第36話 笑わない

 サッカー部の中でも異様な雰囲気を放つ加織皐月かおるさつきは奇妙な噂があった。

 笑ったところが殆どないというのだ。

 しかし完全に笑わないわけではない。ただ、笑ってもほほ笑む程度と言うだけなのだ。

 そもそも、泣かないし、怒らない。


 一階のたこ焼き屋で店の準備をしながら尚人がふと疑問に思ったのだ。


「うーん……なんでかな」


 右手を顎に当てたとき、尚人が自分の右手を見る。

 巻いていた包帯がめくれていた。


「ああ、まずいまずい」


 尚人が急いで包帯を巻きなおす。


「尚!」


 幼馴染の声が聞こえ、尚が「うわ!!」と声を上げる。


「びっくりさせるなよ、雪」

「悪いな。尚。少し話したいことがある」


 雪にそう言われ、尚人が目をぱちくりさせた。

 雪は尚に背を向ける。


「管理官が、お前を欲しがってる」


 尚人は少し驚いた表情をする。


「……それって……」

「お前の能力が認められたんだ。ボスと管理官が、お前をホワイトハッカーとして雇いたいんだと。そこで、一番お前に近い人物であるあたしに頼んだんだ」


 尚人は少し考えた後、口を開いた。


「お前は、俺で良いのか。松村は公安警察の協力者だ。冴香も、公安警察で、サジェスの中にはそう言うやつが多い」

「あたしらサジェスは、捕まったりするリスクを取らない。あたしは正直リスクを取っても構わないんだが、全員で協力するとなると、話が変わってくる。だからお前にしたんだ。お前なら、松村と能力も変わらない」


 雪は飄々と話を続ける。尚人はもう一度、雪に聞いた。


「もし、俺が裏切ったら?」

「……あたしがいるだろ?」


 尚人は驚いた。

 雪が自分の事をどれほど信頼してくれているのか、改めて分かったのだ。


「ああ、そうか。分かった」


 尚人はあどけない笑顔を雪に見せた。雪は懐かしそうな顔をした。


薄暗いバーの中で、客の声が聞こえる。


「んでよ、俺がその女に薬売ったら、すぐ着いてきやがったんだよ。ほんと、ちょろいやつだったぜ。あれくらいなら簡単に殺せるな」

「そうだな」


マスターはそっけなく言う。

 すると、バーの扉が開いた。


「マスター」

「管理官?」

「シラーズを一杯」

「変わらないな。どうしてそんな辛い酒を飲むんだ?」


 マスターは管理官に背中を向け、ワイングラスを取り出す。

 ワイングラスに"ワイン"を注ぎ、カウンターへ出した。


「あ?なんだこのチビ?」

「……口を慎んだらどうだ?たかがヤクザ風情でよくそんな大口叩けるもんだな」


 管理官のセリフに苛立ったヤクザは、大声で言った。


「馬鹿じゃねえの?こんなチビが俺に勝てるわけ……」

「人間は不思議だよな。たとえ、アルコールの含んでない飲み物でも、酒だと思い込めば、本当に酒を飲んだみたいに酔っぱらうんだからな」


 管理官がそう言った途端、ヤクザが思い切り、彼に殴りかかろうとしていた。

 その瞬間、マスターがヤクザに水をぶっかけた。


「あ?」

「止せ。やめた方がいい。こいつはお前が思ってるより強い」

「おいおい、止すのはお前の冗談だろ?なあ、逆に聞くが、こいつがお前に勝てると思うか?」


 マスターは冷静に言い放つ。


「思う。だから止せと言ってるんだ」


 マスターの冷たい視線と、本当に心の底から忠告している彼の様子を見て、ヤクザはそのまま椅子に腰かけた。

 隣の管理官の蔑むような視線を見て、そのまま顔を伏せて眠ってしまった。


「で、今日は何しに来た?」

「単に仕事だ。毎日来てんだろ?」


 管理官はワイングラスのふちを口につけて、少しだけ傾けた。


「今、俺たちのメンバーの幾人かが探偵に正体がバレ始めている。できるだけバレないようにしてたんだが……まあ、お前はしょうがない」


 彼はワイングラスの脚を人差し指と中指の付け根で挟み、軽く回していた。


「一人、新人を増やすことにした。少々頭が切れるようだ。俺より使える」

「そんな奴がいるのか」


 管理官はワインを一気に飲み干し、席を立ちあがった。マスターを下から見上げた。


「ああ。お前も良く知ってるさ」


 管理官はレジ前に立ち、財布から一五〇〇円取り出した。


「会計を。それと……」


 マスターは五百円だけを手に取った。


「……この店で一番高くて辛い酒を頼む」

「ああ。分かった」


 マスターはコップを取り出し、レジの隣に置いた。


「じゃあ、こちらへ」


 彼は両手に手袋をはめ、裏口へ案内した。



 数分後。


「ここってマスターの店か。こんなところで何を……」

「まあ見てろ」


 雪と尚人がマスターの店に入る。


「秋原、それに……尚?何しに来たんだ。二人でおしゃべりにでも来たのか」

「いや、注文だ。ホワイトレディを四杯。それと、今一番新しい酒を」


 雪は後ろにいる尚人を少しだけ見ながら言った。

 マスターは尚人を見て、ため息を吐く。そのあとすぐに口を開いた。


「管理官の言ってた新人はお前だったんだな」


 そう言って新たにコップを取り出し、雪は千円を丸めコップに入れた。


「もう一枚」

「十分だろ」


 雪は意地の悪い笑顔を見せると、マスターに案内しろと、顎で示した。

 マスターは雪の表情に反して不満げな顔をした。



 紅茶の匂いが日に日に強くなる事務所の中で歩美が突然叫んだ。


「あ、思い出した!!」


 紅茶を入れている紗季の肩が揺れる。


「何?」


 少し強め口調で紗季が歩美の顔を見ながら声を上げた。


「今日の実習で、家庭科室に課題のプリント忘れた!!」

「だったら、早く取りに行きなさいよ」


 紗季が強めの口調のまま歩美に言いながら、紅茶をカップに注いでいる。



 歩美が走って家庭科室の前に立つ。

 家庭科室の引き戸の引手に手をかける。


「失礼しまーす」


 少し小声で入る。

 対して怒ってくるような先生もいないし、後ろめたい理由など無いのに、億劫になってしまう。

 できるだけ足音を立てないように歩く。

 調理室の机の上に置かれたプリントを見つけた歩美は、宝物を見つけたときのようにぱあっと笑顔になった。


「あった……!!」


 小声でそう言うと、突然ガタンッと音がした。


「ひぃっ」


 珍しく短い悲鳴を上げてしまった。

 歩美は先ほどの音の行方を目で追った。


「あそこ?」


 音がしたのは、現在は使えない被服室だった。

 一時期は幽霊が出ると噂になっていた部屋であり、中の機材がボロボロであったことと、新しく入って来た新任の家庭科教師が職員会議で、別の部屋を使いたいと言い始めたことにより、現在は立ち入り禁止になっている。

 しかしそれも三年前であり、歩美の兄である在人あるとが行方不明になった年と同じ年だった。

 兄が学校から帰ってきて、この家庭科室の怪談話をして歩美と茜を怖がらせたのも、もう昔の幻想で、今の歩美には思い出すほどの余裕は無かった。

 しかしながら、頭の片隅にその怪談話が蘇り、歩美の心を恐怖で支配していた。

 頭の中で兄の顔を浮かべ、歩美は肩を震わせながら、被服室へ続くドアのノブに手をかけた。


「ふぅ」


 大きく一息つくと、ドアを開いた。

 開いた先には、英才中学校の校内地図が貼ってある。

 地図の右下に英才中学校と消えかかった字で書かれていたからだ。

 窓はカーテンがかかっていて、部屋の中はまるで夜のようだった。

 暗くて分からないが、机の上に置かれているのはスピーカーで、隣にはマイク付きのヘッドフォンがある。

 そして歩美はその机にゆっくり近づく。

 机の上には、血まみれで、背中から羽の生えた白い髪の青年の姿が写った写真。そしてその周囲には隠し撮りされたであろう、白い髪で赤い瞳を持つ青年の姿。そしてその二枚の違いは、二枚目の方は顔に赤色で×印がつけられていることだ。


「これは……」


 歩美が顔を顰める。そして目を細めた。

 一枚目に映った青年に見覚えがあったからだ。


「この人は……」


 カチャリ。


 後頭部に固い何かが当たっている。


「そこで何してる?お前は誰だ?」


 低く小さい声が聞こえてきた。

 拳銃を直接突き付けられ、歩美が息を呑んだ。


「この時間だから誰も入って来ないだろうと思っていたのに。まさか、来るとはな」


 青年の拳銃を握る手が強くなる。


「わ、私は、山根歩美。この写真に写った青年は?」

「山根……お前には関係な―—」

「——ある!!」


 恐怖に耐えきれず歩美が叫んだ。


「この人、何処かで見たことがあるよ」


 歩美が机の上に置かれた写真を叩いて示す。


「…………」


 カチャリ。

 拳銃をおろす音が聞こえ、歩美が後ろを振り向く。

 暗くて顔が良く見えないが、左手に包帯が巻かれている。

 辛うじて見える瞳は真っ黒で光が一切ない。


「俺は加織皐月。MI6の諜報員だ」


 皐月は機械的な声で歩美に言った。

 歩美は恐怖に縛られている。

 頬に汗が伝い、皐月の顔をろくに見れなかった。


「彼の名は、虹村。聞いたことあるのか?」

「いや、名前は知らない。前に、サッカーの試合で見たことがある気がしたから。お兄ちゃんが活躍した試合で……」


 皐月は眉尻さえ微動だにしない。


「……じゃあ、これを知ってるか?」


 皐月は制服のジャケットのポケットをごそごそと探っている。

 ポケットから出てきた皐月の指には黒く細い紐が絡み合っていて、その紐の先には、赤い真珠がぶら下がっていた。

 数年前に在人がよく、お守りだと言って、試合には必ず持っていった真珠だった。


「な、なんで!?なんで君がこれを!?」

「なんでかな……」


 皐月は笑いもせず、泣くこともせず、ただ淡々とその真珠を再びポケットの中へしまった。


「山根さん。君の兄は、どこにいるか分かる?」


 皐月の意味深な質問に、歩美は恐怖の感情から猜疑心の強い顔へ変えた。

 その顔を見た皐月は、拳銃から弾を抜いた。


「ねえ、答えてよ」

「知るわけないよ。だから、探偵になったのに!!」


 突然叫んだ歩美に、皐月は一瞬たじろいだが、拳銃を床に落とした。

 包帯の巻かれた左手を歩美の背中側にある机に伸ばす。

 机に手を叩きつける。

 ガシャンと、机が揺れたとき、同時に歩美の肩も大きく震えた。


「じゃあ、君に情報をあげるよ。俺が小四の時、判明した事実だ。君の兄は、ラトレイアーのメンバーで、C

……?」


 歩美の顔がどんどん青ざめていく。

 まさか、自分の兄が……


「死んだの?」

「分からない。もう四年も前の話だ。英才小学校の頃、MI6だった、俺の先輩が手に入れた情報」


 皐月はすぅと、小さく短い息を吸うと、もう一度、歩美に聞いた。


「Cの幹部の事は知ってるの?」

「い、いや。知らない」


 歩美は不安に駆られた表情から、険しい顔へと瞬時に切り替える。


「Cの幹部の名はペルペテュエル。フランス語で、不滅という意味のコードネームだ。そこの写真に写る彼がそうだ」


 歩美が机の上の写真に視線を移す。

 おそらくは顔に大きく×印がつけられた青年だろう。


「怒ってる?」

「うん。すごくね」

「……」


 皐月の表情は一切変わらない。

 しかし、肩が震えている。


「俺の先輩が殺されたんだ。どんな手を使ってでも、捕まえる」


 背中から見える皐月の姿は、復讐という言葉をそのまま擬人化したようなもので、少しだが雪に似ていた。

 面影がある。

 二人は兄妹なんじゃないかと思うくらいだ。


「皐月、くん?」

「山根さん。文垣先生の事、知ってますか?」

「えっ?」


 突然の質問に、歩美が目を細める。自分の耳を疑ったのだ。


「文垣先生は、とある組織のメンバーに狙われている。殺し屋だと思うよ。殺しの依頼だから」

「知ってる」

「山根さん。明日、B棟とC棟の渡り廊下に来てください。そこで分かります」


 皐月はさっき自分が落とした拳銃と、その弾丸を拾うと机の上に広げた。


「この事は、誰にも言わないでください」

「いや、申し訳ないけど、この事は私の助手には伝える」

「……そうか」


 皐月は声色を一切変えず、歩美に言い放った。



 ガチャ。

 事務所のドアを開けると、紅茶の匂いが混ざった風が歩美の顔に当たった。

 歩美は深呼吸すると、「あああ~」と赤いソファに寝転がった。

 紗季は書斎机で紅茶を飲んでいる。


「……プリント取りに行っただけでしょ。なんでそんなに疲れてるの」

「紗季ちゃん。加織くんって知ってる?」

「……」


 紗季が紅茶を飲む手を止めた。

 カップの中で紅茶が踊っている。

 紗季は目の色を変えたが、瞬きすると、元の茶色い瞳に変わった。


「知ってるけど」

「その加織くん、MI6だって、さ」


 歩美が目を見開いて紗季の表情を観察する。


「そう、なの。それは驚きね」


 紗季の表情は驚いていた。紅茶を飲む手を止めなかった。

 歩美はその紗季の動きを見て、目を細める。


「明日、放課後にB棟とC棟の間に向かう。そこで、文垣先生の暗殺の手掛かりがつかめるかもしれない」

「MI6連続殺人事件は、どうするの?」

「一緒に解決する」


 ソファの上で、歩美はうつ伏せになった。

 ソファの端に置かれた赤いクッションに顔をうずめると、目だけを出して窓から見えるマスターの店を睨んだ。

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