第30話 俺は好かれてはいないが嫌われてはいないはず (アカイ9)
もうおしまいなんだよぉ、と俺はこの夜明け前の草原のなか歩きながらそう思い続けている。俺の心は闇に覆われていてまるでこの夜と同化しており、彼女との関係を考えると泥沼にずぶずぶと沈んでいく思いである。
あの二度目の嫁宣言を聞かれての抗議というか大反論&全否定。すごく怒った女の声だった。こわい、めっちゃ怖い。身体が竦んだ。悪党の暴力は痛くて怖かったが彼女の声の方が耐えられなかった。俺はあの声は子供の頃を思い出してすごく嫌なんだ。過去が凄まじい勢いで俺の中から湧き起って来て身体を痺れさせ頭の中が真っ白となる。思わず顔を背けて見ないようにして良かった。般若のお面みたいに怒った女の顔は男は見ない方が良い。見たとしてもこれが彼女の本性とか考えずに、そういう時もあるしそんな一面もあると深く考えずに割り切らねばならない。
「私とその人はそういう関係じゃ断じて絶対にありません!」には参った参った。あのね、そのさぁ、将来的にはそうなるのであって今じゃないんだ。そこを勘違いしているようだからつらつら説明させてもらいたい、とはできんよな。できるはずがない。そうだろ? だって言えるはずがないじゃん。いいかいシノブちゃん? 君と僕はこの旅を通じて仲が深まり結婚というゴールを迎えるんだよ!
お前言えるかこんなこと? 火に油を注ぐかのような発言を言ってみろ。たちまちのうちに大炎上で消し炭だから絶対に言えない。それから鎮火のために水をぶっかけてはならない! 天ぷらでの火災はそうやって起こるんだ! 火のついた油には水だって通用しないんだ。ヤバいんだよキレた女と台所からの火事は! 多分この二つは一緒の存在。
でも彼女の気持ちも分かる。俺は夜風によって冷やされている頭で考える。出会ってすぐ男が結婚を迫ってきたらそら怖いよな、と。逆の関係であったら俺なら一日もいらない一時間でも一分でもOKだがあちらはそうはいかない。ましてやシノブならそういくはずがない。石油王の息子や一国の王子とかなら話は別だろうが。
だってそうだろ? あちらは綺麗で可愛くて若い娘。無敵だ。俺にだって多少の分別はある。燃えるゴミと燃えないゴミの分別はできるし捨てる日も間違えたりはしない。俺はそういうところは几帳面で真面目なんだ。人から怒られたくないからね。もしもドアの前に出したはずのゴミ袋が置き返されていたら玄関で腰を抜かし以後怖くてゴミ出しできなくなりゴミ屋敷を形成しそうだしさ。
そのシノブの対極にいるこちらは半端な身長でブサイクで歳をとったおっさん。金も権力もない存在が卑小でまるで可愛くない奴。客観的に考えてそんなのに嫁宣言を二度も聞かされたら耐えられないだろ。だからあんなに怒った。そうだったんだ。前回のも彼女も心の中で引っ掛っていた。だけどそこは我慢していたが二度目で爆発してしまった。
彼女が悪いんじゃない、俺が悪い。俺が焦っていたから……でもさぁ俺が悪党の脅しに屈せずに黙っていたところ良かったよね? まぁ彼女が聞いていたのか聞いていなかったのか、わからない。そこは聞いていて欲しかった。いや、聞いてよ。そこは好感度ポイントがあがる数少ないところなんだしさ。あの人は私のためにそこまで! とか感動する場面でしょ? 男に惚れるところでしょ? 俺は漫画やアニメでそういうところをいっぱい見てきたんだけどなんでそうならないの?
しかしあの反応からして嫁宣言発言のところで戻ってきた可能性が高い。なんてタイミングが悪いんだ。というか俺はいつだってそうだ。いっつも変わったばかりの赤信号で待たされるんだ。まぁそれもさ俺が黄色に変わった途端に走って結局間に合わず待たされるというパターンだが、これは俺の要領の悪さを象徴するよな。先を見通して計算して歩けばいいのに焦って無駄に走って嘆いて、馬鹿だよなこいつ。あったまわる! 一事が万事でだから仕事もできないんだよこんのマヌケ!
あぁもう、俺は君のことを絶対に喋らないあたりのところで戻ってくれていれば……そこは後悔してもしょうがない。説明しようにもそれはカッコ悪いしダサいことだ。俺にだって羞恥心がある。自らポイントアピールとかしたくない。逆に下がりそうじゃん! でも俺は君のためにこんなことをしたんだよとスマートに感じよく言えるのってある意味でモテる男仕草かもしれんが、俺にそんな高等コミュニケーション芸当が出来るはずがない! やったらねっとりとした卑しさといやらしさに満ち満ちた恩着せがましさで有難味0な迷惑仕草になるであろう。プラスにマイナスを掛けたらマイナスになるってつまりこういうことだよね? うーむこちらがアピールしなくても察して欲しいのだがその望みが薄いのが辛い。他に誰かがいれば代わりに伝えてもらえるとかができるのに二人きりだと出来ないという歯がゆさ! 一対一って大変だ。
ああ俺達はもう駄目なのかな……けれどあれだ、行くよと言ってくれたんだよな、と沼底まで沈みつつあった俺の意識が浮上し始める。おっ一本の藁が浮かんでいるぞい! これにしがみ付いていくぜ! ……うん、そうだ、彼女は俺と一緒に逃げようと声を掛けてくれた。あんなに怒ったあとなのに。これは俺のことが好きだから……なわけがない。俺だっていい歳をした大人だ都合よく簡単に惚れられるなんて期待なんか抱かない。
そうあって欲しいがそんなことは有り得ないと分かっている。俺は他の男と違って弁えているんだ! すぐに若い女から好意を持たれるのはファンタジー的妄想か金目当てまたは勧誘だとは知っている。ファミレスの奥の席に座らされ囲まれる恐怖とか二度と味わいたくないだろ。だけどシノブと俺にはそういう関係性がない。俺は彼女に見捨てられても文句は言えない関係なんだ。よってあの時も俺を置いて一人で行っても良かったんだ。わざわざこんなのに声を掛ける必要はない。あのタイミングなら何も言われなかったら俺はついていけなかった。
俺はそこまで図々しい恥知らずじゃない。引くべき時は引けるのだ、たぶん。そのあとは酒を買いに行く途中に死ねばいい。前世みたいにな! だが結果的にそうならなくこうして俺達は旅を続けている。これはつまりこうだ。あんなに怒ってはいたが致命的には嫌っているのではないということ。
それならよかった、と俺は胸をなでおろした。そうだ俺ぐらいになると若い女からは好かれていないとしても嫌われなければそれでよしでその現状に満足するしかない。俺よ、立場を弁えよ。美少女とおっさんはそれぐらいの格差があるのだ。そう自らに言い聞かせながら、それからシノブに声を掛けよう。あの宣言のついては触れないようにして戻ってきてくれたことについて感謝しよう、それは多分大事なことなんだ。使命と世界の運命に対して。
「あの、助けに来てくれて、ありがとう」
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