を確認する。
みのりぃお仕事お疲れ様! 冷蔵庫の残りで野菜炒めを作ろうと思ったけど豚肉が足りない! あと人参も欲しいからそのふたつとあとバニラアイスも食べたくなったから買ってきて! お願い!
というような内容が絵文字をふんだんに用いられながらディスプレイの中で泳いでいた。
……おかんかよ。
下校途中の子供に買い物を頼むノリの文章にわたしは思わずツっ込まざるを得なかった。
いや、彼女は実際に『主婦』だったのでツッコミはツッコミとして何も成立していないのだが。そのまんま『おかん』である。
ただ今の彼女は夫と息子が居る自宅から家出をしてそろそろ10か月、そして2か月ほど前からわたしの家に転がり込んでいる状態で、わたしの家の家事を行うのは共同生活のためであって主婦としての立ち位置に因るものではない。
『おかん』ではないのに、『おかん的立ち位置』に平然と納まっている。
やはり『……おかんかよ』とツっ込みを入れるのは適切だろう。
グループチャットに表示されている名前、『ヒナ』の文字が改めてふと目に留まった。
『ヒナ』とはあくまでもLINEに登録されているユーザー名兼あだ名で、本名は『
そしてひとつ不意に気付く。もしかしたら、今の彼女を『緋山奈智子』と認識している普通の人間は、世界でわたしだけかもしれないと。
今の彼女は『
これまでの自分の人生を振り返って、「どうしてこんな事になってしまったんだろう?」と首を傾げたくなる瞬間が、多々あった。
自分の人生の有様に、立派な美術館に展示されたキャンバスに適当に絵の具をぶちまけたような抽象画を滔々と賛美する解説文を読むような、理屈は解るが釈然としない気分を抱きながらも、同時に、いずれ自分の人生はこのようなスッキリとしない体裁になってしまうのだろうなという確信に割と若い頃から到達していた。
若い頃、と言うか幼い頃、かもしれない。
ただまぁ、それはいいのだ。結局自分にとって最適な人生をそれなりに努力して選んだ結果が今の人生なのだ。過剰かつ無駄な努力ではなく、適度な努力。
その結果辿り着いた地点が幼い頃にイメージしていた『普通』とかなりズレていたというだけ。
……無論、昨今この『普通』を拘泥したり強要したりするのは老若男女の鬼の形相でこん棒で殴り合う地獄絵図を展開してしまう事態を引き起こすし、そもそもその『普通』は果たして本当に『普通』と呼べるレベルの様態なのか難易度なのか? という疑問も個人的に抱いているので過度に拘るつもりは全然無いのだが、自分はその『普通』を、選びたくなかったから選ばなかったのではなく、選ぶ能力が無かったから選ばなかったと思っている。
不得意な分野を諦めて得意な分野に重点を置く生き方は妥当だし文句を言われる筋合いは無いが、その、『普通』を『選べなかった』自分の在り様は、劣等感になり自分の人生の大半の期間ずっと首をもたげ続けている。
普段なら日常に忙殺されて気にも留めない微細なわだかまりは不意に思考の間隙を突いて襲い掛かって来る。
子どもの頃には、こんな感じの人生になるなんて考えもしなかったんじゃない? と苦笑いと共に襲い掛かって来るのだ。
その強襲は、年齢を重ねるごとに重く鋭い一撃に磨き上げられている気がするが、その囁き声と一撃にひとつだけ反論したい。
わたくし
幼い頃から、それこそ小学生高学年くらいの頃から、結婚せず独りで好きなことをやっているとかそんな生活をしているのではないかと密かに察していた。
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