第32話 嫁によって俺は決心を新たにする (アカイ10

 やっぱり彼女は違った! と俺は上機嫌である。


 前世にいたころのクソ女どもとはまるで違う存在! 宿屋の窓で一人涙に滲む夕陽を見ながらつくづくとそう思う。こちらのことを詰らず遅れたことに対して謝罪するだなんて。涙どころか鼻水まで出て来るが流れるがままにし記憶の再生に努める。朝日をバックにした彼女はまさしく後光が射していた。その一言一言がまさに慈悲深いお言葉。


「そのまま逃げてもよかったのに」

 と半ば本気半ば冗談の言葉に対し彼女の真剣な表情でたしなめてくれた。

「そんなことありません。私は卑怯です。あなたを置いて行ってしまうなんて。助けに入ったのは当然です。これから旅を続ける間柄なんですから」

 俺は感動に撃ち伏しがれた。あんなに怒っていたのにすぐにそう返してくれるとは。しかもしかもだ、その次がこれだ


「さっき咄嗟にアカイと呼んじゃったからさ、そう呼んでいいですか?」

 そう、これ! ついに名前の呼び捨て許可申請が来たんだ。下の名前呼びが嫌だったのは残念だけどアカイなら、いいか。この世界では名字という概念がどういうものか知らないが。ひょっとしたらと俺の下の名は発音し辛いのか、あるいは違う意味の言葉を連想して使いにくいのかもしれない。何で呼んでくれないのかなんて聞いたらうざがられるから聞けなくてもどかしい。本当に聞きことほど聞けないのが人間同士の関係でもっとも苦しいところだ。自分から言ってくれればどれほど楽で都合が良いか。


 まぁどっちでもいい。兎にも角にも彼女は俺の名前をちゃんと呼んでくれる、これが大事だ。女から「おい」とか「お前」とか「あの」「すみません」とか威嚇や侮蔑や警戒や恐怖を混ぜずに名前を呼んでくれる……感涙ものだ。ちゃんと人格が認められ存在が受け入れられているってこと。


 しかも彼女側の提案で。おまけにその次はもっとすごい! 俺がシノブちゃんと親しみを込めて言ったら目を逸らしてきた。だいたいいつもこんな感じ。いままで恥ずかしいのか嫌なのか分からなかったが、どうやら嫌な方だと分かったもののそんな心へのダメージを無効にしてくれる言葉が来た。


「いえ、だから。アカイも私のことをシノブって呼んでもらいたい」

 呼び捨てして良いんですか! 俺はそう言いたいところを必死で堪えた。その意味を彼女は知っているのかな! それはよほど仲が良くないと呼び合わないんだって。だがもしかしたらこの世界だと呼び捨てが普通で下に何かをつけるのは不吉なことなのかもしれない。それをずっと嫌がっていたのかも。だけどまぁそんなのはどうでもいい細かいところは置いておこう。


 こっちの世界のルールがなんであれ、俺は呼び捨てができるのだ。こんなに若くて綺麗で可愛い美少女または美女に。否定する理由もなく俺はシノブ、と生まれて初めて……いや小学生のころは女子を呼び捨てにしていたのかも。その頃はギリギリできていたのかも。もしもできていたらそれ以来だが、そこはノーカンにしよう。まるで小学校以来久々に女子とまともに話すことができて喜んでいる悲惨な奴と同じになってしまう。まぁそうなんだけど……いやいや違うんだ俺はそうだが違う、俺はそういった底辺な連中とは違うんだ。できないんでなくてしなかったんだ! 現に見ろよ俺の隣にはあんなすごい存在がいて、しかも名前を呼び捨てに出来るんだぞ。互いに様とかさん付けでもないからな、そこはよく承知しておけ。おまけも金も払っていないからな。崇高なる使命のもとで俺達は結ばれるんだ。次元が違うんだよ次元がそう次元が大介。


 錯乱状態に近い千々に乱れた心のままの心を落ち着かせるために、俺は彼女の名前を誰にも聞こえないような小声で口にすると満たされ頷いた。ああ俺の嫁! あの時の怒りはいったいどこに行ったのか、いや帰って来なくていい、消えてくれ。忘れたころにやってくるとかやめてくれよな! 大事なのは俺は生まれて初めて女を呼び捨てにしてそれを受け入れられたのだ。このまま結婚したい! ここまでを考えてみると好感度はむしろプラスに向いている。実際にそうだとも。二度の悪党退治はプラスになりこそすれマイナスにはなるはずがない。それどころか日々関係性は向上している。だからあの二度の失言は実に惜しかった。


 あれさえなければ自分の下心は隠し通せて彼女はもっと心を開いてくれていたはずだ。あれがあるからこそどこか余所余所しくて警戒心が見え隠れするのも当然となる。俺はおっさんであちらは美少女。むしろその警戒心は貞操観念の強さとして清らかで頼もしいが自分に向けられるのはやはり辛いものだ。他の男に対して向けて貰いたいものだ。俺は君の夫になる男なんだぞ! たぶんぜったい。


 もうあんなことしません、と彼女の目の前で宣言し土下座したいぐらいだが、それはカッコ悪いからしたくはない。男の沽券に関わる上に年上の男のそんな行動を年下の女は軽蔑するだろう。けどもしかしたら喜ぶかもしれない。現に俺は学生時代にクラスでヤンキーに囲まれ嫌な女に頭を下げて……違う! 思い出すな! 早く忘れろ俺! シノブはそんな女じゃないと俺は、信じている! シノブがあの失言をどうにか忘れる方法がないのかとモヤモヤしていると、お次に彼女はこう言った。


「少しずつ改善していこう」

 そうだ、と俺は同意した。あれは独り言だったかもしれないが、俺はそれを確かに受け止めた。そうとも少しずつ、焦るな、焦る必要はないんだ。シノブこそが俺の運命の女であることは変わりはないんだから。少しずつ関係を進めていこう、そうだともそうだ、焦るな俺。


 ここでようやく俺は手の甲で顔を拭い思う。俺の嫁に良いところを見せたい。次の街ではもっと活躍しよう、もっといいところを見せよう。俺はやる男なんだ、と俺は決意を新たにした。

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