第40話 これから
薄暗いバーのカウンターの奥で、しゃがんだ流の嗚咽が響いている。
店内の灯りが流の目尻に乗った涙を光らせた。
歩美が流に近づきしゃがみ込む。
「マスター」
「これだから嫌いなんだよ……あいつら……」
流がそう呟いた瞬間に歩美が、不思議な顔をした。彼が何を言ったのかよく聞こえなかったのだ。
「頭では分かってるのになあ……カルムが悪いって分かってるのになあ……なんで、なんでこんなことになるんだろう。アイツらは悪くないのに……」
流がさっきよりも大きめの声で歩美に語った。
「松村もいないのに……これからどうするんだよ」
「……」
しばらく沈黙が続いた後、歩美が口を開いた。
「諦めちゃダメだよ!!マスター、まだ希望はあるはずなんだよ。それまで絶対に……」
諦めちゃいけない、そう言おうとした時、右肩に何か感触を感じた。
後ろを振り向くと、景音が立って歩美の肩に手を置いていた。
「流」
「……」
自分の両腕に顔をうずめた流が顔を上げ、景音の顔を見る。
景音はしゃがみ、流の目線に自分の両目の高さを合わせる。
「FBIに居た頃にな、すごく大事な人が居たんだ。その人は、俺がFBIになってすぐにカルムに殺されたけどな。受け入れるしかないのさ。たとえそれが理不尽なことであったとしても」
景音は涙でボロボロになった流の顔を見ながら言った。
そんな彼の顔を見た流が静かに言い返す。
「そんなことが俺にできると思うか?大事な人を失って、そんな簡単に受け入れられると思うか?俺は、お前とは違うんだよ。そう簡単に受け入れて、生きていけると思うか?お前にとっては簡単でも、俺にとっては難しいんだよ。もう、無理だ。復讐の事しか考えられない……」
流がまた顔を両腕に埋めた。
「……」
コンコン。
カウンターの向こうからノックが聞こえた。
「おい流、客だぞ」
「……」
流が黙ったままなので、景音が立ち上がり、小走りでドアノブに向かった。
ドアノブに手をかけ、カランカランとドアを開けると、今藤と愛川が立っていた。
「聞き込みだ。MI6連続殺人事件についての」
今藤がズボンのポケットからメモ帳と鉛筆を取り出した。
「菅沢は?」
「ああ、気にするな。俺が代わりだ」
愛川の質問に景音が返す。
「居るんでしょ?ほんとは。何があったの?」
「何も無いって」
景音が面倒くさそうに返答する。愛川は不満げな顔になった。その顔を少し後ろから見ていた今藤が、「止せ愛川。アイツは今関係ない」と言った。
「分かった。じゃあ、せめて中に入れさせてよ。今日、朝からずっと聞き込みでうんざりしてんの」
「ああ、何か出してやる」
景音が愛川と今藤に背を向けカウンターへ向かった。
景音はズボンのポケットから小さい丸い円盤のようなマイクを取り出した。それを口元まで持っていくと、「刑事二人が店に来た。会話を聞かれないようにしろ」と小声で言った。
「何が欲しい?」
景音はカウンターの向こうに立つと、カクテルグラスを二つ取り出した。
「酒瓶を空にするつもりはない。俺たちが欲しいのは情報だ」
今藤がしゃれた冗談を言いながらメモ帳をカウンターの上に投げつけた。
「MI6ならここじゃなく英才中学校に聞き込みしに行ったらどうだ?」
景音が後ろに在る冷蔵庫からレッドアイを取り出しカクテルグラスに入れながら今藤に言った。
「そんな遠いところまで行けるか」
「早く飲まして」
愛川がカウンターの上に顔を伏せた。
「そういえば菅沢に聞きたいことがあったんだよ」
愛川が突然顔を上げた。
「四年前に、とある冤罪事件があって、その事件に、菅沢が関わっていたか可能性があるから、聞いてきてって先輩に頼まれたの」
「そういや、あったなそんな話が。確か、被疑者が留置所で自殺したんだっけな」
その言葉を聞いた時、景音の手が一瞬止まった。
カウンターの裏に背中をつけた流の姿を景音が上から見下ろす。
流が自らの両腕で身体を包んで、小刻みに震えていた。
「……それより、MI6連続殺人ってなんなんだよ」
「知らないのか?昼の放送でやってたろ。七人のMI6諜報員が殺されたんだ」
景音が愛川の前にレッドアイを入れたグラスを置いた。
「おかしくね?」
「え、何が?」
「なんでMI6だって分かったんだ?」
「そりゃIDがあったからで」
今藤がそう言った瞬間、景音の表情が陰る。
「おかしいだろ。MI6はCIAと同じで、諜報活動を行っている機関だ。普通IDは持ち歩いたりしねえよ」
「で?だったらなんなんだよ」
今藤が景音の顔をねめつける。
「そのIDを誰かがわざと置いた可能性があるってことだ」
景音がそう言った瞬間に、今藤が目を逸らした。
「なにこれ?」
「レッドアイだ。ちょっと酸っぱいだろ」
愛川がカクテルグラスを置いた。そして黒い財布を内ポケットから取り出すと、百円を景音に渡した。
「ありがと。気休めにはなったわ」
「参考になったのか?」
景音が皮肉気に笑うと、今藤が鼻で笑った。
「どうかな」
二人はそう言った、部屋を店を出て行った。
景音はしゃがんで流の方を見た。
「大丈夫か?」
「少し、冷静になった……こんなことを……している場合じゃない……重要なことを、思い出した……まだ受け入れきれないが」
「……そうか」
流が立ち上がり、カウンターの上のレッドアイを飲み干し、水道に置くと、すぐに店を出て行った。
そんな彼の後ろ姿を景音が心配そうに見つめた。
◇ ◇ ◇
地下の会議室で、尚人が口を開いた。
「それで?松村が居ない今、ここでの期待のハッカーは俺しかいないんじゃないか?」
「……そうだな」
管理官がそう呟きながら帽子を手に取った。
その様子を見ながら雪が左手を上げる。
「悪いが、あたしはちょっと先に帰るぜ。ちょっと用事があるんでな」
「どこに行く?」
「気になることがあるからな」
雪は尚人が呼び止めるのを聞かずに部屋を出て行った。
◇ ◇ ◇
雪はマスターの店を出て行った数分後、一階のC棟の立ち入り禁止になっている家庭科室に入った。
「おい。いるんだろ?皐月」
雪がその部屋の中で彼の名を呼んだ瞬間、被服室へ続くドアがガラガラと開いた。
「どうして?」
皐月が無表情のまま、雪に聞いた。雪はニヒルに笑い、両手をポケットに入れたまま、皐月にじりじりと近づいた。
「お前、歩美にMI6だってことばらしたんだろ?」
「どうしてそれを」
「アイツがあたしの正体を見破った時点で分かったよ」
雪が速度を変えずにゆっくり近づいていく。
「お前が教えたんだろ。あたしの正体を。本当なら、歩美一人じゃ分かるわけないしな」
皐月の顔が少しだけ険しくなる。しかし、雪はそれに気が付かない。
「普通、CIAやMI6のような諜報機関は、自分の正体を、家族にさえバラさない。公安も同じさ。なんで教えたんだよ」
「……」
黙ったままの皐月を見て、雪が笑ったまま立ち止まった。
「ま、聞かなくても分かるがな。歩美を仲間に引き入れるためだろ。お前の仲間が連続殺人に巻き込まれ、殺されまくってる時に、一人じゃどうにもならないと踏んで、歩美に助けを求めようとしたんだろ?」
「俺は、そんなことしたつもりは無いが」
一向に認めない皐月に雪が珍しいしかめ面でため息を吐いた。
◇ ◇ ◇
流が地下のドアを開け、周囲を見渡す。
「秋原は?」
「気になることがあると、どっかに行ったぞ」
「それは残念だ」
流はそう呟くと、椅子に座って嗚咽している冴香を見つけた。
ゆっくり近づいて、彼の背中を撫でた。
「ごめん。言い過ぎた。お前は何も悪くない」
「……ごめん」
その様子を景音が、訝しく見つめる。
「さっき、海の部屋にお邪魔して、書類をいくつか取ってきた」
「お前勝手に……」
「ごめん、海」
勝手に部屋に入ったことに対して、憤りがあったが、いつにない彼の暗い恰好に、とても心から起こる事は出来なかった。椅子から立ち上がった海が申し訳なさそうに座りなおす。
「何の書類だ?」
「四年前、連続殺人事件の犯人が冤罪で捕まった事件についての書類だ」
「……流」
歩美は興味津々にその書類を手に取った。
「マスターはこれに何か関係あるの?」
「……」
歩美の質問に流が黙ったままだ。
「管理官、リュゼに依頼したい」
「……」
流がそう言って、管理官の机を両手で叩く。
「頼む」
「無理だ」
「理由は?」
「彼女が、お前のくだらない復讐劇に、手を貸すと思うか?」
流が目に涙こそ浮かべたが、口角を上げて管理官を問いただした。
「彼女の中には、彼女自身の正義がある。お前の正義とは違うんだ」
「リュゼの仕事は、他人が行使の仕方が分からない正義を、代行して振りかざすことだろう?」
「それは違う。お前の言う正義は、間違いを正すことだが、リュゼの言う正義は、行き場のない怒りや悲しみを人の心からなくすことだ」
「そんなん、俺だって同じだっつーの」
流が顰蹙し、管理官が俯く。
「だったら、本人に直接話をしろ」
「ああ、やってやるよ」
◇ ◇ ◇
雪は目の前にいる、黒くて暗い人間なのか分からない何かに、喧嘩を売っていた。
しかし、その彼は一向に口を開かない。
数分経って、根負けした皐月がやっと口を開いた。
「何が言いたい?」
「教えてほしいのは、MI6がここで何の用だってことだ。ここは、日秀学園だぞ?」
「……」
再び口を噤んだ皐月に、雪が鼻で笑った。
「おいおい。こっちはお前に撃たれて死にかけたってのに」
「撃たれるような真似した、お前が悪い」
「黙れよ」
まるで日常で男友達と話すような雪の様子に、皐月が目を細める。
彼はおもむろに自分のジャケットの裏に手を伸ばし、先を雪の方へ向けた。
「そこまでだ、サジェス所属の復讐屋であるリュゼ。お前のことなら分かってる」
雪は笑ったまま両手をあげ、手のひらを皐月の方へ向けた。
「一つ質問が増えたんで聞いてもいいか?」
「……ああ。なんだよ」
「あたしのことを調べた理由は?」
皐月が目を見開く。
「依頼したいんだろ?いいぜ別に。その銃をおろしてくれたらな」
皐月が俯いて拳銃をおろした。
「俺は、依頼したいんじゃない。ラトレイアーのCの幹部について知りたいだけだ」
「……へえ。なんで?」
「お前には関係ない」
皐月が少しだけ語気を強めた。
それに勘づいた雪が、首を横に振った。
「ペルペテュエルか。奴なら会ったことがある。幼くて、愉快な奴だ」
「ほかに特徴は?」
「知らない。会ったのも一度きりだ」
雪は両手をズボンのポケットにしまった。
「お前が、彼と仲良くできるかは、分からないがな」
雪は皐月に背を向け、歩いて行った。
◇ ◇ ◇
地下の戸を開けると、全員が雪の方へ視線を向けた。
「なんだよ」
雪の目は、さっきよりも暗いように感じた。
「リュゼ」
「あ?」
自分のことが大嫌いなはずの彼が自分の方へ近づいてきて、嫌な予感がした雪は二歩ほど後退る。
「依頼だ。この事件を担当した警察官を全員殺してくれ」
「無理だ」
即答だった。雪は流の顰蹙を買ったのだ。
流が雪の胸倉をつかんで、顔色を変えた。
「俺の昔の話は知ってるくせして、なんで依頼を受けない!?」
「悪いが、あたしは忙しいのさ。それに、そういう復讐なら、お前ひとりでできるだろ?」
流が雪を投げ捨てるように突き放した。
流が自分の髪を掻きむしって、額をテーブルにぶつける。
景音が、流の背をさすった。
黒いジャケットに乗る景音の手を見た雪が訝し気に目を細める。
「サージュ、その手……」
景音の手に微かに赤い残酷な傷が見えたのだ。
全て言いかけるのを止め、左手で口を覆う。
「西崎、私用事があるから、出てってもいい?」
「構わない」
「待って歩美、用事って?」
紗季が歩美の肩を掴んで止めようとした。
「大丈夫。一人で」
そう凛々しく言う彼女を紗季が心配そうに見つめていた。
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