第42話 非道い
旧校舎の扉をゆっくり開くと、中から血生臭い、嫌な臭いがした。
俺は思わず自らの腕で鼻を押さえた。
「うっ」
しかし、泣くほどではなかった。
少し、無意識に足が抵抗しているが、勇気を出して踏み出した。
暗がりで、全く先が見えない。
「に、虹村」
彼の名を呼びながら探すが、匂いのせいでうまく声が出ない。
「に、にじ……ゴホッ―—うっ……」
俺がその場に膝から崩れる。
しかし、虹村の顔が浮かんで、もう一度立ち上がった。朦朧とする意識の中で、嫌なものが見え始めた。
血まみれの緑色の布が見えたのだ。
「あれは?」
俺が目を見開いてその布に近づく。
布の先には、手首から先が無い左腕だった。
腕を辿ると、その顔には見覚えがあった。
MI6の先輩だ。虹村の次に潜入した先輩だった。
「先輩?なんでここに?」
その先輩の目には光が無かった。肌の色も白く、ゾンビ映画に出てくる、ゾンビのようだった。
肌の色と、瞳が赤色に変色していること以外は、全く同じ先輩だった。
俺の心臓の鼓動が早くなる。
息遣いが荒くなり、額からは汗が流れてきた。
「虹村!!虹村先輩!!どこですか!?どこに居るんですか!?」
今まで先輩らしく扱ったことも無かったのに、そこで初めて敬語を使った。我ながら、図々しいよな。
「どこ?どこに、居るんだよ!!」
俺が声を荒げながら走っていると、何万回も見てきた顔がそこにあった。
「虹村?」
一概にその顔が虹村と断言できなかった。
瞳の色は赤色。明るい茶色だった彼の髪色は白くなり、背中からは、天使のような白い翼が生えていた。
彼の名である
しかし左側の翼は千切れていて血まみれだった。無造作に巻かれた包帯と、みすぼらしく頬が黒く汚れた彼の顔を見て、俺は現実逃避をしたくなってしまった。
「先輩?ねえ、起きて、くださいよ。生きてるんですよね??」
死んでるわけがない。あの、底抜けに明るい彼は死ぬわけない。
俺はそう思いながら彼の肩を揺らした。
「虹村!!なあ、頼む。起きて、ください……」
頭では分かっていた。彼はすでに死んでいた。彼の両手は残酷にも千切れていた。
右腕の断面の先を目で辿り、手を握った。
そのまま千切れた先の左手の手のひらを頬に当てた。
とても、冷たかった。
「虹村……」
何度も、何度も彼の名を呼んだが、返事は聞けなかった。
突然赤い光が瞼の向こうから輝いて、俺は目を見開いた。
「真珠」
そう呟いて、俺は息を荒くして見つけ出した。
赤い真珠にかかった赤黒い血を見ながら、俺はその場にうずくまった。
「嫌だ……嫌だ!!虹村!!死なないで、欲し……かった…………!!」
今までにないくらいに涙を流した。
「悲しいか?」
俺はハッとして、後ろを振り向く。
「君の姿から、憎しみも憤りも感じられない。君は、先輩が死んで、悲しいんだね」
優しい男の声に、救いを求めたくなった。男の顔は暗くてよく見えないが、片目は赤くて少し怖かった。
「ごめんな。始末に時間がかかってしまった。もう少し早く処分しておくべきだったね」
そういう男の声から、俺は、目を逸らした。彼は敵だと頭で分かったのだ。
「俺は、
男はウィンクしながら、人差し指を口の前で上に向けた。
「その真珠、いつか、俺の妹に渡しておいてよ」
俺は自分の手の中で握られた赤い真珠を見ながら涙を流した。
「それじゃ」
男は一言だけ言うと、一瞬で何処かへ消え去ってしまった。
「こちら加織。援護を頼みます。旧校舎の理科室前です」
俺の目からは大量の涙が出てきて止まることは無かった。
「加織」
仕事をしていた時、局長に呼び止められた。
「はい」
「報告書を書け」
「……」
「返事」
「……は―—」
声が震えて、うまく言葉が出ない。
大粒の涙が、局長の机に落ちる。
「返事をしろ」
「——は、い」
俺は俯いたまま報告書の紙を受け取る。
「皐月くん」
「……」
俺は瑠々に名を呼ばれていることに気が付かず、無視してしまった。
「皐月……加織!!」
突然デスクを叩かれ、柄にもなく肩を揺らして驚いてしまった。
「いい加減にしなさい。泣いてる暇があるなら、さっさと報告書を書いて」
「うん」
俺は泣きながら、デスクの上のシャーペンを取った。
「職務に私情を挟むな」
「分かってる」
裕晴にすら、そう言われた。話にならない。全く仕事ができない。
「分かってる、分かってるから……今は話しかけるな」
今までにないくらいに尖った言い方をしてしまった。
あの時の男の言う通り、俺は、怒っていない。ひどく哀しいだけだ。
「虹村の事は忘れろ」
「はい」
後ろから咎めてきた局長にすぐ返事をする。
「人が死んだくらいでいちいち泣くんじゃねえよ。俺たちの仕事は死ぬことだ。そのくらいの覚悟で仕事しろ。怒るな。笑うな。楽になろうとするな。人間のように生きるな」
「……」
「復讐しようなんて考えるな。お前はなんで泣いてる?」
畳みかけられ、俺の目から涙が止まらない。
虹村の事なんて、忘れられるわけがない。あんなボロボロの姿を見て、忘れる方が難しい。楽になろうとなんてしてない。楽になれるわけがない。
―—人間なんて、大っ嫌いだ。
その後、局長から渡された虹村や、他の先輩が死んだ者の詳細に関しては、表向きには事故として処理され、虹村の死体は、解剖のために移動したが、結果は何も得られなかった。
ラトレイアーのグループCが行っていたのは、非道な人体実験だった。
その日の夕方、俺は一人残って作業していた。
資料にかかれた実験内容を報告書にそのまま写すだけの作業だ。
塩酸を耳から注ぐとどうなるのか。
全く違う性格の血液を混合させるとどうなるのか。
四肢をもがれた状態で、どれだけ生きられるか。
ウィングスウイルスに感染させられた人は、どんな能力を使えるのか。
吐き気がする。
報告書を描いている途中で虫唾が走った。
俺はすぐに隣の部屋まで走った。
洗面台に顔を埋めて、喉を逆流する異物を吐き出した。
「
すべての感情がそこで吐き出されたようだった。
喜怒哀楽がすべて、俺の身体の中から消え去ってしまって、跡形もなくなったようだった。
結局報告書には、極悪非道な内容が記された。
書いている途中で何度も、何度も、何度も吐きそうになった。
「ありがとう。もう良いぞ加織」
「はい」
報告書を片手に首を傾げる局長に背を向け、自分のデスクに戻ろうとした時だった。
「待て、加織。間違っても復讐なんて馬鹿げたことはするなよ」
「……」
いつも通りの説教だ。俺は俯いて適当に聞き流す。
「俺たちの仕事は、死ぬことだ。機密情報を誰にも渡さず死ぬのさ。ここは嘘だけの世界。虹村はスパイとして優秀だったな。お前は生きることに執着している。虹村に生きていて欲しかったと思っているんだろ?」
「何故?」
俺は思いがけず声を漏らしてしまって、とっさに口を塞ぐ。
「報告書の字を見れば分かるさ。小刻みに震えている。ところどころ、濡れた跡があるしな。泣きながら書いてたんだろ」
ペラペラと報告書の書かれた冊子をめくりながら局長が言い放つ。
「なあ、虹村の遺言でな、お前のことが書いてあった。優秀な後輩だったと。だが俺はそうは思わない。アイツは優しかったからそう言うんだろうが、俺は優しくないからな。お前が、復讐に囚われ何かしでかさないかが、心配なんだよ。怒るな、悲しむな、笑うな。ただ仕事だけをしろ。俺もお前も、この国のために作られたマッチ棒なんだよ」
少しだけ、苛立ってしまった。しかし、局長の言っていることは事実だ。
俺は涙の交じった声で、「はい」と言った。
◇ ◇ ◇
皐月が語り終えると、部屋に静かな時間が流れた。
歩美の両目から涙が流れていた。
皐月はゆっくりと歩美に近づくと、歩美の背中をさすって言った。
「なんで君が泣くんだ」
そう言いながら背中をさすられ、さらに涙が溢れてきた。
歩美の目に映っていた皐月は悲しさをそのまま擬人化したようだった。
憎悪を擬人化したような雪とはまた別だった。
雪は赤黒い血の塊のようなものだったが、皐月は透明で澄んだ水のようなものに見えた。
「そうだ。これを渡しておく。この赤い真珠」
「………」
皐月は右手の指に細い糸を絡めて歩美の目の前に突き出した。
「虹村が、サッカーの試合で、君の兄から貰ったんだ……まさかサッカー以外で敵になるとは思ってなかったが」
歩美はそっとそれを受け取る。そして皐月は再び口を開いた。
「いつか君の兄を見つけたときは、それを渡してほしい。君の手で直接な」
皐月は皮肉交じりにそう言った。
◇ ◇ ◇
雪は学校からの帰り道で、誰かと連絡を取っていた。
ガラス張りの公衆電話ボックスの中で雪の低く冷たい声が響く。
「あのさ、
ガラスの向こうで雨音が聞こえ始め雪はそっとガラスに手を当てた。
ガラスは冷たかった。
『復讐屋なんて辞めて、もう一度、ラトレイアーを追いましょうよ。先輩ほど優秀ならきっと』
「あのさ、逢零、復讐は何も生まないって思ってんだろ?」
受話器の向こうで逢零の声が聞こえなくなる。
雪はお構いなしに話を続けた。
「確かにな、行き場のない怒りや悲しみを、他人にぶつけるのは、何の生産性も無い無意味な行為だが、それでも、他の誰かの気持ちが癒えるのなら、あたしはそれで構わないのさ」
『……俺は、今、CIAで一人なんですよ』
「
『それは……』
先日、上司二人を一気に亡くした。フォリーに殺されたから。非常に癇に障るが、逢零は元来冷静な性格なので、必死で我慢していた。
以前からクールな逢零だったが、薬研と月城が死んで、その冷たさは増していったように思う。
元後輩のSOSを察した雪はもう一度冷静に言った。
「分かるよ。お前の気持ち。辛いよな?苦しいよな?分かるよ。あたしも同じ気持ちだ。この気持ちは一生残る。そして薄まらないし消えもしない。あたしは苦しかったから、今こうして生きている。正直、後悔はしてねえよ。
でもな、逢零。まだ早いよ。お前はまだ小六だ。フォリーも死んでいる。意味のない復讐をしようとするくらいなら、普通に、CIAの仕事をしてくれ」
逢零は電話の向こうで涙を流した。そして、皮肉るように雪に問う。
『MI6の加織皐月にも、同じことが言えますか?』
雪が珍しく驚いた顔で固まった。
『知ってますよ。イギリスについて調べたときに彼の名が出ました。こっちでも有名人です。同い年なんですから、当然知ってますよね』
「ああ、アイツねえ。知らね。復讐じゃない道を選んだのはあたしじゃなく、アイツさ。あたしはアイツ助言なんぞしてねえし。気になるんなら上司の、
聞き覚えの無い名に逢零が首を傾げる。
『鮫島さん?』
「ああ。鮫島
『き、きめん?』
「とにかく、急いでんだ。じゃあな」
雪は無造作に電話を叩きつけた。
そして深いため息を吐くと、電話ボックスの中で座り込んでしまった。
「ごめんな、逢零」
雪はそう小さく呟き、一筋涙を流した。
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アントレッド 雪葉 @yukiha1225_2008
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